首里城ノート(1)龍柱はどこを向いていたのか?

焼失した首里城については「再建」が半ば既定路線となり、政府主導で進められつつあるが、再建を軌道に乗せる前に考えておくべき「懸案事項」は少なくない。批評ドットコムではすでに「アイデンティティ」の問題について言及しているが、首里城再建あるいは復元プロジェクトを進める際の、どちらかといえば技術的な課題についても「首里城ノート」と題して連載を始めることにした。第1回のテーマは「龍柱」である。

 

正殿前の大龍柱の「向き」

まずは、首里城正殿前に設置されている「2体の龍柱の向き」(厳密には「大龍柱」)に関する経過をザッと振り返ってみよう。

1896年〜1933年頃まで龍柱は2体とも正面を向いていたが、昭和の大修理(1935年落成)の際に左右向き合うレイアウトに変更された。この龍柱は沖縄戦で失われ、平成の復元(1992年落成)では昭和の大修理の「左右向き合い」のレイアウトが採用された。1896年に首里城に配置されていた兵士によって龍柱の向きは改変されたとの記録があるから、1896年以前の龍柱のレイアウトがオリジナルだと推定できるが、オリジナルの大龍柱はいったいどこを向いていたのか? 問題はこれである。

左右向かい合わせ説—平成の復元と昭和の大修理

焼け残った首里城正殿前の二つの龍柱はお互いに向き合っているが(写真1参照)、これは「1992年に首里城を復元したとき(平成の復元)のミスで、本来の龍柱は正面(南)を向いていた」という指摘があり、Wikipediaにもこの説を裏づけるような記述がある。

どの時代のどのポイントを基準にするのかによって龍柱の向きは異なる可能性があり、平成の復元時にも左右向き合うレイアウトとするか、二つとも正面を向くレイアウトとするかについて議論はあったようだ。

写真1:焼け残った龍柱(2019年12月19日付琉球新報デジタル版 より)

平成の首里城復元の準公式記録とされる『甦る首里城ー歴史と復元』(首里城復元期成会・1993年)に収録されている真栄平房敬の論稿(第7章「近代の首里城」)に従うと、
1.琉球処分時(1879年)の龍柱は左右向き合っていた。
2.首里城に駐留していた熊本鎮台沖縄分遣隊の隊員が1896年に撤収するにあたって、龍柱を戦利品として持ち帰ろうと引き抜いたが、この行為を上官に叱責され、あわてて元に戻した(写真2参照)。
3.その際、本来左右向き合っていたはずの龍柱を誤って正面向きにし、二つの龍柱の高さを揃えるため根本から約80㎝のところで龍柱を切り落とした。
4.正殿の昭和の大修理(1935年落成)の際に、古い首里城を知る古老たちの要望や指示に基づき、分遣隊が誤って正面を向かせた龍柱を左右向き合うように手直しした。
5.以上のような事実関係に基づき、平成の復元時には、左右向き合う龍柱のレイアウトを採用した。
といった経緯があったとされる。

写真2:昭和の大修理直前の龍柱(1931年・阪谷良之進撮影/沖縄県立図書館アーカイブより)

正面説—西村貞雄の推論

龍柱の向きについての本格的研究は、西村貞雄(琉球大学)『首里城正殿・大龍柱の「向き」についての考察』(琉球大学教育学部紀要 第一部・第二部(42): 75-105/1993年)のみだが、この論稿では前述の真栄平以上に詳細な検討が行われている。

西村は、昭和の大修理の際の設計に、(1)正殿正面の他のデザインとの整合性が十分に考慮されなかった、(2)龍柱後方の欄干(勾欄)のほぞ穴の存在が無視された、(3)1896年の分遣隊による龍柱改変の経緯の認識に誤りがあった、といった根拠から、「左右向かい合わせ」という誤ったレイアウトが選ばれたと結論づけ、オリジナルの龍柱は「正面を向いていた」と推論している。この論証のプロセスを見ると確かに説得力はある。

平成の復元(1992年落成)は、最終的に昭和の大修理(1935年落成)を踏襲しており、西村の異論は受け入れられなかった。今後予定される再建では、西村の考察にも配慮した再検討が求められるだろう。

鍵となる資料の発見

西村の考察は、往時の設計思想、風水思想、造形的な美意識に重きを置いたものであり、創建時あるいはその後の改修時の龍柱のレイアウトの実態を解明したものとは違う。大きな鍵となるのは、龍柱を引き抜き切断した上で「原状回復」したという分遣隊の行動の詳細の解明であり、首里の古老の記憶の痕跡をあらためて発掘することだ。後者についていうと、真栄平は、昭和の大修理の際に「古老の記憶に基づき」左右向かい合うかたちに直したといい、西村は「古老の記憶は正面」という。この違いは大きい。

いずれにせよ、まだ決着が着いたわけではなく、新たな資料の発見が待ち望まれている。「責任者を咎める」のではなく、未解明の部分を詳らかにする資料の発見・発掘に全力を尽くすことこそ、再建に関わろうとする人々の責務となる。

ただし、「創建時の姿」を取りもどすことが唯一無二の目標ではない。往時の人々の事績を偲びながら未来に繋げる姿勢こそがもっとも重要だ。そのために各人が自分の置かれた立場で何ができるのか、もう一度考え直してほしいと思う。

批評.COM  篠原章
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