「特定秘密保護法」は「悪魔の法」なのか 〜マスコミ報道への疑問〜

ぼくだって秘密保護法は厄介だと思っている。そのことは以前にも書いた(「秘密保護法」は政治家と官僚とジャーナリストをスポイルする)。

今この時点でも役所は、当たり障りのなさそうな情報さえ開示しない。なかには用意しておくべきものを用意していないケースもある。たとえば、各都道府県に配置されている自衛隊員の数は、沖縄県の数値しか公表されていない。非公式に防衛省職員に訊ねたら実は資料を作っていないのだという。はっきりいえば怠業である。資料を作っていないものも今後は「秘密」だといって開示しないことができる。怠業を誤魔化す手段として「秘密保護法」は恰好の言い訳になる。ぼくが同法を厄介だと思う理由にはそういう類のことも含まれる。

いずれにせよ、フリーランスの物書きやジャーナリストがやりにくくなることはたしかだから、施行までの1年間、ぼくは集められるデータはできるだけ集め、施行後、「秘密保護」がどのように強化されるのかを検証したいと思っている。今まで開示されていたデータがあらたに秘密に指定されるようなことがあれば、その点は追及すればいい。逆にこんなデータが秘密にならなくていいの、という検証結果も生まれるかもしれない。たんなる「反対」ではなくて検証こそ求められている。そういう検証が同法の運用を改善し、ブラックボックスを減らしていくことになる。もっともこうした検証は本来ならマスコミの仕事である。

が、はっきりいってマスコミには秘密保護法など関係ないから、こうした地道な作業はやらないとぼくは思っている。第22条(以下引用参照)で報道の自由は担保されている。むしろこの法律によって記者諸氏は守られている。「一般市民をテロリストにする」などという荒唐無稽な話を誇張して、彼らは「言論の自由・表現の自由はもう終わりだ」という報道を展開した。なら、法案が成立したのだから、言論の自由・表現の自由」はもう終わっている。

特定秘密保護法第二十二条

この法律の適用に当たっては、これを拡張して解釈して、国民の基本的人権を不当に侵害するようなことがあってはならず、国民の知る権利の保障に資する報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない。

出版又は報道の業務に従事する者の取材行為については、専ら公益を図る目的を有し、かつ、法令違反又は著しく不当な方法によるものと認められない限りは、これを正当な業務による行為とするものとする。

今のところ、ぼくらのような立場の人間は、施行規則のあり方や運用面での適切な対応を見守るしかない状況だ。 ぼくはスクープを目指すようなジャーナリストではないが、これまで防衛省や自衛隊関係者の話を参考に原稿を書いたこともある。そういう原稿が「秘密保護法違反」になるのかどうかは、今もって判然としない。それほどの機密を入手する可能性は少ないが、不安は残る。

が、その一方で、「秘密保護法案は国民をテロリストに仕立てて、反体制活動を封じこめる法案だ」「表現の自由はこれで終わった」といった議論には大きな違和感を持つ。たとえば、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞などは、この法案に反対の立場を明確にし、紙面で大々的な「反秘密保護法」キャンペーンを展開している。報道の自由、表現の自由を確実に犯す法律だ、というのが彼らの主張のポイントだ。

「なにをか況んや」と思う。過去における日本の安保に関する機密情報の漏出は、その大半が自衛隊員を含む公務員からの情報リークである。西山事件ばかり注目されるが、記者の取材活動により機密情報が明るみに出た例はほとんどない。ジャーナリストも学者も法案による「報道・表現の自由の抑圧」を強調するが、法案に抵触するような類の取材はこれまでもほとんどやっていないということだ。役所から入手した当たり障りのない情報をもとに記事を書きつづけているマスメディアの記者には実質的にほとんど関係のない法律だ。

ところが、フリーランスのジャーナリストや物書きには看板がないので、これまでもちょっとした特攻隊精神みたいなものをもちながら、情報収集にあたらなければならなかった。新聞記者なら役人からあたりまえに入手できる情報も、フリーランスの場合は体当たりで臨まなければ手に入れられない。ときには取材先に嘘をつかなければならないことだってある。施行以後は、当局から「あんたの取材活動には二十二条は適用されない」と脅されたら、その時点に取材を止めざるをえない。「フリーランスも報道・出版に含まれる」 という国会答弁はあったが、自分がフリーランスのジャーナリストに含まれるのかどうか、よくわからない。ぼくが懸念しているのはそういうことであって、マスメディアをバックにした記者諸君の反対論など「いい気なもんだね」と思う。大半の記者は「安保上の機密を暴く」なんてことを、過去にもしたことがなければこれからもしないに決まっている。二十二条があるのだから、取材先に強要でもしない限り、同法に守られることになる。

特定秘密保護法に反対する一部メディアはいう。「酒席で聴いた情報をうっかり書けない。報道姿勢が萎縮する」と。これも「ホントかよ」と思う。酒席で聴いた情報など、ほとんどの場合メディアは報道しない。 報道するとしても多くの情報を欠いた「噂」のようなかたちでしか公表しない。あたりまえである。それは酒席で得た情報だからだ。ほとんどの場合、記者の胸にしまわれて終わる。稀にある観測記事を書くときに役立つぐらいである。 秘密保護法が施行されたからといって、こうした実態が変化するとはとても思えない。政治家や官僚の口が重くなることを記者は心配しているだろうが、国民に とって事態は変わらないということだ。記者が酒席から多くの情報を得ていたとしても、大半は公表されることもなかったのだから、書かないのと同じである。 「知る権利」が聞いて呆れる。同じ酒席でも、政府関係者などが意図的に情報をリークして記者に記事を書かせることもあるが、その場合はそれなりの思惑があってリークされているのである。その思惑の実現に記者は協力しているだけで、これも表現・言論の自由などと直結する話ではない。本当に困る可能性がある のは、フリーランスだけだ。

もちろん公務員も従来より「縛り」はきつくなる。秘密の取扱者に指定された場合、細心の注意を求められるだろう。それを「負担の増大」とみるか「権限の増大」とみるかだが、権限の増大を歓迎する官僚制度一般の特質からいって、後者の傾向がより強くなると考えるほうが適切だ。ただし、ほとんどの場合、それは国家公務員のうちの外交・防衛・治安担当者に限られるので、通常の公務員には無関係だ。北海道・青森・東京・神奈川・沖縄・山口・長崎など(米軍および自衛隊)基地の所在する都道府県を除いて、地方公務員にも無関係である。だが、特定の公務員の権限増大・強化につながる法律であるという本質に変わりはない。ぼくがこの法律をネガティブに評価するもう一つの理由はこの点である。形式的には「情報保全諮問会議」や「保全監視委員会」などが官僚や政治家などによる権限の乱用を抑止することになるが、運用の実績が積まれなければなんともいえない。

マスコミが懸念しているのは、「日本版NSC設置法案」「秘密保護法案」を突破口に集団的自衛権が行使が可能な環境をつくりだし、最終的には「憲法改正」に至る道筋が見えてくる、という点なのだろう。「憲法見直し」をいたずらにタブー視する議論は、日本の民主主義にとって負の効果しかもたない、というのがぼくの持論である。一から見直しの議論をして、それでも「改正の必要なし」という結論が得られるならそれでいい。だが、われわれにとって民主主義とは何かを再検討し、民主主義をより深化させるきっかけは 「憲法」をめぐる議論によってしか与えられないとぼくは考えている。1945年にこのまま縛られっぱなしでいいのか、われわれは1945年とは違うステー ジに立っているのではないか、というのがぼくの問題意識である。

硬直した議会制民主主義をよりよきものにしていくために憲法をめぐる議論は不可欠である。始めに改正ありきの議論もまずいが、憲法改正をタブー視する議論も民主主義をたんなる保守主義に貶めてしまう。「軍事力」が平和の維持にとっていかなる民主的な意義を持つのかも考え抜く必要があるが、それは現行憲法をめぐる議論を抜きにしてはできない相談だ。日米安保の問題もしかり。日本国憲法と日米安保条約はセットなのである。アメリカに制約されない安全保障政策を立案するためにも、憲法は避けて通れない検討対象だ。憲法を聖域化することでわれわれは想像力を奪われてしまうのである。

秘密保護法が安倍政権にとって憲法改正のための布石だとしても、われわれはいずれ憲法改正をめぐる議論に踏み出さなければならない。憲法改正が至上命題だというわけではない。健全な民主主義を養うためには憲法をめぐる議論が不可欠だ、という意味だ。それは日本と世界の将来にとってきわめて本質的な議論である。「秘密保護法反対」というスローガンをいたずらに強調することは、われわれの手足を奪い、思考を停止させることになりかねない。秘密保護法に過剰な反応を示すことは「無責任」だといってもいい。

もっといえば、ぼくが怖れているのは、法案が成立したことで「秘密保護法が日本の民主主義を破壊する」と主張したマスコミに対する不信感が広がることだ。この法律が民主主義とあまり関係ないことがばれてしまったら彼らはどう行動するのだろうか。マスコミやネットでは、明日にでも日本が軍国化するような印象を与えるナイーブな議論が蔓延したが、法案が通った日の翌日も、人びとは町に繰りだし、酒を飲み、テレビを見ながら何一つ変わらぬ日常をすごしている。政治家の悪口を言い、ネットに勝手なことを書きこみながらも、自分たちの日常は今日も保証されているのだ。反対した人たちは「いずれその日常を脅かす悪魔がやってくるのだ」「軍靴の音はだんだん強くなっている」というだろうが、数年後にも同じ日常が再生産されていたら、彼らは「すみません、やりすぎでした」と反省の弁を述べるのだろうか。それでもなお「いや、悪魔は確実にやってくる」といいつづけるのだろうか。それとも「ぼくたちが秘密保護法に反対したことで悪魔がやってくるのが遅くなっている」というのだろうか。

秘密保護法が成立した今、マスコミが怖れるべきことは、秘密保護法違反で逮捕されることではない(それはほとんどの場合杞憂に終わるだろう)。政府や自治体の情報開示が「秘密保護法」を盾に行われないことだ(ぼく個人にかぎっていえば財政的な数値が開示されないことがいちばん厄介だ)。そうであるならば、施行までの1年のあいだに(それもできるだけ早めに)、できるだけ多くの情報開示請求を行うとともに、施行前の今、公開されている情報を徹底的に整理することである。これこそ最大の秘密保護法対策となる。開示されるもの、開示されないものの範囲が、施行前と施行後にどのように変化するのかをしっかり検証することがなにより必要だ。検証結果を、政府につきつけていくことが彼らのいう「悪魔」のあぶり出しにもなる。これこそ「喫緊の」課題であって、「悪魔がやってくる」といいつづけることが喫緊の課題なのではない。

こうした「秘密保護法」対策をとるか否かが、この法律の「正体」を暴く有効な手段となるはずだが、残念ながらマスコミにはあまり期待できない。政府機関の公表する資料や役人のオフレコ話を適当に組み合わせて記事を書き、政府批判・政治家批判・官僚批判を展開してきたマスコミには、どんな資料を開示請求したらいいかも十分わかっていないだろう。

「秘密保護法が軍国化への道」だというなら、マスコミには開示請求のほかにまだいくらでもやるべきことはあるのではないか。自衛隊がいかに強化されているかを実証的に検証するのもいい。日本のアジアへの侵略の意図を説得的に示すのもいい。国民の多数派が選んだ自民党が右傾化しているというのなら、選挙民がいかに衆愚の民かを実証するのもいい。秘密保護法 がアメリカの圧力でつくられたというなら、それも徹底して検証すべきだ。もし米国の意向を受けて秘密保護法がつくられたのが事実だとすれば、「日本の軍国化」をアメリカ政府は歓迎していることになるが、日米同盟のこうした実態を暴きだすのでもいい。確かなのは「悪魔がやってくる」といいつづけるだけでは、人びとはけっして納得しないということだ。

繰り返しになるが、マスコミのいうような「暗黒の時代」が到来しなければ人びとはマスコミをますます信じなくなるだろう。マスコミを信じないということは、逆に自民党政権のほうがマシだと判断する人が増える可能性が大きいということだ。秘密保護法に反対することはいい。だが、個別の事例もろくに検証せず、「反対」そのものに拘泥した報道姿勢をつづけることは、日本の民主主義を歪めることになる。

現に自民党の長期政権がつづき、今もまた自民党が復権したのは、マスコミがいい加減な報道姿勢をつづけてきたから、ともいえる。マスコミは、「保守派は悪魔」というような幻想をさんざん振りまいてきたが、 生活水準の向上も自民政権下での話である。まがりなりにも福祉国家になったのも自民党政権下での話である。別に自民党に迎合せよといっているのではない。何がダメで何がいいかをじっくり検証せずに「革新気分」で保守派批判を展開し、批判が当たらなくてもほとんど反省しなかったから、人びとは「革新気分」のマスコミから離れてしまったのである。保守派は既得権、革新派は気分。こんなバカバカしい民主主義からどうやれば抜け出せるのか、そろそろ本気で考えるべ きときだ。

東京新聞(2013年12月7日)

東京新聞(2013年12月7日)

批評.COM  篠原章
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