私的ファッション史序説

篠原章17歳の時のステージ写真。ブルースバリエーション(武部聡志バンド)のボーカリストだった。ビニールと布を組み合わせたテカテカしたジャケット(DOMON)とIN&OUTのバギーパンツ。11センチヒールのロンドンブーツは四谷SA靴店で購入。

篠原章17歳の時のステージ写真。ブルースバリエーション(武部聡志バンド)のボーカリストだった。ビニールと布を組み合わせたテカテカしたジャケット(DOMON)とIN&OUTのバギーパンツ。11センチヒールのロンドンブーツは四谷SA靴店で購入。

ミランダ  何かおかしいことでもあるの?

アンドレア 別に…。ただ…私にはその2本のベルトは全く同じものに見えるので。こんなのまだよく知らないので…。

ミランダ  「こんなの」っていったわね。 わかったわ。自分には関係ないって態度なのよね。あなたはクローゼットから、そのサエないブルーのセーターを選んだ。「私は着るものなんか気にしない人間なんだ」ということを世間に知らせるためにね。 知らないでしょうけど、その色はただのブルーじゃない。ターコイズ(トルコ石の色)でもラピス(瑠璃色)でもない。セルリアンなのよ。
そんなこと自分にはどうでもいいと思ってるでしょうけど、2002年に、まずオスカー・デ・ラ・レンタがその色のニットガウン(長めのカーディガン)のコレクションを発表した。その直後にイヴ・サン・ローランだったと思うけど、この色のミリタリー・ジャケットを発表した。セルリアンは、瞬く間に8人のデザイナーのコレクションに登場。そしてついにはデパー トにまで拡がり、あのサイテーの「カジュアル服コーナー」にも並んだ。あなたはそのセーターをカジュアル服コーナーのバーゲンの棚から引っ張り出して買ったんでしょ。
でも、 その「ブルー」は数百万ドルの所得と無数の労働を生みだした色なのよ。なんとも滑稽ね。あなたは「ファッションとは無縁」と思って選んだんだろうけど、あなたが着ているそのセーターは、そもそもこの部屋から生まれたものなのよ。山のようにある「こんなの」のなかからね。

出典:映画『プラダを着た悪魔』より(拙訳)
From “The Devil Wears Prada”written by Aline Brosh McKenna, from the novel by Lauren Weisberger.
http://www.whysanity.net/monos/prada.html

『プラダを着た悪魔』(2006年)のワンシーンである。篠原にとっていちばん印象的だった、ミランダとアンドレアのセリフのやり取りである。ひとつの新しいファッション・トレンドが、大衆に広がっていくプロセスを非常にシンプルなかたちで示している。こうしたスクリプトを音楽(ポップ)にも応用したいものだが、歌詞はまだしも、唱法、作曲法、編曲法など多岐にわたって検証した上で、流通経路やメディアが影響も計らなければならない以上、容易ではない。ビートルズのような存在であれば、あるマイナーなポップがメジャーに転じていくプロセスは辿 りやすいが、日本のポップの場合、海外からの影響に加えて国内においてコンセプトやメソッドが伝播していくプロセスをトレースする必要が生ずる。これはか なり手間のかかる作業だ。その点はファッションのほうが扱いやすいかもしれない。たんなる視認によって受けた影響を辿ることが容易になるからである。

父がホームに入所したおかげで、父の“お宝”の整理 をする機会があった(2007年)。その年の夏はそのために費やされたといってもいい。が、父が大切にとって置いたものの大半はがらくただった。父にとっ ては大切なものでありながら、悲しいかなほかの者にとってはほとんど価値がなかった。

父の持ち物の整理をしながら、自分が大切にしてきた モノたちも、やがてがらくた扱いされてしまう、ということばかり気になった。だから、元気なうちに自分の集めてきたモノも整理しなければ、と思う。1万枚を超えるレコードやCD、同じくらいの数はある書籍も、そのうち処分しなければならないだろう。できるだけ早く身軽になったほうがいいと思っている。

整理しなければならないのは、モノばかりではない。 記憶もまた整理したほうがいいような気がする。ボケないうちに、多少は人の役に立ちそうな記憶を整理しておきたい。この日記がその場としてふさわしいかど うかわからないが、これからは、記憶の整理のためにこの場を借りることにした。

最近になって急に気になりだしたのはファッションの ことである。音楽もファッションも同じポップカルチャなのだから因縁浅からぬものがある。が、音楽関係の原稿を書く人間は基本的に“おたく系”なので、 ファッションには疎い。たとえ知識はあっても着るものはダサダサだったりする。音楽評論家でファッションに敏感なのは今野雄司さん(故人)ぐらいだった。

もっとも、ミュージシャンでも、「この人ホントにお洒落だな」と、そのセンスの良さに脱帽できる人は少ない。ベテランでは、細野晴臣さん、高橋幸宏さん、加藤和彦さん(故人)ぐらいだ。この人たちはスタイリスト顔負けである(幸宏さんはBRICKSやBUZZといったブランドの本職デザイナーでもあったけど)。

篠原もお洒落と自慢できるほどではないが、ファッションには目配りする努力は怠らなかった。

物心ついてきた10代後半の代表的ファッションがグラム系(デビッド・ボウイやT-REX!)だったので、ラメ入りTシャツ、ロンドンブーツ、スリット入りスリムジーンズが出発点である。原宿グラスのベルボトムジーンズや六本木HALFのブリーチアウト・ジーンズも懐かしい。メンズのデザイナーズ・ブランドが、まだほとんどなかった時代だから、女性ものを物色しては無理矢理着ていた。

菊池武夫が原宿にMen’s BIGIを開店したのは、ぼくが高一か高二のとき(72年?)。これが最初のメンズブティックだったという記憶がある。当時、an−an編集部にも出入りしていた近田春夫も働いていたという話だ。デパートでも売っていたJUN(ROPE)はVANと並んで、当時すでにもっともポピュラーな先端ブランドだっ たが、今ひとつ最先端という感じがしなかった。ロック系というよりGS系という印象が濃かった。 小さなお店だったが、六本木のin and outは、パリっぽいの小粋なデザインが得意だった。男女両方とも取りそろえてはいたが、やはり主力は女性ものだった。

この時期の輸入ブランドはディオール、サンローランぐらいか。東京プリンスホテルの地下にあった堤一族経営のセレクトショップ“PISA”(後に日本初の巨大レコードショップWAVEも経営)がブランド品を扱っていたが、目の玉が飛び出すぐらいの値段だった(普通のシャツが2千円の時代にPISAのシャツは2万円だった。今でいえば10万円超!)。サンローランは、青山タワーホールにブティックを出していたが、やはり超高額商品ばかり。とてもじゃないが手がでないし、ロンドン系ファッションに関心のあったぼくにはまったく無縁の世界だった。ロック系のお洒落をしようと思えば、原宿あたりを小まめに歩くか、渋谷西武B館地下のビーインというコーナーに頼るほかない。とはいえ、同じロックといっても、アメリカン・ロック系がファッションでは主流だったので、それほどカッコよかったわけではない。最先端はあくまでロンドン系グラム、ロンドン系キッチュだと思っていたのである。

機会があれば、BEAMSの創設メンバーのひとりで、現在ユナイテッド・アローズをプロデュースしている栗野宏文(同社常務)さんのことを書こうと思っていたが、それはまた別の機会に譲りたい。

批評.COM  篠原章
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