【新刊『はっぴいえんどの原像』番外編 (2) 】サエキけんぞう×篠原章「はっぴいえんどとオールマンブラザーズはつながる!」

『ゆでめん』から53年、はっぴいえんどとは何だったのか?……
『はっぴいえんどの原像』発売記念トークスペシャル

2023年1月20日、リットーミュージックからサエキけんぞう×篠原章『はっぴいえんどの原像』が発売される。

当サイトでは、サエキ・篠原による〝はっぴいえんど〟をめぐる対談を6回にわたって掲載したが(2015年)、その内容は『はっぴいえんどの原像』の土台の一部になっている。そこで、今回この対談を編集したうえ『はっぴいえんどの原像』番外編トークとして分割再掲載する。
番外編(2)は「はっぴいえんどとオールマンブラザーズはつながる!」

はっぴいえんどとオールマンの共通項

篠原「ブルースロックは、ウェスト・ロードや上田正樹とサウス・トゥ・サウス人気のせいで、おもに関西方面で盛んだと思われていたけれど、妹尾さんは上京していたし、実際には東京にも好きな人はたくさんいた。ゴールデン・カップスとかの流れもあったし。基本はスリーコードだからわかりやすかったんだと思う。久保田麻琴さんもブルース・シーンから出てきたアーティストですよね。関西でバンド活動を始めた伊藤銀次さんはオールマンブラザーズ・バンドやサザンロック詳しく、当時なんとオールマンの教則本もつくってる(村松邦男さんとの共著『オールマン・ブラザーズ・バンドのすべて』1975年/発行はサブパブリッシャーの大洋音楽出版=TAIYO MUSIC INC.)。鈴木茂&ハックル・バックの茂さん以外のメンバーも関西のブルース・シーンから出てきた人たち。結果的にいえば、ブルースロックはR&B系シティ・ポップの基礎になったんじゃないかな」
「そういえば、吾妻さんに初めて会った時、彼は放課後の教室で、ぼくの同級生の仲光邦明君とオールマンブラザーズ・バンドのツイン・リードを練習してた。ベースの関口隆一君がいったん抜けるというので、その代理でいきなりベースをやらされた」

サエキ「おお、まだ『イート・ア・ピーチ』(1972年)も出てない頃でしょ」

篠原「あの頃は、まだ二枚組のフィルモア・イースト・ライヴ(1971年)を聴いていた時代かな。後に“美白”で有名になる鈴木その子さんの息子の鈴木康之君が高校の一級上にいたんだけど、1年間のイギリス留学からヒール16㎝のロンドンブーツを履いて帰ってきて、ぼくらは同級生になった。彼の四谷のマンションで毎晩のようにふたりでオールマンを聴いたなあ。だからオールマンの曲はよく知ってたけど、吾妻さんとの練習で生まれて初めてベースギターを手にした。弾き方がよくわからず、メチャクチャに弾いた恥ずかしい記憶があります。あれ以来、吾妻さんに頭が上がらない」

サエキ「1971年の『フィルモア・イースト・ライヴ – At Fillmore East 』(Capricorn)はバキバキのブルース、1972年の『イート・ア・ピーチ – Eat A Peach』 (Capricorn)は柔らかい浮游感、1973年の ブラザーズ&シスターズ – Brothers And Sisters(Capricorn)には、カントリーだがメチャクチャポップな〈ジェシカ〉が入ってた」
「このオールマンのリリース・ラインアップにも、1970年前半当時の急流が反映されてますね。彼らのブルースロック・サウンドは、ポップな洗練へ向かっ て一直線。渋いブルースロックで、支持を伸ばしたオールマンは、ヘヴィーなデュアンが死に、1973年 ブラザーズ&シスターズのポップさでブレイクし、かつそれで区切りついちゃうんですね。はっぴいえんどの『ゆでめん』(1970年)から風街ろまん(1971年)へのポップ化ともほぼリアルタイムじゃないですか!」

 

つづく〉→『はっぴいえんどの原像』番外編(3)「ジャックスやはっぴいえんどを支えたのは女子中学生だった!」

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