エイサー考

※エイサーのあり方について学生から質問を受けました。ここ2年ほどエイサーとはご無沙汰ですが、わかる範囲で、学生向けの簡単なエイサー論を書いてみました。誤解などあればご指摘ください。

【芸能は変化を重ねて生き残る】

 いかなる芸能・芸術も、時代の移り変わり、人の移り 変わりとともに訪れる変化の波からは逃れられませんし、その変化の受け入れ方に応じて「進化」も経験します。クラシック音楽から歌舞伎まで、その原初的形 態とは似ても似つかない部分があると思います。最も基本的な約束事さえ変わっていきます。変化や進化が「よいこと」かどうかについては、議論があると思い ますが、少なくとも変化がなければ生き残れません。生き残ることは正しいことです。そういう意味では、変化は歓迎すべきものですが、一つだけ条件がありま す。その変化が人びとに受け入れられるか否かです。芸能芸術はそれを受け入れ、楽しむ聴衆が存在しなければならないからです。

【観光エイサーにも意義がある】

 「観光エイサー」には「観光民謡」と同じくレベルの 低いものもあります。舞手の意識からして異なりますから、技量などの高低や美醜も問われません。が、どのようなエイサーでも、芸能の入り口としての存在意 義はあります。これまでエイサーを知らなかった人たちがエイサーを知る機会になるからです。芸能の底辺が広がることはよいことです。ただし、よりレベルの 高いエイサーが存在することが条件です。この世に観光エイサーしか存在しなくなったら、その時点でエイサーは終わりです。ただ、今のところその可能性は高 くはありません。道ジュネーという地域の伝統行事が生き残る限り、エイサーは今後も継続します。その道ジュネーも10年前、30年前と比べれば、別物にな りつつありますが、地域の伝統行事としての性格を残しつつ、新しい要素を採り入れ、少しずつ変化してきたと考えられます。

【エイサーが生き残るためには“新しい要素”が必要だ】

 ただし、エイサーの指導者の姿勢が問われる場面も 多々あると思います。新しい要素さえ採り入れればエイサーが生き残るわけではありません。地域エイサーの個性やパワーを高めるための工夫として新しい要素 が求められるのです。それがまた地域の人びとによって受け入れられなければなりません。新規性や珍奇性を求めるのが目的ではなく、エイサー本来の力を維持 するのが目的だということです。変化はそれ自体が目的ではないということです。伝統を知りつくしながら、高い想像力と創造力を備えている指導者に恵まれれ ば、エイサーはまだまだ伸びる余地があると思います。大切なことは、「伝統を知りつくした上で、伝統に縛られない」という姿勢を指導者が持ちうるかどうか です。

【エイサーとりんけんバンド】

 抽象的な表現ばかりでわかりにくいかもしれませんの で、一例を挙げましょう。たとえば近年のエイサー人口が拡大した背景の一つにりんけんバンドの活躍があります。りんけんバンドはそのレパートリーの約三分 の一がエイサーです。それも新作エイサーです。エイサーのリズムやビート感を土台としつつ、まったく新しい作品を送り出しています。作品によってはペンタ トニック(琉球音階)すら使っていません。そうした姿勢を保ちながら、各地の祭りやエイサー大会に積極的に出演しているうちに、各地のエイサー指導者が刺 激を受け、衣装も踊りも音楽もりんけんバンドに倣うようになりました。りんけんバンドのフロント(エイサー隊)は、最強といわれた園田エイサーのリーダー 経験者が採用されてきました(現在の園田エイサーは少々低迷しています)。エイサーを知りつくした男たちが音楽を知りつくした照屋林賢・上原知子にプロ デュースされることによって、新しいパフォーマンスを生みだすことに成功しました。それを観た多くのエイサー関係者がエイサーの力を再認識したということ になると思います。ちなみにりんけんバンドの衣装は伝統に忠実なものではありません。上原知子のデザインですが、地域エイサー・観光エイサーの衣装はこれ に大きな影響を受けています。りんけんバンドのこうした功績はあまり語られていませんが、エイサーにとって彼らの貢献はきわめて大きいものだと思います。

