我喜屋良光のこと
りんけんバンドの元フロントマンで、役者の我喜屋良光(がきやよしみつ 通称・よし坊)が、5月17日、自らの命を絶った。44歳だった。
1990年2月以来のつきあいだから思い出は多い。よし坊がりんけんバンドに在籍していた91年〜93年の約3年間が、とくに強く記憶に刻まれている。当時はデイゴホテルに最低でも1週間は連泊していたが、その間、ほぼ毎日、よし坊の顔を見ていたな、と思う。
昼は島のあちこちで取材、夜は林賢のスタジオで音楽談義というのが篠原の日課だったが、一仕事終えてホテルで休憩していると、よし坊と藤木勇人が迎えにきたものだ。林賢から“下賜”されたよし坊のLPG車に乗りこみ、そのままドライブということもあったが、ほとんどは中の町に繰り出し、スナックやバーで馬鹿話に花を咲かせた。朝6時頃にふらふらとホテルに帰り、みんなで仲良く食堂で和朝食を食べてから解散、なんていう“蛮行”もけっこうあった。
今は亡き照屋林助と飲んでいるとき、林助に命じられるままによし坊・藤木をポケベルで呼び出したりもした。晩年の林助は、何軒か梯子したあげく、最後の店では寝こんでしまうという悪い癖があった。寝こんでしまえば巨漢の林助を誰かが抱えて店を出なければならない。だから、大師匠の誘いとはいえ、よし坊も藤木もしぶしぶやってくるのだが、いざ合流すればそこはみなエンターティナー、大きな笑いの渦に巻き込まれた。
が、楽しさに誤魔化されて、気づいたら林助と篠原の二人きり。「やられた」と地団駄踏んでももはや後の祭りである。自宅までやっとの思いで林助を送り届け、胡屋十字路にあった「JUNK BOX」に顔を出すと、よし坊と藤木がにたにたしながらこちらを見ている。
「んもう、大変だったよ」と篠原が文句を言う前に機先を制されて、
「いやあ、ご苦労様でした。ま、一杯」とよし坊のほうから杯を差し出され、またまた誤魔化されてしまう。そんなことが何度かあった。
才能は豊かだった。役者としての才能は玉城満や藤木勇人に勝っていたと思う。だが、積み重ねて何かを成し遂げるといった性格ではなかった。よし坊がりんけんバンドからの“卒業”を言い渡されたのも、彼の奔放な性格が理由だった。頭の回転が速く、即興の芝居も難なくこなすよし坊だったが、規律とか規則となるとからっきしダメで、それは魅力でもあったが、プロとして仕事を進める上では障害だったと思う。才能を生かしきれないというジレンマに悩んでいたはずで、覚醒剤に手を染めたことがあるのも、そのあたりに理由があったのかもしれない。
最後に会ったのは二年ほど前。りんけんバンドの拠点「カラハーイ」の前で、よし坊をつかまえて二言三言言葉を交わした。
「どうなの?大丈夫?」
「いや、ご心配おかけしましたが、今は順調です」
よし坊は照れくさそうに笑っていた。
その前年、那覇の居酒屋「カラカラ」で偶然に会った玉城満から、「くすぶっているよし坊のためにひと肌脱いでやってくれ」といわれていたが、意外に元気なよし坊の姿に安心して、ぼくの出る幕ではないなと勝手に判断してしまった。
ほんとうは以前にはなかった影があった。顔は笑っていたが、とても寂しそうな目をしていた。そのことに気づいてはいたのだが、結果的に無視することになってしまった。それが大きな心残りである。
いつも沖縄でドライバーをやってもらっていたので、その返礼によし坊を篠原の車に乗せて、東京を案内したことがある。東京悪所巡りと称してろくでもない場所だけ選んでドライブしようとしたのだが、道に迷ったせいもあって中途半端なドライブになってしまった。
「申し訳ない。なんだか中途半端で」
「いえいえ、とっても楽しかったですよ。こちらこそ忙しいのに申し訳なかったです」
「じゃあ、あらためてまた行こうね」
「楽しみにしてます!」
よし坊はホントにいいヤツだなあと思った。ついに約束は果たせなかった。それもまた心残りである。
林助が逝ってしまった。林助の後継者だと思っていたよし坊も逝ってしまった。林賢、玉城満、そして藤木勇人に林助の魂は宿っているんだから、いいじゃないか、それで十分だと思いたいのだが、欠落感は大きい。なぜか無性に悲しく無性に腹が立つ。冗談じゃねえと思う。
「おいおい、よし坊、いつまでもふざけてんじゃねえ、いいかげん姿を現してくれ」
今はただ言葉がむなしく響くだけである。