宮台真司氏の沖縄論
「反保守」の立場から、刺激的な言説やウワサを紹介するサイト「リテラ」のテキストは、感情に流されない筆致の原稿が多く、考えをまとめる際にけっこう役に立つのだが、昨年11月に掲載された宮台真司氏のインタビュー『宮台真司が語る沖縄の生きる道「問題は基地反対の先にある」』(仲村清司氏との共著『これが沖縄の生きる道』<14年10月1日/亜紀書房>が土台)もなかなか痛快だった。
沖縄に対する現状認識(たぶん安倍政権に対する認識も)はほぼ同様なのに、結論あるいは結論に類する部分がぼくとはだいぶ違う。
沖縄ナショナリズムあるいは沖縄アイデンティティの確立を企図した「辺野移設古反対」がいかに有効性を持たないか、という認識はまったく同じだし、沖縄には「社交」という概念はあっても「社会」という概念がないという認識も同じ。血縁血族の範囲内での共同性(沖縄)と地縁にまで拡大された共同性(本土)という区分けにも納得。だが、「社会」を欠いた沖縄だからこそ、「社会」という呪縛によって劣化しつつある日本から自由な「基地反対の先」を見通せるという主張には疑問符が付く。アイデンティティ確立を目標としない運動であれば、「オール沖縄」はその契機になるという主張も疑問だ。
「社交(血縁)から社会(地縁)へ」というプロセスを経ない試みは、アナログからデジタルを経由しないで一気にポストデジタルへと移行するようなもので、どうにもリアリティがない。たとえ移行が可能であったとしても持続できないのではないか。
「アイデンティティの確立」を目標とするオール沖縄はダメだが、「広域ガバナンス」を目標とするオール沖縄はOKというロジックも、社会意識を欠いた現状を「是」とする以上、底の抜けた未来像をもたらす可能性がある。
宮台さんのことだから、民主主義や基本的人権について熟考した挙げ句に論を展開していると思うが、民主主義や基本的人権という重荷を今一度引き受け直す覚悟を(本土も沖縄も含めて)皆が共有し、西欧的知性という厄介な課題を批判的に継承していかなければ、沖縄問題も、はたまた彼の言う「感情の劣化した社会(ヤンキー社会)」(佐藤優のいう「反知性主義」)も解きほぐすことはできない、という気がしてならない。
もっといえば、「お金」を通じて共有できるものと、「お金」を通じても共有できないものを峻別し、社会や共同体の劣化を食いとめるほかないんじゃないか。
沖縄にとって決定的な言い方をすれば、宮台氏や篠原の主張に対して、沖縄の人々から理知的な反論が整理されたかたちで示されないかぎり、「沖縄の自己決定権」という言葉は宙に浮いたままだ。