eisa

【伝統は保存すべきか】

 「伝統の保存」も大切な観点なのですが、伝統の保存が自己目的化してしまうと、その芸能芸術は保護されなければ生き残れなくなります。

 文楽(人形浄瑠璃)がいい例です。橋下徹市長の補助 金カットが話題になりましたが、文楽はもはや政府や自治体の補助金なくしては生きていけません。絶滅危惧種のようなものです。同時代を生きる芸能ではなく なっているのです。文楽が江戸時代に出てきた瞬間、この芸能はヒップホップやジャズやロックの出現と同じような驚きと歓びをもって迎えられました。革命的 な芸能だったといっていいと思います。ところが、伝統保存の名の下に旧態依然たる流儀やシステムを温存し、いつのまにか大衆から乖離する芸能になってしま いました。目下、その状態から脱するための努力が行われています。文楽以外からの演出家の起用、旧弊の否定…。この努力が続けられれば、今後文楽は再生す るでしょうが、「保存」がこの芸能をダメにしてきた歴史的経緯は否定できません。

 エイサーも「伝統の保存」のかけ声が大きくなると、 人びとの心から離れてしまう可能性はあります。かといって、創作エイサーにみられるヨサコイ化が正しい路線だとは思えません。が、基本は「肯定」から入る のだと思います。新しいものをとりあえず排除しない姿勢。結局は、伝統と新規さとのあいだのバランスの問題だと思うのです。バランスがとれるかとれないか は、エイサー指導者の資質に拠るところが大きいと思います。伝統を知りつくし、かつ新しいものにも敏感な指導者でいれば、激しい競争のなかで、残るべきも のはちゃんと継承されていくと思いますし、エイサーの認知度や人気も高まっていくと思います。

【新しい要素をいかにエイサーに取り込むか】

 今後のエイサーが留意すべき点として、旗頭など他の 芸能との共存・競合があると思います。正直いうと、最近のぼくは旗頭のほうが刺激的だと思ってしまうのですが、そこでは伝統的要素と新規な要素のバランス がエイサーよりも上手にとられている気がするのです。地域の一体感も強い気がします。旗頭は那覇と首里中心、エイサーが中部中心という地域差も関係あるか もしれません。旗頭のほうが都会的に洗練されています。エイサーは田舎の芸能で、それがまたパワフルで魅力。けれども、旗頭の要素をエイサーに取り込め ば、さらにレベルアップするような気がします。

 新しい要素とは、何もヒップホップやAKBやK−POPに倣うという意味ではありません。他の伝統芸能や海外の芸能への目線まで含めたものなのです。

【意外に新しい沖縄文化(エイサー)にとって必要なこと】

 エイサーにしても民謡にしてもその起源は相応に古い のですが、現在のような形になったのは明治以降のことです。つまり、比較的新しいサブカルチャー・ポップカルチャーだということです。沖縄そばやゴーヤ チャンプルーも第二次世界大戦後の産物ですが、現在もてはやされている沖縄の文化の大半は、まだまだ若いものばかりだといえるでしょう。ですから、「伝統 の尊重」と「新しい要素の導入」をつねに意識的に同時進行させる必要があると思います。

 ここで繰り返し指摘しておく必要があるのは、「新しい要素」というのは何も<流行りの要素を採り入れろ>ということではありません。本土や世界各地の芸能芸術に学ぶことも新しい要素になると思います。

【神楽に倣う】

 たとえば、現在、中国地方では「神楽」がかなりの ブームになっていますが、この神楽、歴史的にはおそらく1000年以上前まで遡るものです。ところが、伝統神楽と新作神楽が共存・競合することで、今もな お活気がある。若い人が次々に参加してくる。なによりも商業ベースにのらないところが特徴だと思います。観光神楽のようなものはほとんど存在しません。神 楽のプロミュージシャン、プロダンサーももちろん存在しません。いってみれば素人芸ですが、1年に1〜2回の出番のために、猛稽古を重ねている。神楽の大 会があって皆優勝を目指している。

