大友“あまちゃん”音楽の真髄 〜大友良英&「あまちゃん」スペシャル・ビッグ・バンド〜
あまちゃんTシャツでGO!
ぼくは2年半ほど前、職場内抗争をきっかけに、長く勤めていた大学から放逐された。あれ以来、ぼくは基本的に暇である。暇であることは辛くもあるが楽しくもある。大学教員時代にはじっくりと読めなかったもの、観られなかったもの、聴けなかったものに接することができる、という大きなメリットを享受しているという意味だ。あんまし関係ないけど、酒も旨い。嬉しいことに昼から飲める日もある(負け惜しみだな)。
大学教員時代、テレビは無縁だった。あまり関心がなかったということもあるが、そもそも時間がなかった。体裁よくいえば、朝から晩まで働いていたということだ。大学を離れてから、朝から晩までテレビがついている。映画や音楽映像を観る時間がいちばん長いが、ドラマやドキュメンタリーも観ている。NHK朝の朝ドラもここ2年半、しっかり観るような生活リズムになっている。むろん、時計が不可欠の生活ではないので、朝ドラは「時計代わり」などではない。れっきとした作品として観ている。
昨年度下半期の『純と愛』ももちろん観ている。観るのは苦痛だったが興味深い作品だった。遊川和彦にしては駄作だという人もいるが、失敗作であっても駄作ではない。ひと言でいえば、遊川さんは、イギリスにおけるジェーン・オースティンの現代日本版あるいは現代大阪版のようなドラマを描きたかったのではないかと思う。意図はなんとなくわかったが、脚本も演出も、その意図を作品化することに失敗したのである。だからフラストレーションは強く残った。
その直後に始まったのが『あまちゃん』である。『純と愛』と対比するのは気の毒でもあるのだが、『あまちゃん』は、脚本、キャスティング、演出、音楽のどれをとっても破格である※。
ぼくは一気に宮藤官九郎と能年玲奈と井上剛チーム(演出)と大友良英の熱狂的なファンになった。「ミーハー的なファン」といったほうが適切かもしれないが。だから、「あまちゃん」スペシャル・ビッグ・バンドのライヴに行くことになったときも心の底から喜んだ。
※ 音楽とは直結しないことを少々。ドラマとしての「あまちゃん」は、ふたつの「意図」があると思う。ひとつは「アイドルの終焉」。かつてアイドルはビジネスじゃなかった。憧れであり、夢であり、希望であり、愛だった。宮藤さんは最後の「アイドル像」を描こうとしてるんじゃないか。換言すれば「あまちゃん」は「アイドルの墓碑銘」ということになる。もうひとつのテーマは「過疎」あるいは「東北の現在」。ぼくたちの知っているアイドルの社会的構造にも関係するが、東北の過疎の問題が実は震災前から二進も三進もいかない状態になっていたことを宮藤さんは知っていたということ。「あまちゃん」は、現代日本における都会と田舎の関係をコミカルにかつ本質的に描くことに成功している。ドラマの終盤で予想される「津波・震災」によって、その宮藤さんの東北像がどのように変化するのか、興味津々。「あまちゃん」は現代の日本が抱える文化と社会と経済の本質的な問題点をもっとも的確に押さえたドラマだとぼくは考えている。ものすごい表現力だ。
ミーハーな気分でライヴに行く、というのはホントに久々である。ひょっとしたらYMOのウィンター・ライヴ(1981年)以来かもしれない。あのときは川勝正幸君たちと花見にでも行くような気分で「いざ歌舞伎町」と意気込んで新宿コマ劇場に集った記憶がある。
偶然にも、晩年の(あまり使いたくない言葉ではあるが、ほかに適切な言葉が見あたらない)川勝君と親しかった、モリタタダシさん、北原香さん、 大久保浩一さんといった年若い友人たち(といっても、ぼくより若いという意味)と「あまちゃんバナ」で異様に盛り上がり、その勢いで大友良英&「あまちゃん」スペシャル・ビッグ・バンドのライヴに乗り込もうという話になったのである。
モリタさんのすすめで事前に「能年玲奈ファン・クラブ・くるぶし」にも登録し(登録無料!)、“北の海女”とプリントされたオフィシャルTシャツも調達した。「同好の士も皆Tシャツをゲット」という話を聞き、当日は「あまちゃん系Tシャツ」を着て行こうと示し合わせた。
