「いわゆるリベラル」の凋落についてー津田大介氏の分析をめぐって

津田大介氏が、8月12日付「ハフィントン・ポスト」に掲載された鳥越俊太郎氏のインタビューに触れながら、現代日本の政治風土を分析しています(10月8日付「ハフィントン・ポスト」/執筆者クレジットはRyan Takeshita ・安藤健二)。
大雑把な言い方ですが、半分ぐらいの認識は津田氏と共有できます。残りの半分は「そりゃ、違うんじゃないの」と思います。以下、認識を共有できる点と共有できない点を掲げておきます。

【補足1:「リベラルVS保守」という図式への懐疑】
現在多くの人が政治を語るときに多用する「リベラル」という言葉や「保守」という言葉の定義や用法には異論がありますので、ここでは「いわゆるリベラル」「いわゆる保守」という表現を使いました。
津田氏に限らず、「リベラル」(左派)「保守」(右派)という区分けをする議論自体に、あまり積極的な意義を見いだしにくいというのが、私の出発点です。古典的なリベラリズムは、保護(貿易)主義、ファシズム、ナショナリズムなどに対置される用語でした。その後、資本家側が保守、労働組合側が革新=リベラルという区分けに転ずるのですが、実態を見ると社会保障の充実や労働政策の改善の担い手となったのは保守勢力であり、その意味では、日本における最大のリベラル勢力は、曲がりなりにも福祉国家をつくってきた「自由民主党」ということになります。つまり「リベラルVS保守」という区分けは、あまり意味をなさないと思います。安倍政権は、しばしば経済団体に賃上げを要求していますが、日本の保守政権で、賃上げ要求をこれだけ繰り返している内閣は、安倍政権が初めてだと思います。民進党などいわゆるリベラルが、経済団体に面会して賃上げを要求する場面など見たこともありません。今の日本の場合、保守とリベラルをあえて区別する標識があるとすれば、憲法9条を含む安保政策とエネルギー政策しかありません。国際的な基準で見れば、少々歪んだ構造になっていると思います。
津田氏やこの原稿のライターの方々は、右派・左派に関するこうした経緯を必ずしも理解していないと思います。今でも便宜上、右派左派という用語を使って語ることはできますが、政治風土を語る場合の本質は別のところにあるというのが、僕の考え方です。

まず、共感できる点。
1.「日本のリベラルは現実に負けている」
津田氏は「日本のリベラルは現実に負けている」(鳥越俊太郎氏の言葉)という認識に共感していますが、これについてはまったく同感です。現実に対する分析が「なっていない」というのが、「いわゆるリベラル」の側の実情だと思います。津田さんも指摘していますが、「いわゆるリベラル」は、こうした失敗をきちんと反省も総括もしません。反省や総括がなければ次に進むこともないでしょう。
2.「保守はマメ」
津田氏は「保守はマメ」と発言していますが、これもその通りだと思います。現代の「いわゆる保守」は、明治維新後の日本の歴史についても、現代日本の諸制度や国際関係についても、「同時代を生きる人間」としての意義を汲み取ろうとする意欲が強いと感じています。
かつては戦前的な価値観を覆し、「戦後民主主義」という新しい価値体系を打ち立てようとするのが、「いわゆるリベラル」(革新)の役割だと考えられていました。ところが、戦後日本という既成の価値観に対して革新的であろうとするのが「いわゆる保守」で、既成(戦後日本)の価値観に対して保守的であろうとするのが「いわゆるリベラル」になっています。「いわゆる保守」側のこうした動きを、「いわゆるリベラル」は、「復古主義」あるいは「戦前体制への回帰」と批判しますが、現在の「いわゆる保守」は、戦後民主主義によって育まれた勢力であり、戦後民主主義という土台から次のステップへと飛躍する運動だと思います。
3.「リベラルはスマホを受け入れない」
スマホは一例だと思いますが、「いわゆる保守」が技術革新に対して積極的肯定的であるのに対して、「いわゆるリベラル」には技術革新に対して消極的否定的な傾向が強いと思います。それはたんにネット上・IT上の技術や技能だけではなく、現代日本を育んできた技術全般について、「いわゆる保守」のほうがその成果を前向きに捉えていると思いますし、技術一般に対する理解の水準も「いわゆるリベラル」より高いと思います。
「いわゆる保守」も原発のリスクは承知しています。長期的な脱原発を目指す人もかなりの多数に上ります。が、彼らの多くが、現実に発生した被害を(技術的に)どう処理するのか、将来に向けての廃炉を(技術的に)どう推進していくのか、といった点について、「いわゆるリベラル」より高い情報収集力と分析力を持っているため、「反原発」をスローガンにすることはありません。「いわゆるリベラル」の中には、「段階的脱原発」を主張するだけで、「お前はネトウヨ」扱いしたがる人がいますが、それでは議論は成り立ちません。

