検察庁の政治的体質を問う —「木内騒動」(1951年)から学ぶ黒川定年延長問題

問題の本質を捉えようとしない改正反対運動

与党による検察法改正案に厳しい批判が向けられている。篠原の立場をあらかじめ明らかにしておくと、今年の1月〜2月に物議を醸した黒川弘務東京高検検事長の定年延長問題と、国家公務員なら並びに検察官の定年延長を含む国家公務員法・検察庁法の改正問題を一緒くたにした議論は不毛であると考えている。検察庁法の改正さえ阻めば黒川氏の人事を無効にできるという誤解すら蔓延する現状は、問題を知性的に捉えるというあらゆる試みに敵対するものだ。もっとも本質的な問題は「検察権力」のあり方を問うことだと思うが、完全にピントがずれた社会現象に成り下がっている。嘆かわしいとしか言い様がない。

「稲田頑張れ」といわない反対派の謎

これまで繰り返し指摘してきたように(拙稿〈黒川疑惑が生みだした「珍妙」な検察法改正反対運動〉〈東京高検検事長の「定年延長」は何が問題なのか?〉)、黒川氏に対するえこひいき人事は手続き的に違法性が高いが、2月の段階で「済」になった人事案件であり、今回の検察庁法改正が「検察の独立性・中立性を侵す」という批判は、現在の検察庁が「独立的・中立的である」という前提なくしては成立しないものだが、検察庁の独立性・中立性についてはすでに十分な疑義が存在しているから、批判として成り立たない。しかも、現状から推察するに、安倍晋三政権が批判に屈して検察庁法改正を断念したとしても、黒川氏は現職にとどまる。黒川氏の処遇とは直接関係のない法案だからだ。「黒川検事総長就任」を失敗に終わらせたいなら、半年間延長された黒川氏(1957年2月8日生まれ)の実質的な定年日(満63歳)である8月7日を過ぎても稲田伸夫現検事総長が現職にとどまっているだけでよい。稲田氏が満65歳になる形式的な定年日は2021年8月14日である。黒川検事総長に反対する人々は、稲田氏が8月8日まで現職にとどまるようエールを送ればよいのである。だがそんなことは誰もやっていない。「黒川検事総長」に本気で反対しているのかどうか、怪しい限りだ。たんなる反対のための反対(政権批判のための反対)に堕している。

検察庁は中立・独立しているのか?

検察庁並びに検察官の持つ強大な権力に歯止めをかけるべきであるという主張を持つ篠原にとって、野党を中心とする今回の問題提起は、事の本質からかけ離れている。これまでの主張の繰り返しになるが、鈴木宗男汚職事件、ライブドア事件、リニア談合事件、カルロス・ゴーン背任事件、昨今のIR汚職事件などいわゆる「国策捜査」で示されてきた東京地検特捜部の「正義」は、この国やこの社会を守るのに貢献してきたのだろうか。見逃すべきではないのに、実際には見逃されてきた「不正義」はなかったといえるだろうか。

それだけではない。勾留・拘置の期間を事実上恣意的に決定できる「人質司法」は現状のままでいいのか。捜査権と起訴権というふたつの「権力」が検察庁に集中する現状は許容されるのか。他国の諸制度もあらためて勘案しながら、「俺が国家権力だ」と自認するような検察庁のあり方を見直す時期に来ているというのが篠原の持論である。検察権力のあり方を再検討せずして、独立性・中立性もへったくれもない。

「木内騒動」と検察庁内部の闘争

検察庁の正義が、いかなる土壌で生成されてきたのかを知りたいと考え、参考になりそうな『東京地方検察庁沿革誌』(東京地方検察庁沿革誌編集委員会/1974年)、山本祐司『特捜検察物語 — 政治権力との闘い』(講談社/1998年)、渡辺文幸『検事総長ー政治と検察のあいだで」(中公新書ラクレ/2009年)、郷原信郎『検察の正義』(ちくま新書/2014年)、村木厚子『日本型組織の病を考える』(角川新書/2018年)、倉山満『検証 検察庁の近現代史』(光文社新書/2018年)などを取り寄せて読もうと準備していたら、前半の3冊を参考書とした共同通信の記事検察人事に介入、かつては倍返し  70年近く前の「木内騒動」、さて今回は?(竹田昌弘編集委員)が3月11日に配信されていることを知った。まとまっていてとてもよい記事だ。

竹田編集委員は、とくに1951年に起こった「木内騒動」を取り上げ、政治家による検察庁人事への介入並びに検察幹部の政治性を問題視している。木内騒動とは、法務総裁(現法相)だった大橋武夫が、最高検次長検事(検事総長に次ぐナンバーツー)の木内曽益(つねのり)を左遷し、広島高検検事長の岸本義広を次長検事に据えようとして、当時の検事総長・佐藤藤佐(とうすけ)らと衝突した人事をめぐる一連の争いである。

終戦直後の検察庁にはふたつの「人流」があったという。ひとつは戦前の検察庁の主導権を握っていた公安系の検事グループ「思想検察」であり、もう1つは政治家の疑獄事件・汚職事件を扱う検事グループ「経済検察」である。戦後は、GHQにより思想検察は冷遇され、経済検察が主導的立場にあったが、大橋総裁が、思想検察の人脈に肩入れしようとして大きなトラブルになったと思われる。

特捜は経済検察が庁内を支配するなかで設けられた組織で、木内の後輩で経済検察の有力者だった馬場義続(よしつぐ)が創設したといわれるが、その馬場は、「政治権力にも社会の風潮にも左右されず、法律違反だけを厳しく追及するのが、検察の正道だ。このことは検事なら誰でも知っているが、実行するには勇気がいる」が口癖だったという。

「木内騒動」は、大橋が木内をはずして岸本を次長検事に据え、木内が退官することでまずは決着したが、これは第1ラウンドに過ぎなかった。第2ラウンドでは、馬場を中心とする経済検察が巻き返しに出て、大橋総裁の過去の汚職疑惑を追及して法務総裁の地位から引きずり落とし(結果的には不起訴)、思想検察のトップランナーだった岸本の検事総長就任を阻んだ。さらに経済検察優位のまま第3ラウンドも加えられた。岸本は退官後、1960年11月の衆院選に打って出て当選するが、経済検察(大阪地検特捜部)は9か月にわたって岸本の選挙違反を捜査・摘発し、岸本とその子息を起訴した。おかげで次の衆院選では岸本は落選の憂き目に遭う。先に触れた馬場は1964年に検事総長に就任したが、就任2か月後に選挙違反事件の判決公判が行われ、岸本は執行猶予付きの有罪判決を受けている。1951年に始まった「木内騒動」は、1964年まで実に13年にわたって尾を引いたことになる。結果は、経済検察の圧勝だった。竹田編集委員はこの勝利を「経済検察の2倍、3倍返し」と表現している。

「木内騒動」から学ぶべきもの

竹田編集委員は、「木内騒動の教訓」を次のようにまとめている。

まず政治が検察人事に介入すると、長く尾を引くということ。51年3月の木内辞職から岸本の有罪判決まで、遺恨は実に13年も続いた。岸本の経済検察に対する人事は確かにひどかったが、馬場も例えば、岸本が検事長当時の東京高検次席検事だった岡原昌男を京都地検検事正に飛ばし、5年も放置した。検察組織はずいぶん痛んだのではないか。 

また人事権に捜査権で対抗したのは、検察の在り方として異常ではないか。大橋が取り調べを受けた容疑は、別の弁護士であれば、捜査しないケースだろうし、岸本の選挙違反事件は、別の候補者であれば、9カ月もかけて徹底的に捜査しないだろう。 

竹田氏は「政治による検察庁人事への介入」が騒動の元凶であるとしているが、篠原としてはちょっと釈然としない。なぜなら、当時の吉田内閣も岸内閣も、一連の騒動に対してむしろ傍観者的な立場にあったからである。大橋法務総務は、戦前から検察庁内部に存在した対立に巻き込まれただけのようにも見える。たしかに、先に取り上げた馬場元検事総長の言葉は美しい。検察の中立性を体現するかのような発言である。だが、よくよく吟味してみれば、「国家権力」そのものを体現するようになった戦後検察庁の絶大なる権力は、検察官自身の「この国はどうあるべきか」という政治的判断に依存していることになり、それが国民感情や国民の利益あるいは国益を損なっている可能性も否定できない。検察庁内部の「政治的」対立に翻弄された、後味の悪い第2ラウンド、第3ラウンドの結末に注目すれば、検察官が恣意的に権力を行使したことも明らかだ。中立性・独立性は方便に過ぎないのではないか。「気に入らないもの(主張)は排除する」という政治的体質さえ垣間見える。

したがって、問題はやはり、迷走や暴走の可能性を孕む「検察権力」をいかに規制するかだと思う。黒川氏の人事に介入した安倍政権の意図はいまだによくわからないが、「検察権力の迷走・暴走」のほうが問題としてははるかに重要で深刻だ、というのが篠原の判断である。この点に着目しない「検察の独立性・中立性」の議論などありえない。ほとんどの政治家、メディア、識者は、こうした本質的な論点を避けたまま、取るに足らぬ議論に終始している。それこそ「民主主義の危機」だと思う。

批評.COM  篠原章
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