そもそもかなり入手の難しいチケットである。大友良 英&「あまちゃん」スペシャル・ビッグ・バンドの最初のライヴ・パフォーマンスは6月18日に「第118回アサヒビールロビーコンサート」としてアサヒビール本社ビル開催されたが、定員500名に対して3000人が応募したという。2回目のライヴである今回は定員430人に対して4000人近くが応募。 まさにスーパー・プレミアムなチケットなのだ。
ドラマの『あまちゃん』と大友さんの音楽のどちらにより大きな関心があるのか、と問われても、「その両方」と答えるほかない。実際、『あまちゃん』の第1回目を観たとたん、ぼくはドラマと「あまちゃんのオープニングテーマ」の両方のファンになった。もちろん、宮藤脚本あっての大友音楽であって、大友音楽あっての宮藤ドラマではないことはたしかだが、ドラマが進行するにつれて、宮藤脚本と大友音楽がぼくのなかでは渾然一体になってしまった。そうはいっても、当の宮藤官九郎さんのドラマも映画もぼくは3本ずつぐらいしか観ていないし(その限りにおいて宮藤さんの才能にはむろん驚いたが)、大友さんの音楽についてもろくに知らない。GROUND ZEROとOptical*8という大友さんのキャリアの一部は知っていたが、前者は千野秀一さん、後者はホッピー神山さんとRECKさんが関わっていたから興味を引かれたのであって、大友さんがいたからではない。要するに宮藤通でも大友通でもない。『あまちゃん』がなければ宮藤さんや大友さんの表現の世 界にこれだけ引きこまれることはなかったと思う(つうことは、能年玲奈のおかげともいえるが)。
おっとっと。このまま筆を進めると、「ドラマとその音楽」という話だけに終始してしまいそうだ。それはそれで語りたい気持ちもないことはないのだが、このレヴューの本旨からは離れてしまう。
で、7月2日のライヴ当日、ぼくは意気揚々と渋谷のパルコ劇場に向かった。と書きたいところなのだが、さすがに「北の海女」Tシャツを端から着ていくのは気恥ずかしい。しかし、約束は約束である。渋谷駅からパルコに向かう道すがら、あまちゃん系Tシャツを着ている人に遭遇するだろうし、会場はあまちゃん系Tシャツで埋め尽くされているにちがいない。「あまちゃんライヴ」なのだから、あまちゃんTシャツは必須アイテムだ、と自分を納得させ、電車に乗り込んだのだが、山手線で座っていたら、前に立ったOLらしき女性がわが北の海女Tシャツをまじまじと見つめやがる。「ちょっとあんた、なにじろじろ見てんだよ」とも「キミもあまちゃんファンかな?」ともいいだせず、ただただ赤面。会場で着替えればよかったかな、と後悔。
あまちゃんTシャツを着て歩くのが、なぜ気恥ずかしいのか。「ひょっとしてカッコ悪いんじゃないか」という不安をなぜ抱くのか。この気恥ずかしさや不安の根源を突きつめて考えていくと、おそらくポップカルチャーにとって本質的な問題に触れる可能性もあるかもよ、とも思ったが、これも本旨からずれるので割愛。
渋谷到着。会場まで徒歩で7〜8分。が、周囲を見回してもあまちゃん系Tシャツは見あたらない。そっか。パルコ劇場は収容人員400人程度だから、数千人が列をなして歩くような渋谷の街で「あまT」を見つけるのは難しいんだな、と思い直して会場入りしたのだが、なんと会場にも「あまT」がいない!わがグループの男性3名とオフィス・インテンツィオの佐藤さんだけだ。じぇじぇ!じぇじぇじぇ!ぼくたちの思いって空回りしてるのかしらん。
聴衆は落ち着いた世代が中心だ。パルコ劇場では毎年、立川志の輔の落語会が恒例行事だが、客層の感じはそれに似ている。静かな興奮を味わえる世代といったほうがいいかもしれない。CD以外に物販もない。 喫煙所から煙がもくもくと溢れ出してくることもない(=喫煙比率が低い)。ロック世代ではあるが、NHKのニュースやドラマに親しみ、ジャズやクラシックを熱心に聴いてきた人びとなのだろうか。なんだか自分たちが子どもに思えてきた。「そんなものなのかね」「そんなものなんだよ」と自問自答。なってこった。
