首里城火災 :「火元の特定」「正殿再建」よりも大切なこと

火元の特定はできず

首里城の出火原因を特定し、法に照らした責任を追及するための沖縄県警の捜査が終わった。
 
結論は「火元は特定できず」である。
 
消防の火元調査結果の公表はこれからだが、県警と消防の調査結果が出揃ったところで、沖縄県は「第三者委員会」を設置して調査結果を検討し報告書を発表する予定だ。この報告書を受けて県知事あるいは県が公式見解を発表することになる。
 
おそらく「火元の特定はできなかったが、今後は防火体制を強化する」といった当たり障りのない公式見解が出て調査は終息を迎えるだろう。
 
琉球新報と沖縄タイムスは、「釈然としないが、わかないのだからしょうがない。県は防災・防火にしっかり取り組め」といった、これもまた優等生論調の社説を掲載している。
 
首里城火災については、もっと深刻に受けとめなければならないと思う。原因の特定は問題の一部に過ぎない。
 

問題は文化財保護意識と防災意識の欠如

最大の問題は、公共部門の文化財保護意識と防災意識の欠如だ。いうまでもなく首里城には観光資源としての価値と、文化財としての価値がある。どちらが優越しているかはいうまでもない。文化財としての価値を前提としているからこそ観光資源として活用できるのである。要するに、文化財あっての観光であって、観光あっての文化財ではない、ということだ。
 
「有料入場者をさらに増やし、沖縄観光の拠点とする」という県の観光政策が、文化財としての価値を軽視することにつながり、文化財としての価値や人命を守るために求められる防災意識も低かったということは、誰の目にも明らかである。
 
県に委託されて首里城を管理運営していた美ら島財団は、組織内に誠実な学芸員や研究者も抱えており、内部には文化財としての首里城を守ろうという意識はあったと思う。
 
だが、首里城火災後の美ら島財団と県当局によるグダグダな記者会見を見るかぎり、財団幹部の文化財保護意識や防災意識は、きわめて乏しかったと考えざるをえないし、財団を監督する立場にある県当局の姿勢も不十分だったと判断せざるをえない。財団幹部や県当局の責任は不問に出来ることではない。
 
沖縄県は、東京、大阪に次ぐ全国屈指の「埋め立て県」(県土増加率第3位)である。沖縄県は、「海は沖縄の宝」といいながら、産業振興と観光振興を名目にあちこちの干潟や海岸線を必要以上に埋め立て、自らの手でその「宝」を見るも無惨に壊した上、汚水処理まで後回しにしてきた。これは戦後沖縄の「悪徳」のひとつであるとぼくは思っている。海があって成り立つ沖縄なのに、沖縄あっての海になっている現状はやはり嘆かわしい。
 
本来なら保護すべき文化財を観光資源として利用し尽くそうという姿勢も、海に対する姿勢と同じで、許されざる悪徳だと思う。残念なことに、自らの手で自らの首を絞めているのに、その責任を不問にしたり、他者になすりつけようとする姿勢さえ見られる。
 
首里城火災は、沖縄のこうした「負の歴史」の象徴である。負の歴史はなにも沖縄戦や米軍基地だけではないのである。

  

焼け落ちた首里城2019年12月4日篠原撮影

焼け落ちた首里城(2019年12月4日篠原撮影)

「首里城は沖縄のアイデンティティ」の嘘

次に疑問を抱くのは、首里城火災をきっかけに、「首里城は沖縄のアイデンティティだ」「首里城は沖縄のシンボルだ」といった論調があちこちで沸騰していることだ。
 
焼けたのは1992年に復元された正殿とその周辺だけなのに、多くの人々が首里城自体が消失したかのように落胆している。復元前の首里城を知る人も多いと思うが、ぼくが沖縄を初めて訪れた1982年には守礼門しかなかった(それもまた復元建造物だ)。
 
守礼門しかない首里城だったが、玉陵(たまうどぅん)や園比屋武御嶽を始め、あちこちに御嶽(うたき/聖所)があり、石垣があり、池(龍譚)や井戸があり、神秘的な森も残されていた。こうした史跡のなかにいると、沖縄生まれでないぼくも小さな心の平安を得ることができた。

木火土金水の碑

沖縄市池原「木火土金水の碑」(2012年1月篠原撮影)

 

首里城以外にもさまざまな史跡・文化財はある。
 
石垣しかない今帰仁や座喜味や中城などの城を訪れても、崩れかけた円覚寺や崇元寺や三重城を訪れても、ぼくの目の前には琉球・沖縄の知られざる歴史に触れたという充実感があり、昔日の琉球・沖縄の風景が浮かんでは消えた。
 
大切にすべきは歴史に対する想像力であり、歴史的事実を知ろうとする好奇心であり、歴史観を醸成することだが、「首里城火災への衝撃」が一時的に膨らませた「首里城は沖縄のアイデンティティ」というイメージばかりが前面に出て、ほんとうに大切なこころが失われているように見えるということだ。
 
他方で、初詣で賑わう波之上宮と普天間宮を除き、現在は神社とされている主要な聖所、たとえば天久宮、末吉宮、沖之宮などはろくに保全されていないという事実も知っている。那覇の仲島の大石やガーナー森にいたっては訪れる人もいないし、沖縄市の「木火土金水(もっかどごんすい)の碑」などは、教育委員会による史跡説明からして間違っている始末だ。沖縄の人びとは歴史や文化を本気で大切にしているのだろうか、という思いに捕らわれることも多々あるのである。
 
極論と思われるかもしれないが、復元された首里城は「沖縄のアイデンティティ」などではない。沖縄の歴史の一部を立体化する(説明し、追体験する)試みのひとつにすぎない。

首里城再建が無駄だとは言わない。が、首里城再建の前に考えるべきことを皆忘れている。それは首里城焼失よりはるかに残念なことだ。

批評.COM  篠原章
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