翁長雄志沖縄県知事の逝去に際して想うこと

翁長知事の逝去には、思った以上に大きなショックを受けた。ちょっとした鬱状態に陥ったが、そんななか、ある大学教授から「あなたがもっとも厳しく翁長知事を批判してきたのだから、その死に際して発言する責任があるのではないか」といわれてしまった。

「責任がある」とは考えないし、今はあまり多くを語りたくない気分だ。総括的な論考を書いて霊前に捧げたいと思うからだ。そうでなければ、良くも悪くも「奮闘」した翁長氏に対してさすがに失礼だと思う。

ここでは来たるべき「論考」の骨子となる部分のみを記しておくことにする。

翁長氏の動向を8年間ほど注視してきたが、「自分が沖縄のリーダーにならなければダメだ」という思いは強かったと思う。ときには巧みな政治算術で政敵を倒すこともあったが、支持者に対しては細心の注意を払い、政治的な成果や経済的な果実を分け与えてきた。ぼくからすればピントのずれた使命感に見えたが、翁長氏のなかでは、自分自身の流儀に対する肯定感は強かったと思う。不幸なことに、翁長氏の見かけ上の使命感は、ある種の政治的熱狂まで生みだした。

翁長氏に熱狂した本土の識者の多くは、翁長氏を「不屈の政治家」と見ていたと思う。負けず嫌いだったとは思うが、不屈と言えるほどの「信念」はなかった。魑魅魍魎の跋扈する沖縄のなかで頭一つ出て「権力」を獲得するために、理にかなわないことにも平気で手を染めてきた政治家だった。「私欲」のためではなかったが、「権力欲」は人一倍強かった。沖縄の未来や安保に対するビジョンはなかったが、時流を捉えてそれに乗る能力は高かったと思う。

沖縄の政治的・経済的基盤が、「基地反対と振興策獲得の均衡」の上に成り立っていることを翁長氏は熟知していた。その認識はある意味正しかったし、「イデオロギーよりアイデンティティ」などという耳障りのよい言葉で本質的なものを覆い隠すことによって、メディアの主潮流を引きつける力も備えていたが、より若い世代にとっては、「基地反対と振興策獲得の均衡」が沖縄という船を牽引する力でないことは明らかだった。そうした「均衡」からの脱却こそ、沖縄の未来図を描く指針となるはずだったが、彼は自らの政治的立場を曲げてまで「均衡」を死守する道を選んだ。「政府の方針に決定的なダメージを与えない」で「基地反対」を貫く姿勢は矛盾だらけだったが、基地反対と振興策獲得の均衡」は守れると考えていたのだろう。

彼をそのような立場に追いこんだのは、沖縄に長らく定着していた「基地反対と振興策獲得の均衡」という考え方そのものだったわけだが、直接的には前回知事選における仲井眞前知事の「続投表明」が引き金になった。仲井眞氏は「辺野古埋め立て承認」を自らの成果と考え、これを勲章に三選を目指そうとしたが、それははからずも「基地反対と振興策獲得の均衡」を撹乱する要素を含んでいた。「容認勢力」を利して「反対勢力」を軽視するその判断は、沖縄の保守的・伝統的なパワーバランス観をいたずらに傷つけるものとなり、翁長氏の「使命感」に火を付けることになったのである。

「翁長知事」を生んだのは保革を問わず沖縄に蔓延していた「基地反対と振興策獲得の均衡」という保守的な政治姿勢だった。翁長氏は沖縄旧体制の象徴と言うべき政治家だったと断言してもよい。

翁長氏逝去を受けて実施される次期知事選は、「基地反対と振興策獲得の均衡」を捨てて、あらたなる規範を持つ新体制に移行するチャンスだが、果たしてそのチャンスを生かすことができるかどうか。

率直にいって、現在の沖縄政界の動向を見ていると、「基地反対と振興策獲得の均衡」という幻想にしがみつく時代がまだまだ続きそうな気がしてならない。

批評.COM  篠原章
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