ぼくがミーハーに徹しようと思った理由の一つは、大友さんについても宮藤さんについても「遅れてきた中年」だからだ。たまたまのことではあるが、彼らとは接点があまりなかった。積極的に聴いたり観たりするチャンスがなかった。つまり新参者だ。おまけに今回は劇バンである。6月には『連続テレビ小説「あまちゃん」オリジナルサウンドトラック』という35曲入 りのCDアルバムが発売されているが(オリコン初登場5位)、評論家という立場で考えてみると、こうした劇バンをレヴューするのはとても難しい。劇バンア ルバムのレヴューでさえ難しいのに、今回は劇バンのライヴである。劇バンのライヴの進行なんて想像がつかなかったし、劇バンのライヴを文字で表現する作業の段取りも見当がつかなかった。なら、いっそのこと「地味で暗くて向上心も協調性もない」アキちゃん※のファンとしてミーハーに行くか、という決断を下したのである。
※劇中、天野春子(小泉今日子)が、娘で主人公のアキ(能年玲奈)を評していう言葉。
15人編成にモゾモゾ・ワクワク・クラクラ
予定ではミーハーを決めこむはずだったが、着席し、 誰もいない、照明を落とした薄暗いステージを観た途端に、ミゾオチのあたりがモゾモゾ・ワクワクしてきた。そこには10人以上の演奏者の席が用意されてい て、すでにオーラみたいなものが漂っている。“大友良英&あまちゃんスペシャル・ビッグ・バンド”名義のライヴなのだから、たくさんの演奏者の席が用意されていてもなんの不思議もないはずだが、そのことだけで鼓動が高まってくる。誰がどんな音を奏でるのだろう。音と音はどんなふうに絡むのだろう。ひょっと したら「言葉によって」この音楽を語ることができるかもしれない。ミーハーらしからぬ思いに駆られてきた。ちょっとやばい。
19時を7〜8分過ぎた頃か。大友さんが演奏家を率いて上手から登場した。あまちゃん音楽の作曲家としてバンマスも務める大友さんは、ギターを抱えて、いちばん下手側の最前列に腰掛ける。数えてみたら総勢15名。なんだか圧倒される。
「劇バンのライヴ」は希少だ。というより、そんなもの聞いたこともない。サウンドトラックをステージで再現するコンサートはあった。たとえば、ジブリ作品でお馴染みの久石譲さんの演奏活動がそれだ。だが、久石作品は1曲1曲が独立した作品になっている。『あまちゃん』の音楽は1分前後から最長で3分程度の作品ばかりだが、久石作品は最短で3分以上のものが多い。ステージに馴染む構成と円熟度を備えているのだ。大友作品の完成度が低い、といっているのではない。久石作品は、音楽のフォーマットとしてそもそも ノーマルなものが多いということだ。CDを聴くかぎり、大友作品は劇バンそのもの。ドラマ1回が15分ということもあるが、音楽のフォーマットとしては中途半端で、ストーリーとの相互作用がなければ成り立ちそうもない作品が多い。これでどうやって90分〜120分のライヴ・パフォーマンスを成り立たせるのか。だが、ステージのセットを観るかぎり、なにかやってくれそうな気配はある。
1曲目が始まった。もち「あまちゃんオープニング テーマ/ロングバージョン」。CDのタイムは1分36秒。大友さんがMCでも語っていたが、レギュラーバージョン1分18秒は火曜〜土曜、ロングバージョンは月曜のみ。月曜はスタッフのクレジットが出るからロングなのだという。MCで語られる楽屋落ちや制作裏話も、今回のライヴのミソなのだが(エクセレント!)、大友音楽の特徴は、なによりこの1曲に集約されている。
2拍子だからか、少々ポルカっぽくも聴こえるスカのビートに乗せながら進行するヴァース。いったいこの、クラクラするほどの底抜けの楽しさはなんだ。このヴァースを聴きながら、ぼくの頭のなかには、過去の、実にさまざまな音楽体験が頭のなかで一気に膨らんできた。否応なしに自問自答が始まる。
ビッグバンドだからスイング?あるいはディクシー?
