サエキけんぞうへのメール–『ナビィの恋』を巡って

1999年2月9日(火)『ナビィの恋』

中江裕司監督『ナビィの恋』の試写を従弟のサエキけんぞうと観た(2/4・イマジカ)。中江監督は、『ハイサイ沖縄読本』執筆時(91年頃)からの友人で沖縄在住。沖縄産映画として有名になった『パイナップル・ツアーズ』(92年)がデビュー作。『ナビィの恋』は『恋する惑星』なんかにも通ずる吹っ切れ方をしたすばらしい映画。公開はまだ決まっていないが、99年最大の話題作になる可能性を秘めている。以下はサエキ宛篠原発のE-MAIL。サエキ発篠原宛の文面は勝手に想像してください。

サエキけんぞうさま

返事遅れました。電子メールでの原稿催促に怯える日々ですので、ついついメールを開くのが遅くなってしまうのです。たいへん失礼。

『ナビィの恋』について思案をめぐらしているのはぼくもおなじ。サエキ説をぼくなりの言葉で言い換えるとね、<封建制>と<個人主義>の対立というより、まずは<閉鎖系>と<開放系>の対立なんですね。あれは語義通りの<封建制>じゃないです。きっと。<島>という閉鎖的な空間の中で生活するための知恵の体系だったんだと。<閉鎖系>を堅守することが生きることと同義なシステム。それがシステムとして有効だった時代も確かにあった。島の外とのコミュニケーションがあまり必要じゃなかったからね。が、<閉鎖系>を守ることが、物質的にも精神的にも<幸>をもたらさない時代、いうなれば<開放系>=開かれた時代にはそぐわないシステムとして陳腐化してしまっていた。でも、怖いんです、このシステムを積極的に壊すのは。だって開放系には何が潜んでいるか分からない、幸もあるだろうが、鬼もいれば蛇もいるだろう。

が、恋愛という、もっとも自己実現的で、自己責任的な行為を媒介に、一介のおばあが閉鎖系を打破してしまった。ここで初めて個人主義がでてくる。もし<自分の幸せ>を<自分で選択できる社会>の理念を<個人主義>というのなら、個人主義は開放系固有の理念。ほんとうに幸せになるかどうかなんてお天道様にもわからない。実は「幸せになれるかどうか」が問題じゃないんだな。自分の責任において自分で選択したことが大切なんですよ、たぶん。

<島>の多くの人は自分で選択できない、選択したくともね。たとえ選択できたとしても限られた選択肢から選ぶだけ。<島>や<家門>の秩序を乱すわけにいかないから。が、「一緒になりたい」という情動に素直にしたがって、ナビィは島からの脱出劇をみずから選んだ。情動によって旧システムを破壊したわけ。だけど、おばあの情動によって壊れるようなシステムは、もうシステムとしては機能していないことの証でもあった。で、もう一人のシステム攪乱者としてのヤマトーンチュ青年の婚姻に引っかけて、島じゅうがシステムの終焉を祝う。島として開放系を選んだわけ。こっちのほうがエエわとばかりにね。

こうやってトレースし直して見ると、どうってことない映画なんだけど、題材にはけっこう普遍的な説得力がある。沖縄の美しい自然に救われている面もあるけど、ぼくなんかにはかなりリアルでした。

だって沖縄では「60年待つ」ってありそうなんだもの。時間が止まっちゃった島ですからね。

それこそ「日傘ぐるぐる ぼくは退屈」(はっぴいえんど)な時空間。

サエキ説通り<情動の不条理性>は着地しないだろうけど、それでもいいんですよ、あれは。ナビィが「19の恋」の再現を選んだことで十分なんです。むしろ、残された島の人々が、ナビィのシステムからの離脱を怒ったり悲しんだりしないで、祝っちゃうところがポイントじゃないかな。人間本来の脳天気さが、システムの変化を柔軟に受け入れ、楽しんじゃうコト、これこそが<人類生存への道>とまでいったら、言い過ぎかもしれないけど。

それから、<老いらくの恋>ってこれからの時代は日常化するはずです。その時にね、<家族関係>が問われて、<個人主義の定着>が試されることになる。ぼくはね、西欧的なテキスト通りではないけど、個人主義が芽生え始めていると感じてるんです。日本でも一部のアジアでも。かなりご都合主義的なかたちではありますが。が、それはいいことだと思いたいんです、ぼくとしては。「国家」の形骸化につながるから。もう「国家」というシステムは立ち行かない時代に入っていると思います。このまま国家にしがみついていたら人類共倒れになりかねない。ただ、共同体ってのはいつまでも残るでしょ。だから<共同体のあり方>は追求しなくちゃならない。どこからどこまでが自己責任で、どこからどこまでが共同責任かの線引きをし直すということです。まだまだ具体性のあるイメージは描けませんが。

ぼくのは社会科学っぽい分析で、あんまりサエキの文学的問題提起には答えていないんだけど、男女の問題や純愛として捉えるにはちょっと無垢な映画だったのかもしれませんね。ただね、これから社会を牽引するのはまちがいなく女です。制度やシステムは確かに頑固にみえるが、女40歳限界説を吹き飛ばすような女たちが続出すると推測します。男たちは優しそうな目をしてただ微笑んでるだけで済むわけにもいかないだろうけど

もっといろいろ考えときます。

2016年12月『ナビィの恋・コザ情報99』から改題
 
 
批評.COM  篠原章
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