1970年代の渋谷界隈—はっぴいえんど、遠藤賢司、山下達郎etc.

「渋谷は若者の街」といわれはじめた頃に渋谷に住み始めた。高校生だった。渋谷パルコができ、「公園通り」がもてはやされるようになった時期である。

百軒店のB.Y.G

百軒店のB.Y.G(写真参照↑)では、まだ風都市(はっぴいえんどのマネジメント組織)がブッキングを担当し、鈴木慶一さんがアルバイトでウェイターをやっていた。 ジァンジァンでは、淡谷のり子さんがブルースを歌い、高橋竹山さんが三味線をかき鳴らしていた。松岡計井子さんがビートルズを歌いはじめ、山下達郎さんのシュガー・ベイブが稀に出演していた。

背が高いビルといえば、東側の東急文化会館(ヒカリエの前身)、西側の東急プラザ、そして駅前の数軒のビルと、西武百貨店ぐらいだった。東急文化会館は、 階上にプラネタリウムが併設されていたから、いちばんのっぽに見えたが、実際は東急プラザと同じく8階建てだった。東急文化会館には東急系映画館が入っていたが、ロードショーにお金を払う余裕のないぼくたちは全線座(現在は渋谷東急イン)で二本立てを見た。

当時の住まいは、南口から国道246沿いに徒歩10分ほど歩いた南平台町内にあった。近くの南平台アパートには、エンケン(遠藤賢司)が住んでいた。木造の古めかしい建築だったが、エンケンが住んでいるというだけで光り輝いて見えた。

美濃部亮吉元都知事の私邸もその近くだった。犬の散歩中に雨に降られた美濃部さんに傘を差しだし、自宅まで送ったこともある。月光仮面の川内康範さんや女優の乙羽信子さん、作曲家の浜口庫之助さんなどの姿もときどき見かけた。川内さんの耳の毛は噂通りとても長かった。

渋谷駅からの帰り道は、いつも円山町を通る遠回りのコースを選んだ。円山町とは渋谷道玄坂上に広がる旧花街である。
ぼくはこの手の街に佇んでいると心の平安を取り戻すことができる。癒しすら感じてしまう。前世の自分はいったい何者だったのだろう。芸妓に入れあげて身上を失った常連客か、心付けを頼りに暮らすお茶屋の下足番か、はたまた身を落としながらも儚い夢を追いつづける娼妓なのか。あらぬ想像に身を任せるのも、花街巡りの楽しみである。

円山町一帯は、現在と同様ホテル街だったが、当時はラブホテルよりも通称「逆さくらげ」といわれる連れ込み宿のほうが多かった。好奇心の塊だった高校時代のぼくは、後ろめたそうな男女のカップルに出くわす狭い路地を、どきどきしながら通り抜けるのが好きだった。性的な体験は浅かったので、あの路地に足を踏み入れること自体がちょっとした性的冒険だったのだ。

道玄坂上右手の交番から旧山手通り方面に向かって斜めに抜ける一方通行があるが、その通り沿いに、芸者さんたちの稽古場があった。三業組合の事務所だったのか、芸妓会館のようなものだったのかは忘れたが、午後になると木造二階建てのその建物からしばしば三味の音が聞こえてきた。タイムスリップしたかのような、文字通り異空間にいるかのようなあの感覚が好きだった。

夏の日。日暮の声がうるさいほどだったから盛夏、それも暮色も迫る夕方のことだ。いつものように三味の音が聞こえる稽古場の横を歩いていたら、すっかり装いを整えた20代後半の芸者さんとすれ違った。

その瞬間、彼女は小さな声で「あっ」と叫んだ。声の方角を見たら、草履の鼻緒がとれている。片足立ちしながら、切れた鼻緒になにがしかの細工を施し、彼女はそのまま路地へと消えていった。なんという美しさ。絵に描いたような前近代。茶髪で長髪、ロンドンブーツにラメのTシャツという出で立ちをしていた当時のぼくには、まったく不似合いな体験だったが、今もあのときの感動を忘れることはできない。

女装の男娼も出没するホテル街の路地を抜けると、当時もまだ何軒かの料亭が残っていた。夜ともなれば、料亭の周辺の道路は黒塗りのハイヤーで埋まった。政治家たちの“密談”の場所は、赤坂や新橋の料亭と相場は決まっている。円山町くんだりで“密談”するのはいったいどこの連中だろうと長く訝っていたが、最近になって円山町は警察官僚の裏庭だということを知った。警察が料亭とは思いもつかなかったが、彼らにしてみれば、華やいだ赤坂や新橋ではなく、花街としては二流の円山町に繰りだす分には世間も許してくれる、と思っていたのかもしれない。綱紀にうるさい現在であれば、それがたとえ円山町だとしても国民から非難囂々だろうが、もはや古き良き時代の一齣にすぎない。

円山町町会のホームページを見たら、もう料亭は一軒しかないとのことだった。それにちょっと格上のおでんやが一軒。芸姑さんはもうひとりもいない。芸の伝承が必要だと言っている人はいたが、芸姑がいない状態で伝承できるわけがない。芸姑に代わり素人が伝承することにも意味はない。

名曲喫茶ライオン

名曲喫茶ライオン

思えば、 初めて入った名曲喫茶も(ライオン)、初めて入った名画座も(全線座)、初めて入った成人映画館も(テアトル渋谷〜写真は跡地)、初めて入ったライヴハウスも(B.Y.G)、初めてデートで待ち合わせた喫茶店も(時間割)、 初めて入った連れ込み宿も(旅館名不詳・円山町)、初めておかまを見かけたのも(円山町)、初めて入ったトルコ風呂も(店名不詳・円山町)、みな円山町を中心とした渋谷界隈だった。渋谷という街でひと皮むけ、ふた皮むけながら成長を重ねてきた。

テアトル渋谷(跡地)

テアトル渋谷(跡地)

時代の流れとともに街のかたちは変わる。それは避けられないことだが、ヒカリエができ、副都心線と東急線がつながった渋谷にはもう興味はない。かといって、かつての渋谷に対するノスタルジーもない。時が過ぎ、人がすぎ、心が変わる。ただそれだけのことだ。ただそれだけのことのなかに渋谷という街が浮かんでい る。渋谷という街が歴史の断層に埋もれていく。

嗚呼、円山町で一杯飲みたい気分になってきた。

miao

批評.COM  篠原章
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