佐藤優「辺野古移設は21世紀の琉球処分」の危うさ (2)

Fallacious Opinion Of Mr.Sato, Masaru On the Okinawa Problem (2)

佐藤優「辺野古移設は21世紀の琉球処分」の危うさ (1)から続き)

琉球処分は、廃藩置県・地租改正・秩禄処分・廃刀令などといった政策とパラレルに進められたものであり、それは近代化のための経済政策の一環として行われた、という視点を抜きに語れません。

まずは廃藩置県と琉球処分の関係について、正面から捉える必要があります。

廃藩置県は封建制や身分制からの解放に関わる重要な1ステップでした。幕藩体制の残滓である藩政を廃することで、近代的な中央集権制度を確立し、「士農工商」という封建的な身分制を廃することが喫緊の課題だったのです。

しかし、藩の廃止によって秩禄(給与)という既得権を失う可能性のある士族にとってはただ事ではありません。理由は簡単です。喰えなくなるからです。廃藩置県に続いて秩禄処分(士族の給与廃止)や廃刀令が施行されるに至って、士族の反発は頂点に達しました。

秩禄処分・廃刀令に対する抵抗運動は日本全土で起こりましたが、もっとも有名な抵抗運動は「西南戦争」(1877年)でした。学校では「西南戦争は、征韓論に敗れて下野した西郷隆盛が旧薩摩藩士を集めて起こした日本最後の内戦」というふうに教わりますが、「廃藩置県」(1871年)→「秩禄処分」(1876年)・「廃刀令」(1876年)という流れのなかで失業の憂き目に遭った薩摩士族たちの不満の爆発と捉えるほうが実態に近いでしょう。この戦争では政府軍・西郷軍合わせて13,000の人命が失われましたが、政府軍の主力部隊も旧薩摩藩士でした。なぜ薩摩の士族同士が闘う羽目になったのか。その理由のひとつに士族人口の問題があります。

薩摩の場合、人口比でいえば約25%が士族(家族含む)。日本全体の平均は5〜7%といわれていますから、薩摩の士族人口がいかに多かったかがわかります。明治政府は薩長連合政権といわれていますが、この藩閥政治を持ってしても吸収できないほどの士族人口を、薩摩は抱えていたことになります。

たしかに薩摩は明治政府の主導権を握っていましたが、国家公務員(役人、警察官、軍人)のすべてを薩摩の士族にのみ割り宛てるわけにはいきません。長州の士族はもちろんのこと、他藩の士族、非士族も雇用しなければ、政治を安定させることができないからです。公務員への門戸を各藩士、非士族に広げないわけにはいかないのです。そのためには薩摩自身も我が身を削らなければならなかった、ということでしょう。

西郷さん自身は、「明治維新の功労者」として権力を握り続けることも可能だったでしょうが、彼はその選択肢を選びませんでした。自分のことよりも、薩摩の失業士族の救済に力を尽くそうとしたのです。西郷さんは、「征韓論(または韓中など東アジアの政治不安に対する軍事的備え)」を名目に旧薩摩藩士を国軍として再編成することで救済しようとしたのです。西郷さんの行動には、心情的にそそられるものがありますが、当時の政治的環境はそれを許しませんでした。台湾、韓国の併合というその後の歴史を見れば、西郷さんの政治感覚は富国強兵時代を先取りしていたことにもなりますが、インフラの整備に全力を傾注すること が先決事項と考えていた盟友・大久保利通にとっては明らかに「時期尚早」だったのです。当時の政府には、薩摩藩士を国軍として再編成する余裕はない、というのが大久保さんの合理的な判断だったと思えます。今ふうにいえば、「経済優先・インフラ整備優先」の大久保が「軍事優先・雇用対策優先」の西郷に優った、ということでしょうか。その結果として起こった内戦が、西南戦争だったというわけです。

ハフィントンポスト(2013年12月7日)

ハフィントンポスト(2013年12月7日)

佐藤優「辺野古移設は21世紀の琉球処分」の危うさ (3)に続く)
佐藤優「辺野古移設は21世紀の琉球処分」の危うさ (1)もどうぞ)

批評.COM  篠原章
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