【補足2:「原発」に対する保守側の考え方】
安倍政権は発電量で「原発3割」を想定していますが、日本のエネルギー需給の現状を見ると「原発10%〜15%」で十分ではないかと思います。この数値は長期的にはさらに引き下げることができます。その代わり、廃炉費用も含めた発電コストは今後も上昇します。それさえ覚悟すれば、長期的な脱原発は可能だと思います。安倍政権は原発プラントの輸出に熱心なようですが、エネルギーに関する技術開発は、実態として原発分野から自然エネルギー・再生エネルギー分野にシフトしており、ビジネスとしても後者のほうの利が優ると思います。石炭発電の省エネ技術や電力会社ごとの電力融通システムも進歩しつつあり、エネルギー業界の「原発信仰」は、以前とは比べものにならないほど弱くなっています。政府もこうした現状を把握していますから、脱原発宣言をする環境は徐々に整えられています(ただし、太陽光パネルによる発電は、自然環境を破壊しつつありますから、これ以上の普及は危険です)。「CO2削減目標」もあり、将来的な脱原発という方向性を確認した上で「最低限の原発」は当面残さざるをえないでしょうが、安倍政権が「原発再稼働や原発ビジネスに邁進する」可能性は低くなると思います。

4.「リベラルがマスメディアで多数派を形成」→「リベラルが既得権益化」
マスメディアが「リベラル」な傾向が強いため、「リベラル業界」のようなものが生まれているといった津田さんの認識はまったく正しいと思います。「いわゆる保守」は、特定の階層や特定の利益集団を代表していません。幅広い階層、幅広い業種・業態に分散しています。ところが、「いわゆるリベラル」は、マスメディアや知識人層、文化関連の業種・業態、あるいは地方公務員層などに深く浸透していますが、その他の階層、業種・業態に対する浸透力は弱いと思います。自民党が圧勝する背景にはそうした理由があると思います。
現代左翼思想の最先端にあるアントニオ・ネグリは、「(経済的に恵まれない)知識層があらたな階級闘争の担い手」といっていますが、まさにその通りなのが現代日本の現状です。高等教育の大衆化とともに知識層が特権を有する時代は終わりを告げたのに、その特権を回復しようとする「保守的」な勢力こそ、現代日本の「いわゆるリベラル」なのです。

共感できない点。
1.「保守派の左傾化」という視点の欠落
津田氏は、「世の中が保守とか、右のほうに行きすぎたら、その反動もいずれやってくると僕は思いますけどね」と発言していますが、津田さんの現状認識にいちばん欠けているのは、「保守派の左傾化」という視点です。「現代日本は右傾化している」という通俗的な見解に身を委ねている側面が強いと思います。
1970年代以降、いわゆる社会主義政党だった社共両党の「社会保障・医療・福祉の充実」という「お株」を自民党が奪い取り、「福祉国家」の建設に努めてきました。社共両党にいわせれば「それでは不十分」となりますが、限られた国家予算・社会保障予算の中で、できることは大方実現してしまったというのがこれまでの歩みです。社共両党が政権でも取って好きなようにやっていたら、日本の財政はとっくの昔に破綻していたでしょう。
1980年代以降のいわゆる新保守主義の台頭は、「資本主義の社会主義化」を恐れた保守層からの反動でしたが、彼らの主張が全面的に受け入れられるわけではありません。なぜなら、社会保障水準、医療水準、福祉水準の切り下げは、有権者の支持を失ってしまうからです。「いわゆるリベラル」の存在が「福祉国家」を後押ししたのも間違いありませんが、「福祉国家」形成の先頭に立っていたのは「いわゆる保守」でした。これによって「いわゆるリベラル」の「存在意義」あるいは「仕事」が失われてしまったのです。「いわゆるリベラル」の側のこうした敗因を的確に認識せず、「日本社会は右傾化している」などという言説をそのまま受け入れるのは、時代の方向性を見失わせることになります。
2.「日本の労働運動はテクノロジーを敵視してきた」
津田氏は「日本の労働運動はテクノロジーを敵視してきたからIT難民になった」といいます。必ずしも間違いではありませんが、事態の深刻さを的確に捉えていません。自民党による「福祉国家」の出現により、労働運動自体が労働運動存続のための運動に成り下がってしまった、もっといえば既得権益化してしまったから、支持を失ってしまったのです。労働運動の分裂、加入率の凋落がその証拠です。ITやテクノロジーだけの問題ではありません。経済社会全般の流れを正しく読むことができなかったことこそ、労働運動の最大の失敗です。彼らはバブル時にもなにもせずただ浮かれていただけでした。
3.「ネトウヨが強くリベラルや中道が発言しにくい」
数で優る「ネトウヨ」がリベラルや中道を集団で攻撃するから、保守オンパレードの世論になるというのが、津田氏の認識ですが、一言でいえば、「リベラルの勉強不足」が敗因です。TV朝日「報道ステーション」、TBS「サンデーモーニング」、東京新聞といった、目配りの偏ったメディアからの情報は、限定的であり、一面的です。物事を多角的に考える材料とはなりにくいと思います。
多様な情報にアクセスし、かなり高度な議論を展開できる「リベラル」や「反差別運動」の人たちも存在しますが、こうしたレベルの高いリベラルはあくまで少数派で、マスメディアが育てたリベラル多数派は情報不足のためついていけない、というのが現状です。ネトウヨにも「思いこみ」はたくさんありますが、リベラルの「思いこみ」のほうが始末が悪い。なぜなら彼らの「思いこみ」は、マスメディアが創りあげた既成の「通説」「風説」「俗説」に基づいていることが多く、既成の価値観を疑うことを知らないからです。「いわゆるリベラル」は「いま問われているのは既成の価値体系だ」ということに気づいていないのです。「発言しにくい」のではなく「発言する能力に劣る」「情報収集を怠っている」のが真相です。「いわゆる保守」に向けて、「反知性主義」というレッテルを貼った識者がいますが、「いわゆるリベラル」こそ「反知性主義」と論難されるべきでしょう。

批評.COM  篠原章
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket