『新潮45』休刊問題 — 年の瀬にあらためて思うこと

小学生の頃は新潮文庫で育った。中学生になって揃えた大江健三郎全集も新潮社刊だった。高校生になって週刊新潮を読み始め、新潮社のもつ「穏やかなる文芸イメージ」が一変した。週刊新潮は、俗悪趣味・覗き趣味のの最たるものに思えたが、同誌掲載のヤン・デンマン(斎藤十一)や山本七平(イザヤ・ベンダサン)の辛口コラムが教えてくれたように、人の多面性や真理の相対性を認識することなくしてこの社会を正しく観察することはできない、という厳然たる事実を叩き込んでくれた。それもまた「文芸」(または文化の創造者)の無視できない重要な役割で、おそらくエミール・ゾラが「居酒屋」によってフランス社会にもたらしたといわれる衝撃も、週刊新潮の姿勢に通ずるものがあったろう。
 
『新潮45』が、「人権」が金科玉条となった社会に逆行する記事を掲載したという「罪」で断罪され、休刊に追いこまれてから2か月余り経った。あの時は「新潮社が人権を軽視するなんて」「LGBTを傷つけるなんて」という声にだんまりを決めこんだ人も多かったように思う。執筆者のなかにも連載の中止や著作引き上げを明言する作家もいた。だが、こうしたアンチ新潮45キャンペーンの流れは、清濁共に人の本性であり、自分たちとは相いれない俗悪なものもこの社会の一部だという「あたりまえ」を葬り去ろうという全体主義の悪徳と同質である。
 
沖縄では、ジュリ(尾類=遊女)の祝祭を模した辻町の「ジュリ馬スネー」という伝統行事を「女性差別である公娼制度を認めるもの」と決めつけ、これを中止に追いこんだ人々がいた(1989年)。行われていたジュリ馬スネーが伝統行事に相応しいかどうかについては議論もありうるが、「中止せよ」という要求は納得できるものではない。こうした言説は、ありもしない「予定調和」への過信以外のなにものでもなく、政治的・社会的には言論・表現の自由に対する抑圧としてしか作用しない。ところが、当時のメディアや識者はそのことをまるで指摘しなかった。ジュリ馬スネーはその後復活するが(2000年)、復活までの11年間に、糸数カメなど土地の古老や元ジュリの多くが鬼籍に入ってしまったから、伝統行事としてのあり方を見直すための契機も失われ、「観光行事」の色合いを強めている。
 
『新潮45』掲載の杉田水脈論考、小川榮太郞論稿に対する批判はありうる。ありうるが、「生産性」や「痴漢」という表現に拘った批判など、「ちんば」「びっこ」「屠殺」なる言葉を葬ったかつての差別語禁止語キャンペーンと同じく本質的なものとはいえない。問題の核心は「LGBTの人権」と「人権一般」との制度的な調整にあり、より具体的には財政問題として論じられるべきテーマであった。杉田・小川両論考が「便所の落書き、つまり心の中の差別感情の表象であり、それだけで十分人権侵害である」といった議論が、制度的な改善に馴染まないことは明らかであったにもかかわらず、人々もメディアも彼らの差別感情を「発掘」し、糾弾することで充足してしまった。心の中の差別感情など誰も規制できない。まして雑誌を休刊に追いこめば規制できると信ずる人々がメディアの主潮流を成していたかと思うと愕然とする。彼らのいうように杉田や小川の「主観」がたとえ俗悪と感じられたとしても、「俗悪なるものに蓋をすれば、世界は希望に満ちたものになる」と考えるのは甚だしい短絡であり、全体主義の指導者の発想に近い。
 
われわれはつねに批判され、貶められている。自分には見通せないところでも、不公平や差別に晒されている。社会的に改善が可能な差別や不公平もあるが、改善するための方策を見いだしにくい差別や不公平も少なくない。人々の誤解や偏見、一度は生まれてしまった負のイメージと闘うのは容易ではないということだ。変えられるのは、曖昧模糊としたかたちで形成される社会通念に裏づけられた制度的な不公平や差別だけあり、それ以上でもそれ以下でもない。良かれ悪しかれ「それでも地球は回ってしまう」のである。世界を変えるための有効な手段が簡単には見つからないからこそ、文芸的な文脈でも政治的・社会的な文脈でも、言論や表現の自由は最大限保障されてしかるべきであり、それが美徳と感じられようが、悪徳と感じられようが、言論と表現の多様性・多元性、人間の多面性は広く認められるべきだ。自分たちの言論・表現の自由は保障されて当然だが、他者の異論は制約されてもいいというのでは、けっして前に進めない。
批評.COM  篠原章
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