「経済援助は不要」という翁長雄志那覇市長の沖縄独立論

(1)翁長那覇市長が怒っている

那覇市の翁長雄志(おなが・たけし)市長が朝日新聞のインタビューを受けた(11月24日掲載)。総選挙に合わせた「乱流」という特集ページで、9面四段抜きの比較的長尺の記事だ。インタビュアーは谷津憲郎那覇総局長である。

谷津総局長の仕事はよく知らないが、昨年11月28日に起きた田中沖縄防衛局長(当時)の「犯す」発言のときの対応について、佐藤優さんや『週刊金曜日』に批判されたことは知っている(佐藤優の谷津批判『現代ビジネス』2011年12月7日掲載/『週刊金曜日』の批判は2011年12月16日号掲載・リンクなし)。佐藤さんの批判は、沖縄に対する構造的差別という立場からの谷津・朝日批判で、いかにも佐藤さんらしい詭弁だったから(本サイト『佐藤優さんの構造的差別論批判』参照)ここではとくに取り上げない。今回のインタビューは、翁長那覇市長の怒りを巧みに誘導し、過去における沖縄県の首長インタビューにはない「問題発言」まで引き出している。なかなか読み応えのある内容だ。以下その抜粋を掲げる。

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—沖縄の基地問題をどうするのか。衆院選だというのに、本土で争点になっていません。

「オスプレイ反対で県民が10万人集まったって、本土は一顧だにしないんですよ。基地は、目に見えない遠いところに置けばいい。自分のところに来るのは嫌だ。アメリカには何も言わない。いつも通りだ。沖縄は困難な闘いを戦っているんです」

—普天間問題での鳩山由紀夫内閣の迷走で「あつものに懲りた」というのが永田町の感覚でしょう。

「ぼくは自民党県連の幹事長もやった人間です。沖縄問題の責任は一義的には自民党にある。(中略)ただ、自民党でない国民は、沖縄の基地問題に対する理解があると思っていたんですよ。ところが政権交代して民主党になったら、何のことはない、民主党も全く同じことをする」

「僕らはね、もう折れてしまったんです。何だ、本土の人はみんな一緒じゃないの、と。沖縄の声を合わせるように、鳩山さんが『県外』と言っても一顧だにしない。沖縄で自民党とか民主党とか言っている場合じゃないという区切りが、鳩山内閣でつきました」

−−−「いまはオールジャパン対オール沖縄だ。沖縄の保守が革新を包みこまねば」と発言していますね。

「沖縄の中が割れたら、またあんた方が笑うからさ。沖縄は、自ら招いたものでもない米軍基地を挟んで『平和だ』『経済だ』と憎しみあってきた。基地が厳然とある んだから基地経済をすぐに見直すわけにはいかない、生きていくのが大事じゃないかというのが戦後沖縄の保守の論理。一方で革新側は、何を言っているんだ、 命を金で売るのかと」

(中略)

−−−でも、利益誘導こそが沖縄の保守の役割なのではないですか。

「振興策を利益誘導というなら、お互い覚悟を決めましょうよ。沖縄に経済援助なんかいらない。税制の優遇措置もなくしてください。そのかわり、基地は返してください。国土の面積0.6%の沖縄で在日米軍基地の74%を引き受ける必要は、さらさらない。いったい沖縄が日本に甘えているんですか。それとも日本が沖縄に甘えているんですか」

「これはもうイデオロギーの問題じゃなく、民族の問題じゃないかな。(中略)ヤマトンチュになろうとしても本土が寄せ付けないんだ。(中略)日本の47分の1として認めないんだったら、日本というくびきから外してちょうだいという気持ちだよね」

「自民党政権になっても辺野古移設に反対ですかって、反対に決まっている。オール日本が示す基地政策に、オール沖縄が最大公約数の部分でまとまり、対抗していく。これは自民党政権だろうが何だろうが変わりませんね」

(2)米軍基地の撤去は沖縄と「日本」を幸せにする

翁長市長が怒っている。もっとも保守的と言われたこの老練な政治家までが、 那覇市には実質的な米軍基地負担がないにもかかわらず、今やオスプレイ反対運動の中心に立ち、「沖縄に対する構造的差別」を問題にしている。翁長さんのいうとおり、右から左まで一丸となって「日本」に対する対決姿勢を鮮明にしているように見える。

参ったな。完全に「沖縄vs日本」という対立の構図につかまっちゃってる。「日本が沖縄に甘えている」といわれれば、たしかにそうかもしれない。ぼくは、甘えているというより「関心が低い」といったほうがより適切だと思うが、四選を果たしたばかりだから、ご祝儀代わりに翁長さんの見解に敬意を表して「甘えている」としてもいい。日米のアンバランスな政治的関係、冷戦下の国際情勢の下で、沖縄に負担を押しつけてきた、という面も否定できない。沖縄の政治的リーダー、知識人、ジャーナリズムを批判するぼくでも、そのことはよくわかる。とくに1945年から1970年代までの沖縄の人たちの不安と苦悩、そして被害は、本土に住むわれわれの想像以上のものだったかもしれない。

が、 翁長さんは今でこそ普天間基地の辺野古移設に大反対するが、この前までこの移設案の有力な推進役だったじゃないか、といいたい気持ちもある。辺野古区の住民が移設を望んでいることもよく承知しているはずだ。経済支援はいらないと明言するが、政府からの補助金を県内の土建業界などに配分する際にもこれまで大 きな役割を果たしてきた人物でもある。「甘い汁を吸ってきた」とはいわないが、保守政界の重鎮として、沖縄の政治絡みのお金の行方も、政界の裏も表も知りつくしている政治家であることは間違いない。地方行財政の問題点も、基地反対運動の限界も、仲井眞さん(現知事)同様翁長さんもよくわかっているはずだ。

その翁長さんまでが、「もう堪忍袋の緒が切れたから独立を考える」と主張している事態を「異常」とみるのか、「当然」とみるのか。

結論からいおう。ぼくは「沖縄から基地を持ち帰る」決心をしたので(本サイト『ぼくは「沖縄から基地を持ち帰る」覚悟を決めた』参照)、翁長さんの主張は当然だと考える。翁長さんの怒りはもっともだ。早急に普天間基地をグアムか本土のどこかに移設すべきだ。というより海兵隊全体を沖縄から撤退させるべきだ。そうすれば沖縄は今より確実にハッピーになれる。

海兵隊撤退を進めれば、沖縄がハッピーになるだけではなく、「日本」全体もハッピーになる。なぜなら、日本政府の財政負担が大幅に削減されるからだ。海兵隊撤退と同時に、翁長さんの「沖縄に経済援助なんかいらない。税制の優遇措置もなくしてください」という主張を実現すれば、年間4,000億から5,000億と見積もられる沖縄関係経費の約半分は不要になり、簡単に見積もることのできない付帯的な経費も同様に削減される。そうなれば日本国民全体もハッピーになる。これで震災復興や社会保障の財源の一部が捻出される。一時的な基地移転経費はかかるだろうが、5年〜10年の中長期的な視点からいえば、沖縄で基地を維持するよりも安上がりだ。翁長さんのいうように、これで沖 縄は「日本の47分の1」になれる。 財政的な優遇措置がなくなれば他の都道府県とすっかり同等だ。優遇策の消滅で沖縄財政の財源は減るが、消費税増税分で都道府県(+市町村)の自主財源を増やせば、沖縄も「47分の1」として財源が増えるから、失われた補助金の一部も補填できる。なにより財政の自立性が高まるわけだから、沖縄は好きなように政策形成ができる。沖縄の抱える問題は、沖縄自身が解決できるようになる。

ぼくは、沖縄はてっきり基地負担と引き換えに経済支援を求めていると思いこんでいた。が、次期知事を狙っている翁長さんが「お金じゃない。そんなものはいらない」と明言したのだから、沖縄からの基地移転を粛々と進めればよいだけだ。これでもう沖縄は「47分の1」なのだから、政府も沖縄振興のことなど考えずに財源配分ができる。関係者はホッとするにちがいない。今後、政府は「普天間基地移設問題」を純粋に財政問題として考えればよい。深く政治に絡んできた沖縄の振興策についてもう配慮しなくともよいのだ。

待てよ。翁長さんの発言をよく見直してみると、海兵隊だけではなく米軍基地を沖縄から全面的に撤去せよというふうに聞こえる。オール日本の基地政策に反対する、ということはまさにそういうことだ。が、さすがに米軍当局もこれには「うん」とはいわないかもしれない。日米同盟や安全保障のことも考えれば、沖縄からの全基地撤去は日本政府にとっても好ましいことではない。だが、「オール沖縄」が米軍基地に反対している以上、われわれはこれ以上沖縄に「甘えてはいけない」のだ。早急に全基地を沖縄から引き上げる行程を考えるべきだ。すぐさま全基地を撤去できなくとも、原発廃炉のような長期計画(たとえば10年)で、 嘉手納基地など他の米軍基地も「日本」に移転する方針を明確にすればいい。莫大な移転経費はかかるが、沖縄に対する特別な財政支援が今後まったくなくなるのだから、中長期的な財政上のメリットは大きい。沖縄に配分されている年間4,000〜5,000億規模の財政上の優遇措置は理論的にゼロになるはずだから、従来より政府の財政に余裕ができる。批判の矢面に立たされている安倍さんの通貨供給政策だって、不要になるかもしれないし、ひょっとしたら消費税の増税幅を抑えることだってできるかもしれない。沖縄からの基地の全面撤去はお互いにいいことずくめだ。

そうであるなら、ぼくは、翁長さんの主張を断固支持したい。

(3)独立運動に変質した基地反対運動

いやいや、翁長さんの怒りはそれだけでは収まりそうもない。インタビューの後段では「独立」を口にしているではないか。なるほど、沖縄の独立は基地撤去にとっていちばんの早道かもしれない。翁長さんはこのインタビューで「日本の政治家は愛がない」ともいっていた。日本の「47分の1」になりたいといいながら「もっと俺たちを愛してくれよぉ」といっている。「愛してくれないなら別れる」というのが翁長さんの最終的な結論らしい。沖縄を代表する保守派の政治家が 「日本の政治家の愛」を求めていたとは驚きだが、独立を選べばたしかに「愛」とか「絆」とかいうこそばゆい感情に一喜一憂することもないだろう。住民投票などで沖縄が独立を決めるだけで、基地全面撤去のための政治的環境があっという間に整うではないか。独立こそ基地全面撤去のための最高の手段である。

そうか。わかったぞ。今までどうしてこんなに大切なポイントに気づかなかったのだろう。翁長さんなどの政治家、基地反対運動のリーダー、ジャーナリズム、学者など識者が「沖縄に対する構造的差別論」を掲げて追求しているのは基地の撤去ではない。沖縄の、日本からの独立だ。基地反対運動はもはや独立運動と見たほうがよさそうだ。

これによってつじつまが合う。最初は普天間の移設先は辺野古でOKといった保守政治家でさえ辺野古はNOといいだしたのは、基地削減を求めたからではない。本気で基地削減を求めるならNOとはいわないはずだ。辺野古への移設を実現することによって、基地削減のプロセスは確実に一歩前進する。辺野古区民が賛成し ているのだから、そもそも障害もない。だが、保革一体となって辺野古移設にNOをつきつけた。日米同盟や安保についての議論も事実上拒んだ。「負担ばかり押しつける日米同盟や安保は差別の象徴だ」といい、沖縄への「愛」がない本土に応分の負担を要求した。着実な一歩前進を拒み、一朝一夕には実現しない「基地の持ち帰り」を求めるようになったばかりか、「民族が違う」と主張し始めた。今や彼らが批判しているのは「日本による沖縄の植民地化・沖縄に対する差別」であって、基地負担そのものではない。40年間で10兆円以上という振興資金を配分しても、彼らがけっして満足しないその理由もすでに明白だ。「日本に復帰していいことはなかった」「お金で心を買えると思ったら大間違いだ」「われわれはそもそも民族が違うのだ」。翁長さんはそう主張している。だから保守も革新もない。翁長さんの言葉を信じれば、保革を問わず、「オール沖縄」が「日本」から離れることを望んでいる、ということになる。「日本」の一員でなければ日米安保に拘束されることもない。基地もなくなる。「日本」というくびき、日米安保という鎖から解放される。

ぼくは沖縄に存在する「階級社会」や「貧困」を批判し続けてきた。基地問題の解決も重要だが、基地を担保とした中央財源の配分が「公務員階級」を固定化し、貧困と貧困がもたらすさまざまな社会問題の解決を遅らせる原因になっていると、繰り返し述べてきた。こうした問題を解決して経済的な自立を促進することが基地縮小につながる、とも主張した。沖縄が「日本」の一部だと考えたからこそ、東京に住みながら沖縄の問題を考えてきた。沖縄の未来も考えてきた。だが、翁長さんの発言によって、ぼくの言動はお門違いだったとはっきりした。とんでもなく迷惑なお節介だと気がついた。沖縄は「日本」ではないのだ。独立を望んでいる「日本」の植民地なのだ。植民地として沖縄を差別してきたからこそ、日本政府は財政的・経済的にも沖縄を特別に支援してきたのだ。が、お金などでは彼らは納得しない。お金は差別を正当化し、助長するものにすぎなかったのだ。もう独立しかない。「オール沖縄」がそう考えるなら、ぼくは沖縄の独立を断固支持する。先に触れたような財政上の理由から、沖縄の独立は「日本」にとってももちろんプラスだ。防衛戦略見直しや企業のビジネス上の戦略や手続きの見直しなど種々の手間はかかるだろうが、 沖縄が「日本」地図から消えても、おそらく大半の「日本人」は困ることはない。尖閣問題もたちまち消滅する。

(4)「オール沖縄」が独立を望んでいるのか?

沖縄独立への道程について、ヤマトンチュのぼくがもう口を挟む余地はない。それは沖縄の人びとが決めることであって、住民投票で「オール沖縄」の意思をあらためて確認すればいい。独立運動が盛り上がるスコットランドを見本に、「2年後に住民投票」といったスケジュールを決め、独立派が地ならしをするのもひとつの手だろう。「日本」側には沖縄独立に反対する勢力が出現するが(埼玉出身だが、沖縄出身と自称することもある佐藤優さんがその先頭に立つだろう)、沖縄の住民の意思が何よりも尊重されることになるだろう。

独立により当面の間、沖縄は基地削減や経済関係などに関連した対外折衝に苦しむだろうし、基地従業員や基地関係・沖縄振興関係の補助金に依存する業者の多くは失業するだろう。徹底した公務員改革(リストラ)も必要になる。その結果、従来より高い失業率や国民(県民)所得の大幅な低下を経験せざるを得ないだろうが、植民地の独立に犠牲はつきものだ。民族の誇りが揺るぎないものである限り、なんとか乗り越えられるはずである。

ただし、もっとも根本的なことだが、沖縄県民は本気で独立を望んでいるのか、という疑問が残る。次期知事を狙う翁長さんが明言するのだから疑いたくはないが、 政略として「沖縄独立」をいっているなら、それは許されない。「オール沖縄」対「オール日本」という構図を全面に出すということは、沖縄の意思は強固だと表明しているのと同じことだ。「オール沖縄」の意思が独立とは別のところにあるとすれば、ことさら「独立」を強調する必要性はまったくない。独立をいいだすからには、「オール沖縄」の覚悟が出来上がっているとみるのが自然だが、もし沖縄県民が独立を望まないという結果でも出たら、誰が責任を取るのだろうか?沖縄は真っ二つに分かれる。沖縄は泥沼化する。そうなったら、いかなる事態収拾の手段があるのだろうか?ぼくには皆目見当がつかない。

