沖縄の真実(8) 壊された石碑〜続・薩摩藩士の琉球

壊された石碑

壊された石碑

3月13日付のこの備忘録で奥武山にある当間家の石碑が最近誰かに壊された、という話を書いた。(沖縄の真実(5) 壊された石碑〜薩摩藩士の琉球)

その後、資料をあたってみたら、当間家は、薩摩(大隅)出身の伊地知家に連なる士族で、琉球王朝時代から戦後にかけて要職に就いた家系であることがわかった。沖縄近現代史に関心のある方ならご存じかもしれないが、初代那覇市長の当間重慎、第二代琉球政府行政主席で第10代・第15代那覇市長も歴任した重剛(重慎の子)、第13代那覇市長の重民(重慎の子・重剛の弟)もこの一門である。

自分の無知をさらけだすようで恥ずかしいが、これは相当な驚きだった。そんなことがありうるのか、と思った。明治以降、本土から派遣された役人が沖縄の要職に就くというのは珍しくないし、仕事で沖縄にやってきてそのまま住みつく人もけっして少なくない。ところが、身分制や居住条件が今よりはるかに硬直化していた17世紀に沖縄へ移住し、王府の政策決定に関わる要職に就いた人物がいたのである。しかも、その子孫は明治以降、行政のトップに立っている。そんな家系があるとは考えたこともなかった。沖縄史の研究者や郷土史家、沖縄で執筆活動する作家の方々からは、「お前はそんなことも知らなかったのか」と叱られるだろうが、ぼくと親しい沖縄在住の知人・友人たちも、一様にその事実に驚いていた。おそらく一般にはほとんど知られていないことなのだろう。

伊地知家(当間家)の出発点は、薩摩の琉球侵攻後まもなく派遣された伊地知重陳(1591~1676)だ。壊されずに今も残っている記念碑にその名は刻まれている。大隅国国分出身の重陳は、薩摩藩家臣団の一角・畠山家を祖とし、その血筋は桓武平氏秩父氏系だという。重陳は、畠山二郎重忠の三十一世孫、伊地知大膳正重の三男とされている。父である伊地知大膳の名も薩摩藩史に出てくるから、伊地知家が戦国の争乱から江戸時代に至る島津氏を支えた名家ということは想像に難くない。フルネーム(大和名)は伊地知太郎右衛門重陳。またの名(琉球名)を平啓祥という。奥武山の石碑の一つに「平」という文字が刻印されているのは、そうした由来のためだろう。

重陳の経歴については不明な点も多いが、琉球に渡ったのは薩摩侵攻の翌年にあたる1610年、19才のときだと伝えられている。薩摩の代官所といえる「在番奉行所」が那覇港近くに設置されたのは1628年のこと、重陳が来琉したときはまだ、在番奉行所はなかったことになるが、最初の「大和横目」に任ぜられたといわれる。大和横目は、薩摩士族と那覇士族の両方から選ばれる役職だった。薩琉関係に関わる者や交易船(大和船)の監視などがおもな業務で、薩摩から任命されることになっていたらしい。

1634年に重陳は「豊見城間切当間(当間)の地頭職」に任ぜられた。これは「豊見城という行政区域(現在の豊見城市)のなかの当間という地域の領主に就任した」という意味だ。17世紀末の間切整理で、当間村は豊見城間切から離れて新設の小禄間切(現在の那覇市の一部)に属するものとされたが、今の地図に対照すると、空港に隣接した自衛隊基地の周辺、赤嶺の交差点近くの一帯だ。このとき、伊地知家は薩摩藩から琉球王府に移籍したと解すべきだろう。今様にいえば、当初は「琉球支店への転勤」、役職を与えられた時点で「現地法人への出向・栄転」、そして最後は「支配関係にある別会社への転籍・幹部就任」ということになるのだろうか。「伊地知」から「当間」への改姓も、このときに行われたものと推定できる。

重陳は黒糖と鬱金(ウコン)の専売制度(私的売買を禁じ、薩摩への輸出が制度化された)を確立したほか、対中貿易の中止と寛永通宝の普及にともなって死蔵されていた薩摩の鋳貨・加治木銭を琉球に移入し、改鋳して流通させた。加治木銭のように円形で真ん中に四角い穴が開けられている小型鋳貨は、形が鳩の目に似ていることから鳩目銭と呼ばれている。

