首里城焼失 — 県民主体の再建運動でなければ意味がない
首里城(有料区域)の管理者は沖縄県だが、そもそも国有財産だから、国と県とが共同責任で再建するのは当然のことだ。だからといって、原因究明が終わらない段階で国費の支出を決めてよいことにはならない。そもそも焼失した建物自体は、重要文化財でも国宝でもない。精巧だとしてもそれはレプリカである。再建の意思決定は、火災の原因や国や美ら島財団の管理のあり方、資金調達の目処などを総合的に勘案して行われるべきだ。
首里城が「県民のアイデンティティ」の一角を成すことは間違いない。アイデンティティであるなら募金活動が起こるのも自然なことで、その動き自体は尊重したい。問題は「皆が助けてくれるから頼ればいいサー」と、県民が他者依存に甘んじてしまうことだ。
県民の心の象徴である以上、再建に当たっては県民の自助努力がもっとも重視されるべきだと思う。国はもちろんのこと、自治体や公的機関はこうした動きをサポートする役割に徹すべきであって、「首里城を再建したい」という県民の願いがもっとも大切だ。
ぼくは「再建のための県民運動が必要だ」と繰り返し言っている。それはたんに募金の話に留まらない。再建スキームを国や県に任せるのではなく、資金集めから設計・調達・施行に至るまで、責任を持って自発的に関与する姿勢が求められると思う。
前回の首里城復元時、県民のあいだに冷ややかな反応が強かったことをぼくは忘れてはいない。「支配の象徴などいらない。塀と石垣だけで十分」「あんなものを作る金があるなら俺たちに回せ」「国は高良倉吉と結託して城まで押しつけるのか」といった声はけっして少数ではなかった。左右にかかわらず、かなりの数の県民が首里城復元に否定的だった。首里城が完成してからも、「あれは国と高良倉吉が勝手にやったことだ」「間違いだらけの復元だ」という声は根強かった。
国の担当者と高良倉吉とその協力者の地道な努力によって首里城の整備が進み、それがカネになることがわかると、今度は「県に管理権を移譲せよ」という声が強くなってきた。喜納昌吉のように「アイデンティティ尊重」の立場から管理権の移譲を主張した人もいたが、「観光資源」として首里城への期待から管理権の移譲を主張した人々のほうが多かったと思う。「果実を育てることに興味はないが、たわわに実った果実は食べたい」といっているのに等しかった。
こうした経緯を踏まえると、県民が責任を持って再建に最初から関与し、「果実だけを求める」姿勢を排除することが求められる。そのために募金も不可欠だが、「県外からの募金額」が「県内からの募金額」を上回るなら、ぼくは沖縄県民を心から嘲笑ってやる。「なにがアイデンティティだ!」と。人からけっして侮蔑されない覚悟を持って、「真の再建運動」を進めてもらいたいと切に願う。