 この神楽の若者たちは、能や歌舞伎はもちろん、ヒップホップやジャズダンスの技法や演出も実によく研究しています。そうしないと個性をアピールできない。そのまま採り入れているわけではありません。咀嚼して神楽の世界に取り込んでいる。向上心がとても高いと思われます。

 沖縄の地域エイサーも厳しいけいこをつづけています が、全国から盲目的に愛されてしまったおかげで、スポイルされている部分もある。先に触れた園田エイサーがいい例です。全島エイサー大会で何度も優勝し、 全国巡業もした。そのうち過剰な自信が生まれ、学ぶ姿勢がなくなった。地域行事としての本旨も忘れた。ちょっとした「権威主義」に陥ってしまったという気 がします。

 そういう反省からか、最近のエイサー大会では順位を つけなくなりました。ところが、これも弊害がある。やはり順位をつけないと観客も盛り上がらない。向上心にも影響がある。おそらく問題は順位の付け方、審 査基準だと思います。伝統と新規さのバランスをとって評価する。「何でもあり」でいいと思いますが、「バランスの評価はきちんとしますよ」という姿勢が審 査する側に求められる。ですから全島エイサーの順位付けは、かたちを変えて復活すべきだと思います。そうやって新しい「伝統」を重ねていく。新しい要素を 導入するということは「伝統」を上塗りしていく、重ねていくという意味があるのです。

 ぼくはエイサーの指導者はもっとどん欲に、さまざま なカルチャーを学ぶべきだと思っています。今や自分たちの狭い世界に閉じこもっていては新しいものは生まれません。学ぶべき対象はいくらでもあると思うの です。そうした学習を通じて、エイサーは次のステップに進める。古典に学んでもいいし、現代に学んでもいい。地域や文化を越えて学ぶべきだと思います。沖 縄の人たちは、そこにあるものを組み合わせるのは上手ですが、そこにないものを学ぼうとしない傾向があります。地域に根ざしつつ、グローバルに学ぶ姿勢。 これが、伝統を尊重し、新しい要素を開花させる基本的な姿勢だと思います。

【エイサー、沖縄文化の未来】

 今はまだいいのですが、このままの状態ではエイサー などの沖縄文化は廃れてしまうのではないかと危惧しています。先に触れた神楽のような、沖縄以外の地域の芸能や他ジャンルの芸能に学ぶ姿勢が乏しいからで す。もっと自覚的に取り組まないと、芸能としてのエイサーは観光エイサーと変わらぬものになっていくと思います。

 現在のエイサーは、大別すると地域(伝統)エイ サー、創作エイサー、観光エイサー、沖縄外エイサーの4つに分類できると思います。が、基本は地域エイサー。これなくしてエイサーは成り立ちません。地域 エイサーが基本ということは、地域が廃れればエイサーも廃れるということです。だからといって、市町村が補助金をつぎ込みエイサーを生き返らせようとすれ ば、おそらくエイサー本来のダイナミズムは失われてしまうでしょう。やはり地域全体で支える構造を今後も継続しながら、新しい歴史をつくるという自覚をつ ねにもちつづけることがエイサーの存続につながります。地域エイサーさえしっかりしていれば、創作エイサー、観光エイサー、沖縄外エイサーもそれに追随す るでしょう。もちろん、冒頭に述べたように変化を怖れては前に進めません。問題はどのように変化するかです。そのために必要なことは、繰り返すまでもなく 「学ぶ姿勢」だと思います。その意味ではエイサーはまだまだ発展途上にある芸能だと思います。民謡しかり。組踊りしかり。やはり変化が求められています。 ヘタに保護すれば、本来のダイナミズムは失われます。

批評.COM  篠原章
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