重陳のいちばんの仕事は、この鳩目銭を琉球に導入したことにあるといわれている。またの名を当間銭というのは、重陳に因んだものだろう。先に触れたように、当間銭はもともと加治木銭と呼ばれる薩摩の鋳貨が原型である。加治木銭の詳細はまだわかっていないらしいが、薩摩による対明貿易の決済手段として考案されたようで、天正年間(1582)~寛永13年(1636)までの約50年間、薩摩を中心に出回ったという記録がある。「寛永通宝」(1636年創鋳)のように中央政府(幕府)のお墨付きをもらった通貨ではなく、あくまで私鋳貨であり、それほど普及はしなかった。私貨幣といえば、民間企業である香港上海銀行の発行するHKドル紙幣を思い浮かべてしまうが、加治木銭はまだ貨幣経済が浸透する前の段階での鋳貨であり、基本的には貿易決済手段という性格のものと理解してよいだろう。ただし、領内や九州各地では限定的に流通していたらしい。

鳩目銭はコイン自体に金銀が含有されない粗悪な鋳貨だったので、一枚当たりの価値は低く、琉球では400枚から1000枚を藁の緡(さし)で束ねて使われていたようだ(日本銀行貨幣博物館 琉球の銭貨・鳩目銭)。束ねたものを封印して使用されたことから封印銭とも呼ばれている。封印銭は、沖縄本島各所、八重山・竹富島などで出土しているから、そこそこは流通したのだろう。そもそも薩摩の琉球支配の思惑は、戦国末期に自分たちが放棄せざるをえなかった対中貿易を、“独立国”を偽装した琉球に代行させ、利を吸い上げるというところにあったから、重陳は加治木銭を琉中貿易に転用しようと考えていた可能性はある。が、進貢船(琉球の遣わした船)・御冠船(中国の遣わした船)による琉中間の交流も途切れがちな時期だったので、結果的にもくろみどおりにはいかず、貿易決済手段ではなく地域内通貨として用いられるようになったのかもしれない。

沖縄市池原には重陳の事績を伝える石碑がある(「泡瀬地先遺物散布地」池原  https://www.city.okinawa.okinawa.jp/about/1138/1140)。1655年に加治木銭を薩摩から譲渡され、翌56年に鳩目銭を造った(改鋳した)という記録が残されているが、石碑の文字は摩耗して判読ができない。なお、沖縄市の説明では1657年改鋳となっているが、王朝の歴史を綴った『球陽』からは1656年と読み取れる。

琉球では、古琉球時代に鋳造されたという「中山通宝」「大世通宝」「世高通宝」「金園世宝」などが知られているが、中国から流入してきた銭貨のほうが優勢だったという。当間銭が中国銭貨を補うものだったのかどうかはわからないが、品質はあまり信頼されていなかったようだ。鋳造からほどなくして、日本本土から入ってきた「寛永通宝」に主役の座を明け渡すことになった。

が、寛永通宝が主役の時代となっても、当間銭はその役割を変えて生き残った。唐船(中国船)が入港するたびに、王府は寛永通宝を回収して、蔵で保管されていた当間銭を代替貨幣として放出したという。これは、日本の属国であるという事実を中国に知られないようにするための隠蔽工作だった。

当時の琉球は「日中両属」、つまり形式的には中国の朝貢国(冊封国)、実質的には薩摩の従属国(附庸国)という立場だった。ただし、巷間いわれているような薩摩の奴隷国ではなく、自治性・主体性はきわめて強かった。諸政策の枠組みは幕府と相談の上薩摩が決めるが、具体的な政策のほとんどは王府が意思決定し、責任を持って実施・運用するという仕組みだった。

とはいえ、薩摩との関係はやはり支配・被支配の関係であることに変わりはない。中国側はかなり早い段階でこの事実に気づいていたようだが、琉球側は「バレてない」と信じこんでいて、来航が近い段階ともなれば、寛永通宝を必死になって回収した。

1816年に来琉した英軍人ベィジル・ホールの記録では「琉球には貨幣はない」となっている。王府は英国にも日本との関係を知らせたくなかっただろうから、このときも銭貨の回収と交換を考えたのだろうが、なにしろ突然の来航である。回収交換作業はとてもまにあわない。そこで、大慌てで「銭貨を使うな」という指令を出したのではないだろうか。その結果、銭貨そのものがホールの目にとまることはなかった。王府の役人はホッと胸をなで下ろしたにちがいない。重陳も、自分が苦労して造った鋳貨が、まさか隠蔽手段として生き残るとは思ってもみなかっただろう。

重陳が薩摩から琉球に転籍した事情は不明である。琉球側の史料はその事実をたんたんと記しているのみである。薩摩藩の史料のなかにヒントは隠されているかもしれないが、支配する側から支配される側に移る以上、かなりの覚悟で下した決断だったのではないか。が、いずれにせよ薩摩藩上層部から転籍の命令がなければ実行されない人事だったはずだ。薩摩藩のそうした辞令・命令が拒絶できる類のものだったのかどうかもわからない。19才と若くして琉球に派遣された重陳だから、地元の女性との「恋愛→結婚」が絡んでいる可能性も強い。つまり、恋愛の末結婚して国元(薩摩藩)に転籍願いを出し、それが認められて辞令が交付されるという手順である。王府の側が、経済政策にたけた人材を求めた可能性も否定できない。王府内の人材では不足しているから、薩摩藩に重陳を譲ってくれるよう要請したのではなないか、という可能性である。もっと深読みすれば、王府の意思決定に深く関わる久米人(中国から渡来した人びとの末裔・琉球では特権的な階層だった)とのバランスをとる必要性を痛感した指導者がいたのかもしれない。つまり、久米人の集団に対して薩摩人(大和人)の集団を対置しようという発想である。薩摩侵攻時から明治初期・中期までひきずられた王府内の「中国派vs薩摩(大和)派」という対立の構図に関係する人事だったということだ。

渡辺美季氏と上里隆史氏の尽力でつくられた家譜データベースを検索したら、伊地知家だけではなくほかにも「転籍組」がいたことがわかった。以下は那覇士族(沖縄の士族は首里士族、那覇士族、久米士族、その他となっている)の家譜から抽出した例である。なお、一次史料を参照していないので、データの並べ方は十分ではない。その点はお断りしておく。

道雪入道(経受徳/仲村柄ナカンカリ親方/通称・道雪入道/兼詮):薩摩藩主の命で琉球に移住し、重陳と並び初代大和横目に就任。

吉見吉左衛門 (吉氏/諸見里親雲上/喜納筑登之親雲上):父は薩摩久志出身の商人。

華子幹(根指部親雲上/盛治与座筑登之親雲上):父は隈本九郎右衛門。1631年に薩摩から渡琉。琉球人になり、運天と名乗る。筆造りを伝えたといわれる。

工善事(仲元筑登之親雲上・喜長):父は薩摩小根占町の妹尾五右衛門。島津仲殿の家来。2世喜道は1775年に薩摩に渡り祖父・妹尾五右衛門の後を継いだ。

荀古奥(工氏/仲元筑登之親雲上/大嶺筑登之親雲上/詮雄):父は薩摩の島喜右衛門。

丸田自昌(上地親雲上/宗元/渡久地筑登之親雲上):父は薩摩の丸太十郎左衛門。

幸開基(思仁王兼才/幸田筑登之):父は薩摩鹿児島の藤原氏門田各二郎兼通。

武氏(我如古筑登之親雲上):薩摩小根占大濱村の坂口武右衛門の妻が始祖。

宇氏(思加那/仲浜筑登之親雲/仲尾次家):薩摩久志の仲村宇兵衛の妻が始祖。

「転籍」のルートは種々あるようで、ここに掲載されたデータを見る限り、薩摩藩による下命があったかどうかまでははっきりわからない。士族もいれば寄留商人もいる。出自がよくわからない事例もある。薩摩人の妻が始祖となっているものがあるが、滞琉中に夫と死別し、そのまま居残ることが認められたのであろうか。いずれにせよ、これらのデータからは、薩摩人集団を意図的・組織的に形成しようとした形跡はみあたらないが、想像力は大いにかきたてられる。

それにしても当間家の石碑はなぜ壊されたのであろうか。壊したのは何者なのか。薩摩に連なるその家系を許せないものと考えたのか。それとも、当間重慎、重剛、重民父子が、米民政府や支配階層の意向に沿って動いたことを恨む者の仕業なのか? とくに重剛は、戦後沖縄の大衆的ヒーローともいえる政治家・瀬長亀次郎を弾圧したことでも知られる主席であり、市長であった。そのことに今もって腹を立てている者がいるのか? 当間一門の側も、この石碑を修復し、元の場所にもどそうとはしていないが、もはや過去を蒸し返したくない、という思いが強いのか? いや、単純に修復費の問題なのか? 疑問はふつふつと沸いてくる。

壊した者の動機がどうであれ、沖縄民族主義の臭いが漂ってくる。いやな感じだ。

2012年4月24日

 

《参考》

 

  • 球陽全文検索
  • 伊波普猷『沖縄歴史物語』(平凡社ライブラリー・1998年/オリジナル版:1947年)
  • 宮城栄昌『沖縄の歴史』(NHKブックス・1968年)
  • 紙屋敦之『歴史のはざまを読むー薩摩と琉球』(榕樹書林・2009年)
  • 日本銀行金融研究所貨幣博物館 常設展示図録

 

 

 

 

 

(2017年9月追記)
この記事は、大幅に加筆・改編して『外連(けれん)の島・沖縄―基地と補助金のタブー(飛鳥新社)』に収録されました。

関連記事
沖縄の真実(5) 壊された石碑〜薩摩藩士の琉球 2012年3月13日

批評.COM  篠原章
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket