宗教団体と天皇制 — 天皇制に関する日本福音同盟の「声明」について

「社会問題を語るキリスト者のひろば」というFacebookグループに参加している。ぼく自身はキリスト者ではないが、キリスト教の影響のとても強い家庭環境・対人環境で育ったので、キリスト教への関心は強い。「ひろば」ではもっぱら様々な方たちの意見を知るだけで、自ら積極的に発言することはない。

「ひろば」では、日本福音同盟(JEA:Japan Evangelical Association)という、教派・教団を越えた横断的な交流・協力機関が、2018年に示した「その時に備えて 天皇代替わり問題Q&A」といった文書(現物は未入手)や昨年の改元(天皇代替わり)時に出した「天皇代替わりに際しての声明」(画像添付)が議論の的になっている。

「キリスト教団体が天皇制に関して問題提起をするのは、宗教団体として相応しくない」「戦前のキリスト教団体が国家に迎合した過ちの歴史を振り返れば、キリスト教団体は天皇制について積極的に発言する責任がある」という主張から始まり、憲法第20条に関する法律論争も飛び出してきて興味深い。

投稿しようとも思ったが、議論の端緒となった後藤献児朗さんの投稿が2018年10月と少々古いものだったことに加え、全体として議論の焦点がどこか定まっていなかったので、いたずらに混乱を引き起こしてもいけないと思い、自分自身のWebで感想を述べることにした。

JEAは教団・教派横断的な交流団体であるとはいえ、宗教団体であることに変わりはない。そうした宗教団体が、天皇制に関するメッセージを発する、ということ自体に矛盾がある。天皇制とキリスト者とのあいだの距離感は、信者によってまちまちで、キリスト教団体が「統一見解」を発することには相当慎重でなければならないと思う。むしろ、キリスト教団体がひとつにまとまって、統一的な政治的メッセージを発することのほうが、戦中戦前の大政翼賛的な宗教体制を彷彿とさせ、危険な臭いがする。

今回の代替わりを主導したのは政府・自民党である。自民党にもキリスト者は少なくない。たとえば、麻生太郎財務大臣はカトリック信者であるといわれている。安倍晋三前首相夫妻は、昭恵夫人の実家・森永家と縁の深い日本基督教団霊南坂教会で結婚式を挙げた。石破茂元自民党幹事長は日本基督教団鳥取教会・信濃町教会の信徒である。

もっといえば、明治・大正・昭和に活躍した指導者の多くが、キリスト者であったか、キリスト教に親和的な立場であったか、キリスト教的な教育環境で育まれてきた。明治以降、天皇制とキリスト教が衝突した事例はあるが、多くはキリスト者と共産主義・無政府主義者が「重複」「交錯」した場合だ。救済宗教的な社会観・倫理観と救貧的な政治思想が結合すると、急進主義やテロリズムが生まれ、ときにはナチズムのような他者排除型の専制主義まで許容されてしまう。

日本のような(とくに戦後日本のような)、多神教的または無宗教的な社会では、特定の宗教団体からの天皇制批判と攻撃は、その宗教団体の非寛容さを逆に際立たせてしまう。そもそも天皇制は、日本社会の一体性を保証するものではなく、日本社会の多様性をバランスさせるものとして機能しているからだ。良くも悪くも、天皇制は日本における「政治」(さらには文化)の根本にある。現行憲法の「象徴」ということばは、天皇制の本質を見事に体現していると思う。

戦前の日本の失敗は、天皇制の歴史的・機能的な側面を軽視し、天皇を絶対神に作り替えてしまったところにあるとぼくは見ている。リオ五輪閉会式での椎名林檎の「君が代」に凄みがあったのは、不協和音を使って多様性と多義性を表現しながら、それを「調和の国・ニッポン」のイメージまで高めようとしたからだ。

個人的立場であれば、その宗教観にかかわらず、天皇に関して何を主張してもよいと思う。だが、「宗教団体」が天皇制に関する「統一見解」を出した途端、上で述べたような調和の構造は崩れてしまう。

裏を返せば、この声明を出した日本福音同盟は、日本社会に対する洞察力を欠いているということだ。仏教、神道、儒教など他宗教への理解力も不足している。そうした団体が、「天皇代替わりの経費の国費負担は政教分離に違反する」などと主張しても、まるで説得力がない。彼らのような団体が、国民のキリスト教への理解を失わせ、キリスト教の広がりを阻害・毀損している。自分で自分の首を絞めているのと同じである。まことに残念なことだ。

批評.COM  篠原章
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