いやいやこれって完全にスカ。クレージーキャッツ? もちろん萩原哲晶アレンジの影響はとてつもなく大きい。でも、大友音楽は1970年代のストリートを走り抜けてきた者のサウンドだ。そのストリート感はメフテル起源(メフテルはトルコの古典的な軍楽)のエスニシティにも通ずるのか。さすがにあれほどミステリアスじゃない。ということは、ロマの音楽をブラス化した感じ? いや、ロマというよりちんどん系ストリート感。でももっと洗練されたなにかじゃないか。そうはいっても、たとえばロイヤル・コンセルトヘボウのブラスとか、ニューヨーク・フィルのブラスとかの洗練とはひと味もふた味も違う。もっと肩の力が抜けたもの。その「抜け加減」みたいなものが大友音楽のグルーヴなんだろうか?
頭のなかをヴァラエティに富んだ音像がものすごいス ピードで駆け巡っているあいだに、スカが崩れて、音楽はブリッジからコーラス(サビ)へと展開する。嗚呼、なんてこった。このサビはやっぱりやばい。ドライヴ感の効いたビートに載せて、透明でちょっとメランコリックな旋律が流れ、涙腺が緩む。美しいものに触れたときに溢れでる涙だ。聴き手を泣かせてやろうという意図があったとしても、この譜面はなかなか書けない。ナチュラルに生まれ来るもの、作曲家の魂の清らかさが音譜に表されたもの。まさにミューズ降臨とはこのことではないか、と思うほどの旋律だ。
一見、馴染みやすく懐かしい音楽に聴こえるのに、自分のあらゆる音楽体験を呼び覚ましても追究しきれないサムシング・ニュー、ノヴェルティがある。合理的解釈を超えたなにかがある。ひとことでいえば、それはリリースされた感じ、しがらみから解放された感じに近い。
大友さんを含め15人編成の“ビッグバンド”は、いかにも楽しそうに演奏している。こんなに楽しそうに演奏するバンドはあまり観たことがない。誰1人として「仕事臭」を感じさせない。驚いたことに、管楽器 を中心に15人中9人が東京藝術大学音楽学部の卒業生、武蔵野音大出身が1名いる。いずれも、それぞれの分野で実績を挙げている演奏家だが、計10人が正統的なクラシックの教育を受けていることになる。他のメンバーもベテランといえそうなキャリアの持ち主だ(メンバー表は巻末添付)。が、このうちぼくが知る演奏家は、鈴木広志さん(サックス)、大口俊介さん(アコーディオン)、近藤達郎さん(キーボード/ハーモニカ)、相川瞳さん(打楽器)だけ。しかも、 ぼくの音楽的趣向と近いのは近藤さんだけだ。
曲間のMCがまた楽しい。とりとめもないお喋りに見せかけた「あまちゃん裏バナ」。『あまちゃん』ファンにはそこがたまらない。皆が求めているものを大友さんはよく知っている。大友さんも『あまちゃん』ファンなのだ。ちょっぴりネタバレがまた嬉しい。その一発目は「空撮シーンは、ラジコンのヘリコプターで撮ったんですよね」。会場は「へえっ」と驚き、そのまま2曲目の「行動のマーチ」へ。ヨハン・シュトラウスばりに優雅な旋律のマーチ。いうまでもないが、マーチとは行進曲であり、頭に浮かんでくるのは 「ホンダラ行進曲」「ゴマスリ行進曲」のクレージーキャッツ。行進曲の原型であるメフテル的な味わいがあるのが不思議だ。
三拍子の3曲目「日常」、つづいて「朝のテーマ」。ドラマの音楽らしい作品だが、編曲と演奏の巧みさが光る。けっして一糸乱れずというアンサンブルではない。だが、音と音の隙間が音楽になっている。これがあまちゃんグルーヴか? 5曲目の「琥珀色のブルース」。ドラマでいちばんブルージーなキャラ・琥珀の勉さん(塩見三省)のテーマ。CDではマダムギターで知られるブルースウーマン、長見順さんがリードギターを務めるが、本日は大友さんが「高校以来」というブルース・ギターを披露。いいじゃん、いいじゃん。ギターが泣いている。
6曲目は作曲家としての到達点と大友さん自身が自負 する「じぇじぇじぇ」。歌手もいないのに音楽全体が「じぇじぇじぇ」と叫んでいる。コミカルだがリアル。前衛ジャズメンの面目躍如か。おもちゃをひっくり返したようにパーカッシヴな「アイドル狂想曲」、芸能プロ社長・太巻を演ずる古田新太のキャラづくりにぴったりフィットした「芸能界」につづき、9曲目の 「海」の感動的な主旋律が会場を魅惑する。沖縄の海ぐらいしか知らないぼくに三陸の海の美しさを教えてくれた逸品だ。「テーマ変奏曲」は文字どおりテーマのヴァリエーションで、鈴木広志さんのぶっ壊れたようなテナー・サックスのソロが楽しい。
