8月15日〜わが家のミステリー

8月15日が過ぎた。同居する81歳の母は「安倍首相は戦争について反省の意を示さなかっ た。とんでもない人だ」と、東京新聞を読みながら頭から湯気を出して怒っている。怒りながら「靖国神社にお参りしないといけない。連れて行け」という。まともに歩けない体だから、独りで靖国へは行けない。「この暑さで靖国まで行ったら、熱中症になりかねない」と説得するのもひと苦労だ。

父方の伯父は硫黄島で戦死しているが、なぜか靖国には祀られていない。なぜ祀られていないのか、祖父母も父も亡くなった今、そのわけを知る人はいない。伯父の場合、遺骨も遺品もないから、そのせいかと思ったが、遺骨遺品のないケースでも靖国には祀られているから、どうやらそれは違う。他の慰霊施設に祀られていると、靖国には祀られないケースもあるというが、この点もはっきりわからない。祖父は戦前・戦中・戦後と一貫して熱心な天皇制支持者で改憲論者だったから、戦死した息子の靖国合祀を積極的に拒否する 理由はないはずだが、一方で軍人や軍隊を毛嫌いしていた。ひょっとしたら、そういうことが関係しているのかもしれないが、いずれにせよ、ちょっとしたミステリーだ。

ミステリーといえば、戦死した伯父の弟に当たる父は、同級生の大半が学徒出陣するなか、軍役を免れたまま大学の最終学年で終戦を迎えた。なぜ招集されなかったのか、父が亡くなった今はそれもミステリーだ。戦時中の父は、大学の実験室で実験するフリをしながら、夜中にこっそりつくった密造酒をリアカーに載せ、昼のあいだ祇園で売り捌いていた、という。最近までぼくは父のこの話を信じていたが、それはおそらく大ウソだ。

父が在籍した研究室は湯川秀樹研究室だ。湯川さんは 戦時中原爆を開発していた。F研究といわれる遠心分離法の研究である。ということは、父は原爆開発のためのF研究の末端スタッフとして遠心分離法の計算を手伝っていた、と考えるのが自然である。当時の大学生は今でいえば大学院生だから、指導教官の研究を手伝うのはあたりまえだ。父が招集されなかったのは、 おそらく原爆開発に関わっていたからだろう。湯川研究室が原爆開発に携わっていたことは周知の事実だが、湯川さん本人は最後まで認めなかった。指導教官が認めていないのに、その弟子が「原爆開発を手伝っていた」とはいえない。父はその代わり「密造酒」をつくっていたというホラを吹いたのだろう。

8月15日に戦争が終わると、父は数か月後の卒業を待たずに大学を中退し、逃げるように実家に帰った。その実家も戦災で焼失して居場所もなかったので、父は東京の大学に再入学して新しい人生を始めた。「兄が戦死したことも関係あるが、物理学の世界には天才的な同輩・先輩がたくさんいたから叶わないと思って退散したんだよ」というのが父の説明だったが、今思えばその言葉も疑わしい。もっと別の理由もあったはずだ。

父は素人とは思えないほど放射能に詳しかった。一方で、異常と思えるほど放射能を怖れてもいた。死ぬまでマグロを口にしなかったが、それはビキニ環礁における米軍の核実験がきっかけだったと母はいう。そうか。そういうことだったか。

8月15日を迎えるたびに、こうして伯父や父のミステリーをぼくは考えつづけることになるだろう。加害者論・被害者論の立場から戦争を考えよ、と人はいう。だが、戦争を「家族史」「自分史」として認識することのほうが、今のぼくにとってはより切実な課題だ。

京都大学旧物理学実験場廊下(現学生部)

京都大学旧物理学実験場廊下(現学生部)

批評.COM  篠原章
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