正直にいえば、沖縄問題に関して「オール日本」が「オール沖縄」に対抗していると考えている「日本人」はほとんどいない。「日本人」の大半は沖縄に関心はない、というのが実情だ。「沖縄に申し訳ない」「沖縄に対して贖罪の意識を持つべきだ」と考えている人もいるが、それは少数派である。ほとんどの「日本人」は、基地を沖縄に押しつけているという自覚もない。沖縄を差別しているという認識もほぼ皆無だ。おそらく翁長さんたちは、「日本人」が沖縄県民に関心がないことを問題にしたいのだろうが、大半の「日本人」は福島県民にも大きな関心はない。今や景気の後退こそが最大の関心事で、「沖縄も福島も大変だ」と感じてはいるだろうが、それは同情以上のものではけっしてない。が、「沖縄と福島とどちらが大変に見えるか」と問えば、ほとんどの人は福島の被害をより深刻に考えるだろう。福島の被害は命と暮らしを明らかに脅かしているが、オスプレイや米兵の犯罪、辺野古への普天間基地移設問題が、沖縄に深刻な被害を与えていると「日本人」は実感できないからだ。沖縄の政治的リーダー、識者、ジャーナリズムが、オスプレイや米兵の犯罪を例に出して被害の甚大さを訴えれば訴えるほど、「日本人」はしらけてしまうのである。「沖縄と福島は違う」と感じてしまうのである。

いずれにせよ翁長さんのいう「オール日本」には定まったかたちがない、つまり実体がない。翁長さんの「オール沖縄」は実体がないものに対峙している。翁長さんの「オール沖縄VSオール日本」という対立の構図は幻に近い。対立があるとすれば「オール沖縄VS日本政府」という構図である。その対立軸は「辺野古移設」「オスプレイ配備」「米兵の犯罪」ということになるが、辺野古区民が賛成する辺野古移設に名護市や沖縄県が反対する理由は必ずしも明確ではない。辺野古移設が基地削減にとってやむをえざるプロセスであるという合意があったことも、今や忘れ去られている。オスプレイ配備や米兵の犯罪は、客観的かつ冷静に対処すべき問題なのに、感情がぶつかり合い議論は空回りするだけだ。

もちろん、沖縄の基地問題を放置してきた「日本人」の側の責任は大きい。が、沖縄の側にはまったく責任がないのだろうか? 沖縄は被害者の立場を主張するだけで、「被植民者」の苦しみを訴えるだけで、膠着した事態が動くと本気で考えているのだろうか?

だからこそ、今回、翁長さんが経済支援を不要だと拒み、独立を示唆したことはきわめて大きな前進だとぼくは考えている。実質的に基地負担のない那覇市長の発言ではあるが、「沖縄問題」の解決のためのあたらしいページを開いてくれたと思っている。「オール沖縄」が独立を望むなら、それ以上の解決策はない。お互いに家族でなくなれば、つまり赤の他人になれば問題は解消するということだ。そうであれば、人に何をいわれようとぼくは翁長さんを応援する

が、翁長さんが本気で「独立」を口にしていないなら、あるいは独立が「オール沖縄」の意思でないなら話は違う。 まして翁長さんが次期知事選挙に出馬するための政略の一環として独立を口にしているとすれば、それは沖縄県民と「日本」国民に対する侮辱と裏切り以外のなにものでもない。本気の独立論でないなら、翁長さんは沖縄の歴史にその悪名を刻むことになってしまう。まさかそんなことはないと思うが、ぼくは翁長さんの動向をこれからも注視する必要を痛切に感じている。

(2017年9月追記)
この記事は、大幅に加筆・改編して『外連(けれん)の島・沖縄―基地と補助金のタブー(飛鳥新社)』に収録されました。
批評.COM  篠原章
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