沖縄の真実(5) 壊された石碑〜薩摩藩士の琉球

かつて那覇は浮島の都、美しい町だった。その美しさを象徴したのが、ロワジールホテル那覇のある三重城から現在の明治橋にかけて連らなっていた小島群である。島々が石橋や堤防で結ばれた様は、中国からきた冊封使(中国王の遣い)や欧米の船乗りたちの旅情を誘ったという。

那覇の古地図(『沖縄歴史地図』所収)

那覇の古地図(『沖縄歴史地図』所収)

その小島のひとつ、上に掲げた古地図(『沖縄歴史地図』所収)では「臨海寺」と表記されたところに沖宮(おきのぐう・おきのみや)という神社があった。沖縄でも由緒ある神社のひとつである。明治末以降、那覇港はすっかり埋め立てられ今や昔日の面影もないが、沖宮は紆余曲折を経て現在は奥武山(おうのやま)公園のなかに鎮座する。ジャイアンツ球場(沖縄セルラースタジアム)が建設されたことで知られる公園だが、この奥武山も明治初期まで、那覇港の内側に広がる内海・漫湖に浮かぶ美しい小島だったという。

沖宮は、明治41年に那覇港から安里(国際通りの東端)に移設されたが、沖縄戦で消失、戦後に現在地へ移設されたから、奥武山という土地そのものとの結びつきは薄いが、敷地内とその周辺には由緒ある御嶽(ウタキ=聖地)なども点在している。

宮のなかを歩いていたら、茂みのなかの焼却用ドラム缶の影に古い石碑が立っていた。よく見るとふたつに割れてしまっている。誰かが割れ目を合わせ、周囲から石で支えたようだ。かろうじて石碑と認識できる状態である。「修復」にしてはずいぶん乱暴なやり方だ。石碑には漢文の碑文が刻まれていたが、風雪を経ているため、拓本でもとらなければ読めそうもない。

割れた古い石碑

割れた古い石碑

気になって社務所で訊ねた。

「あの割れた石碑は由緒あるものなんですか?」

「あれはウチの石碑じゃないんです。下の方にあるお墓に立っていたものだと思うんですが、誰かが故意に割って、ウチの敷地内に放置したらしいんです」

「じゃあ、石碑はそのお墓の主のものなんですね?」

「ウチのほうでもお墓の主に連絡をとって、引き取っていただくようお願いしたんですが、対応していただけなかったんです。で、あそこに仮置きしているんです」

「下の方にあるお墓」を探しに向かった。公園内の通路からすぐのところにあった。一礼してからなかを覗かせてもらった。お墓というよりも記念碑だった。小さな大和墓のようなものあったが、「平」と一文字だけ刻まれた石碑と説明文の入った石碑が建てられていた。

「平」と刻まれた石碑

「平」と刻まれた石碑

当間家の先祖 伊地知重陳は 八十六才の輝かしい生涯を、奥武之山で終えた。昭和四十八年五月若夏国体開催のため、墓を移すことになり、子孫一同の総意でゆかりの地、奥武之山に祈念碑を建立して、遺徳を永く偲ぶこととした。 昭和51年3月8日

 

説明文の入った石碑

説明文の入った石碑

おそらく子孫の方も現存されているだろうから、迂闊なことは書けないが、想像力をかき立てられる碑文である。

おそらくは王朝時代から沖縄と関わった薩摩藩士の家系であると推測できる。沖縄に薩摩藩士に関わる墓があるとは考えたこともなかった。それだけで十分驚きである。しかも「伊地知家」といえば薩摩の名家である。家譜も複雑多岐にわたっているだろうから人物を特定するのは難しいが、沖縄史に関わる伊地知姓でいえば、伊地知貞馨(いじちさだか /1826-1887年)が有名である。薩摩藩士としても明治政府官吏としても沖縄に関わっている。琉球在番(沖縄駐在)も務め、琉球処分にも立ち会っている。琉球王府から賄賂をとった咎で大久保利通に左遷された経歴もあるという。1878年には『沖縄志略』『沖縄志』という沖縄の地誌や歴史を扱った著作も発表している。「琉球処分」に備えた沖縄研究という見方もできるだろうが、貞馨が相当な沖縄通であったことは確かなようだ。

詳しいことはわからないが、名に「重」とあるのは貞馨とは別系統の伊地知家である可能性が高い。1609年の薩摩による琉球侵攻からしばらくたってから、現在の那覇市西に御仮屋とも呼ばれる薩摩の在番奉行所が置かれ(那覇市西1丁目2−16 琉球光和ビル付近)、20名程度の薩摩藩士が常駐していた。支配者として威張り散らす藩士もいたようだが、琉球に馴染んで島々を愛するようになった藩士も少なくなかったという。奥武山の碑文に刻まれた重陳氏が、どんな由来をもつ人物かはわからないが、こうした薩摩藩士の家系なのだろうか?それとも唐人の子孫たちの住んだ久米の隣町・若狭にあったというヤマトンチュー租界の住人が先祖なのだろうか?そして、当間姓を名乗るようになったのはなぜなのだろうか? いずれにせよ何らかの事情で、伊地知重陳氏の先祖は沖縄に住みつき、その子孫たちが家名を誇りにしつつ、当間と改姓して繁栄していることはまちがいない。

他方で、その伊地知家に伝わると思われる石碑を破壊した人物もいる。それも最近のことだ。その人物は薩摩による支配を許せなかったのだろうか? その恨みは薩摩侵攻から400年以上経った今でも爆発するほど根深いものなのだろうか? 当間家(伊地知家)の方々はなぜ壊された石碑を元に戻し、修復しないのだろうか?

次々と疑問が頭をかすめ、いたずらに想像は膨らんでいく。歴史が現在に交錯し、歪んだ時空が謎を深めていく。漢文の碑文を解読すれば、その謎も少しは解けるのかもしれないが、それはぼくの仕事ではない。ぼくは頭のなかで膨らんだ想像の産物をもてあましながら、かつて小島だった奥武山と那覇の中心部を結ぶ北明治橋を渡った。少しだけ憂鬱だった。

※ 「沖縄の真実(8) 壊された石碑〜続・薩摩藩士の琉球」で謎の一部を明らかにしています。

 

(2017年9月追記)
この記事は、大幅に加筆・改編して『外連(けれん)の島・沖縄―基地と補助金のタブー(飛鳥新社)』に収録されました。

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批評.COM  篠原章
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