ジャンルの垣根を誰よりも上手にリムーヴした大友音楽
以上が第一部。15分間の休憩中、大友音楽に思いをめぐらす。この楽しさの根っ子はいったいなんだろう。もちろん、ドラマの熱心なファンでもあるぼくは、ドラマの各シーンを思い浮かべながら音楽に向かって いる。大友さんのちょっぴりネタバレ的なMCもミーハー的に反応している。だが、大友音楽に日本のポップスの未来が見えてくるような興奮も抑えきれない。 「新しいなにか」が始まっているような気がしてならないのだ。
第二部は、「あまちゃんスウィング」で幕開け。メンバーのほぼ全員がソロを担当したのだが、その演奏を聴いて大友音楽の「新しいなにか」のヒントを得たような気がした。
15人の演奏家の3分の2がクラシック出身の演奏家であることはすでに書いた。今やクラシック畑の演奏家がポップスやロックの世界で活躍するのはまったく珍しくない。ぼくが聴き続けてきた日本ロックとの絡みでいえば、古くは木田高介さん、矢野誠さんがクラシック畑出身ながらロック、フォークの世界で活躍したパイオニア的な存在だが、坂本龍一さんがスターの座に上りつめてからは、藝大卒、音大卒の演奏家や作曲家がしだいに増えていった。
実のところぼくは、クラシックとポピュラーのあいだには未だに垣根があると思っている。垣根があるという言い方が適切でなければ、ほとんどの演奏家・作曲家は、若いときから自分が志してきた音楽のもつ伝統や流儀からは容易に離れられない、と言い換えてもいい。とくに歌手についてそれは顕著だ。オペラ歌手がロックやポップスを歌っても心地よいと感じたことは一度もない。反対に、ロック歌手やジャズ歌手が歌う第九も聴きたくはない。歌手ほどではないが、演奏家についてもほぼ同様の見方だ。正規の専門的音楽教育を受けたピアノストやヴァイオリニストが弾くビートルズに感動したことはない。クラシックとポピュラーとのあいだの垣根をシンプルに「音楽教育の差」に還元することはできるが、いずれにせよ長い間に培われた伝統や流儀のちがいは大きい。したがって、両者は一時的な協力関係は構築できるが、協働してイノヴェイションやノヴェルティを生みだすことは難しいと思っている。
別の言い方をしよう。ロック/R&Bやジャズの本質を、「グルーヴ感」や「スウィング感」というきわめてフィジカルかつミステリアスなセンスで説明することがある。曖昧模糊としたこうしたセンスを、批評や分析の用具にするのは「非科学的」かもしれない。が、「グルーヴ感」や「スウィング感」は確実に存在する※。
このグルーヴ感とかスウィング感といったスペシフィックなセンスのあるなしが、ロックやジャズにとってかなり決定的だとぼくは思っている。名指しは避けるが、ポップスの世界で活躍するクラシック出身の演奏家で、こうしたセンスを体得している人はごく稀だ。体得しているように見えても、それは過剰だったり、 過少だったりする。つまり身についていない。それは、彼らのソロの演奏を聴けば歴然とする。
※脳科学や心理学や音響学の手法を使ってこれらを科学的に解明することは可能かもしれないが、解明することに意義があるかどうかは疑わしい。
が、しかし、しかしですよ。今回のライヴで観た演奏家たちには、クラシック出身とはとても思えないホンモノのグルーヴ感やスウィング感があった。正直、これは驚きだった。ショックだったといってもいい。今や「正統的なクラシック教育を受ける人たちも、子どもの頃からポップスやロックやジャズに慣れ親しんでいる、そういう時代に入っているのだ」と説明することも可能かもしれないが、ぼくはそれだけでは説明しきれない要素があると考えている。
実は、この日、第2部の5曲目で「あまちゃんクレッツマー」という曲が演奏されている。大友さんによれば、この日のメンバーの大半が参加する“チャンチキトルネエド”(活動休止中)へのリスペクトをこめた曲だという。“チャンチキトルネエド”は、日本におけるクレッツマー音楽を実践する集団で、ぼくもライヴや街頭での演奏を何回か聴いているし、アルバムも聴いている(ただし、今回のメンバーがチャンチキトルネエドのメンバーと重なることは大友さんのMCで初めて知った)。彼らの演奏力・技術力・作曲力は非常に高いが、ロマ音楽に連なる独特のあのグルーヴ感はない。ロマ音楽はスカスカの、アンサンブル的には隙間だらけの音楽だが、まさにその隙間にこそ独特の グルーヴの秘密があるとぼくは思っている。チャンチキトルネエドの場合、外形的にはたしかにクレッツマーふうであったり、ロマふうであったりするものの、 あのめくるめくようなグルーヴを感じたことはない。巧みで濃密過ぎるクレッツマーなのだ。
ところが、である。この「あまちゃん」スペシャル・ ビッグ・バンドには、クレッツマー的・ロマ的なあのスカスカ感がある。グルーヴがある。失礼ながら、チャンチキトルネエドと大半のメンバーが重なるとはと ても思えない。音楽的指向性はほぼ同様だといえるだろうが、音楽に対する姿勢がまるで異なって見える。なにがちがうのかといえば、バンマスが大友さんであり、作曲者が大友さんであるという点だ。つまり、大友さんが、演奏者のグルーヴを引き出している、ということになる。もっと振りかぶっていえば、大友さんはクラシックとポップスのあいだの垣根を上手に取り払ってくれたのだ。巧みな演奏なのにメフテル的なもの(あるいはロマ的なもの)を感じてしまったということも、「垣根のリムーヴ」と関係があるのだろう。非常に簡単にいえば、あまちゃんバンドの本質は「ヘタウマ」ならぬ「ウマヘタ」である。上手い人が下手にやる、という意味だ。難しいのは、上手い人が下手にやればフツーは嫌味になる。知的になりすぎる。見下した印象さえある。ところが、あまちゃんバンドは、上手い人が下手にやっているのに、若々しく清々しく、しかもナチュラルに聴こえるのだ。ウマヘタのバランスが絶妙ということだ。もちろんその舵取りは大友さんの仕事である。なんともすんばらしぃ。
これは誰にでも真似できることではない。というより、これまで日本のロック、ポップ、ジャズ系の優れたミュージシャンたちが、クラシックの音楽家を起用してもけっしてできなかったことだ。ぼくが大友音楽に感じた「新しいなにか」(イノヴェイションあるいはノヴェルティ)とはまさにコレだったのだ。「クラシックとポップの融合」などという大それたこと(または安っぽいこと)をいっているのではない。大友音楽は、21世紀の日本という時空間におけるクラシックとポップスの蝶番のような役割を果たしているのだ※。
「日本の音楽」の可能性を飛躍的に高めている、ともいえる。
※ この場合の蝶番とは、二つの板をつなげるコネクターとして理解している。二つの板は蝶番の存在によって重なり合うこともできれば、並列の状態を保つこともできる。だが、ふたつの板は蝶番によって一対であるともいえる。
ぼくのこの「発見」は、第二部の6曲目「地味で変で微妙」や「あまちゃんのワルツ」でもはっきり確認できた。とくにジミ・ヘンドリクスの「フォクシー・レディ」(1968年)を土台とした「地味で変で微妙」は秀逸。初出から45年を経て、極東の日本という地でようやくジミヘンの正統的なヴァリエーションが生まれた、という感慨を禁じ得なかった。大瀧詠一ふうにいえばメロディ・タイプの2曲目「銀幕のスター」、3曲目「アキのテーマ」、9曲目「TIME」、10曲目「希求」、11曲目「灯台」も、第一部の「海」などと同様むろん実に美しい楽曲だ(一部の旋律は共有)。作曲家・大友良英の才能がほとばしる作品である(ホントに涙が出る)。だが、これらの曲は、大友さんほどの作家なら「できてあたりまえ」だともいえる。錚々たる若手クラシック演奏家をひとまとめにして「グルーヴ」を創りだすことに成功した、 またまた大瀧詠一ふうにいえばノヴェルティ・タイプの楽曲「あまちゃんオープニングテーマ」、「あまちゃんスウィング」、「地味で変で微妙」などの曲こそ、大友音楽の真骨頂だ。メロディ・タイプは、ミューズが降臨すれば(つまりは才能にさえ恵まれれば)誰にでも生みだせる(それだって凡人にはできないことだが)。けれども、ノヴェルティ・タイプは才能だけでは生みだせない。歴史性(タイミング)、異なる文化との対立と調和、社会経済的な環境などにも大きく左右される。才能ある人が、よきポジションで待ち構えていて、これだという瞬間にアクションを起こすことができなければ、生みだせない成果だ。誰にでもできるというものではない。まさにイノヴェイションである。
あえてもう一点指摘すれば、歌手を欠いた音楽で、これだけのノヴェルティを生みだせたことも、特筆に値する。優れた歌手は、ときとして時空を越えてしまう。歌手自身の才能だけでノヴェルティやイノヴェイションを生みだしてしまう。だが、残念ながらそれは継承されにくい。パーソナルな才能のあり方に左右されるからだ。後継者がいなければたんなる伝説になってしまう。逆の言い方をすれば、大友音楽は歌手の才能に左右されないという自由度と普遍性を持っている。もっとも、歌手とどのように絡むのか、つまり歌バンとしての大友ビッグバンドに対する関心も捨てきれないが。
なお、第二部についてのレヴューは、結局「大友音楽論」になってしまったので、進行に沿った曲紹介はできなかったが、上記のほか「友情」(4曲目)、宮沢賢治のカヴァー作「星めぐりの歌」(8曲目)が演奏されている。
鳴り止まぬ拍手のなかで行われたアンコールは2回。1回目のアンコールは、劇中で架空のヒット曲とされている「潮騒のメモリー」と「あまちゃんオープニングテーマ」。「潮騒のメモリー」は劇中歌の一つで、曲は大友さんと前衛音楽家・Sachiko Mさんの共作。作詞は宮藤官九郎さん。近い将来、能年玲奈、小泉今日子、薬師丸ひろ子のうちの誰かの歌唱でオフィシャルなヴォーカル・ヴァージョンが出ることになるだろうが、今回は佐藤秀徳さんのトランペットが美しいリードを奏でるインスト・ヴァージョン。この曲、メランコリックなメロディに過去のヒット曲をツギハギしたような歌詞を載せている(大瀧さんや井上陽水が得意な手法だ)。その不協和音的な仕上がり具合がサイコーなのだが、それはヴォーカル・ヴァージョンがリリースされるまでお預けということか。2回目のアンコールは、もう曲の用意がないとのことで、“「地味で変で微妙」を限りなくヘロヘロな 演奏で!”と大友MC。このヘロヘロ感がとんでもなくいい。それこそ「いってしまいそう」になるウマヘタの極みだ。 まさに大友グルーヴの正体がこれだ。こんな「ヘロヘロ」ができる第一級のB級バンド、「あまちゃん」スペシャル・ビッグ・バンドにあらためて敬意を表したという次第である。
映像や音盤だけではけっして読み切れない、「あまちゃん」大友音楽。今回のライヴでは、はからずも大友音楽の真髄に近づくヒントを得られたと思っている。まさにそれは、ノヴェルティでありイノヴェイション。日本の洋楽受容の歴史に新しい1ページを付け加えるものであったとぼくは確信している。次の展開がすでに待ち遠しい。
【蛇足】エンターテインメント的には、打楽器の2人の女性のキュートなパフォーマンスに激しくやられました。何度でも観たい!相川瞳さん、上原なな江さん、ありがとう。
【パーソネル】
大友良英(作曲、ギター)、斉藤寛(フルート)、井上 梨江(クラリネット)、鈴木広志(サックス系)、江川良子(サックス系)、東涼太(サックス系・リコーダ)、佐藤秀徳(トランペット)、今込治(トロン ボーン)、大口俊輔(アコーディオン)、江藤直子(ピアノ)、近藤達郎(キーボード、ハーモニカ)、かわいしのぶ(エレキベース)、小林武文(ドラム ス)、相川瞳(打楽器)、上原なな江(打楽器)
【セットリスト】
第1部
- あまちゃん オープニングテーマ
- 行動のマーチ
- 日常
- 朝のテーマ
- 琥珀色のブルース
- じぇじぇじぇ
- アイドル狂想曲
- 芸能界
- 海
- テーマ変奏曲
第2部
- あまちゃんスイング
- 銀幕のスター
- アキのテーマ
- 友情
- あまちゃんクレッツマー
- 地味で変で微妙
- あまちゃんのワルツ
- 星めぐりの歌
- TIME
- 希求
- 灯台
アンコール1
- 潮騒のメモリー
- あまちゃん オープニングテーマ
アンコール2
- 地味で変で微妙