「安倍=ファシスト」という短絡〜〝筋肉的〟思想の流儀への疑問

で、そんなお詫びの場にふさわしくないと承知しつつ、本日二つ目のお題では、「安倍=ファシスト」という批判に対する疑問を呈しておきたいと思います(単純な安倍政権擁護論ではありません、念のため)。

大瀧詠一論を掲載する予定だった3月21日(金)の「笑っていいとも!」に安倍晋三首相が出演したことは、多くの方がご存じだと思います。

で、「レイシストをしばき隊」に参加していた方々とほぼ同様のメンバーの人たちが、番組出演のため新宿アルタにやってくる安倍首相を待ち構えて、抗議活動を展開しました。

「ファシスト通すな」「安倍晋三は戦争する!」と書かれたプラカードを掲げながら、「ファシスト内閣恥を知れ!安倍晋三は恥を知れ!」というシュプレヒコールで気勢を上げました→(Youtube「笑っていいとも!」安倍首相出演時のスタジオアルタ前(BLOGOS編集部))

(写真は「ガジェット通信」より転載)

(写真は「ガジェット通信」より転載)

ネット上にはこの手の抗議活動自体を政治的プロモー ションと見なして、批判する人たちもいますが、安倍さんが「いいとも」に出演するのも政治的プロモーションですから、そんなことはどうでもいいのです。政治というのは多かれ少なかれプロモーション、プロパガンダ(虚言と誇張)を伴いますから、一方の揚げ足取りをしてもあまり意味はありません。抗議の方法も、合法的で民主主義的なやり方だったと思います。警察官・私服刑事の数は、抗議グループの人数を上回っていましたが、挑発的な場面も見られず、整然とした警備だったと思います。逮捕者が出なくて胸をなで下ろしました。

ぼくがしっくりこなかったのは、「ファシスト通すな」「安倍晋三は戦争する!」「ファシスト内閣恥を知れ!安倍晋三は恥を知れ!」という文言がスローガンになっているところです。先にリンクを張った動画を見ると、少なくともぼくは、彼らの運動に政治的リアリズムをまったく感じませんでした。もちろん、共感も感じません。「彼らの運動にリアリズムや共感を感じられない俺が間違っているのだろうか」と自らを疑い、あれやこれや考えてみましたが、やはりしっくりきませんでした。

事前事後の関係者や批判者のTwitterを見ると、自らの攻撃対象に対して「中指を立てる」という行為(ファックユー的姿勢)がいいのか悪いのか、みたいな、これまたどうでもいい話も話題になっていましたが、彼らの発する言語の由来がどうのこうのとか、そういうことをいいたいのでもありません。

「ファシスト」自体が、政治的スローガンとして陳腐な表現だとは思いますが、安倍内閣を「ファシスト内閣」と捉えるには、いくつもの関門があると思います。

一般的にファシズムは以下のように説明されています(デジタル大辞典)。

極右の国家主義的、全体主義的政治形態。初めはイタリアのムッソリーニの政治運動の呼称であったが、広義にはドイツのナチズムやスペインその他の同様の政治運動をさす。自由主義・共産主義に反対し、独裁的な指導者や暴力による政治の謳歌などを特徴とする。

「レイシストをしばき隊」の関係者を中心とする安倍批判グループは、安倍首相を「自由主義・共産主義に反対する独裁的な指導者」「暴力を指向する政治家」と捉えているのでしょうか。が、もし、現在の安倍政権を「独裁」と呼ぶとすれば、民主主義的な選挙制度の下で機能する政党政治が土台になって構成されてきた歴代内閣はことごとく「独裁」になってしまいます。つまり、安倍政権は、辞典的な意味でのファシスト内閣ではないことになります。

いろいろ当たってみましたが、学術的にみると「ファシズム」には決定版といえる定義はないようです。Wikipediaに記述されていることも必ずしも十分ではありませんが、そのなかからしばき隊的なファシスト観を敢えて抽出するとすれば次の箇所になるでしょう。

ファシズムにおいては、国家が、国家の強さを保つために暴力の実行や戦争を行う意思と能力を持つ、強力なリーダーシップと単一の集団的なアイデンティティを必要とする有機体的な共同体であると信じる。彼らは、文化は全国民的な社会とその国家によって創造され、文化的観念が個人にアイデンティティを与えると主張し、したがって個人主義を拒絶する。彼らは国家を1つの統合された集合的な共同体とみて、多元主義を社会の機能不全の様子とみなし、国家が全てを表すという意味での全体主義国家を正当化する。

これは、主としてインディアナ州立大学のジョセフ・ガーチッチ教授(クロアチア系の名前だと思われるので、たぶんこのように発音するのでしょう。表記はGrčić, Joseph)の業績からの引用ですが、最期の一文「国家が全てを表すという意味での全体主義国家を正当化する」はともかくとして、前段の「国家が、国家の強さを保つために暴力の実行や戦争を行う意思と能力を持つ、強力なリーダーシップと単一の集団的なアイデンティティを必要とする有機体的な共同体であると信じる」という箇所は、安倍内閣に当てはまる可能性はあるかもしれません。安倍政権は、憲法解釈の変更あるいは憲法改正によって日本の戦争遂行能力を高 めようとしている、と見ることもできるからです。「集団的なアイデンティティ」の部分は、安倍さんの著書『新しい国へ美しい国へ完全版』(文藝春秋・2013年/オリジナル版『美しい国へ』文藝春秋・2006年)などに示された有機主義的な国家観を指すことになるのでしょう。

しかしながら、ガーチッチのファシズム観に依拠するとしても問題はあります。なぜなら、いわゆる先進国のうち、「自国の強さを保つために暴力の実行や戦争を行う意思と能力を持たない国家」はいくつあるのでしょうか。いや、比較の対象に先進国以外の国々を含めて考えてみても、有力と見なされる国家のほとんど全てが軍隊を持ち、一定の戦争遂行能力を備えています。アメリカ、ロシア、イギリス、フランスなどはもちろんのこと、スイスやデンマークやフィンランドですらGDP比にしたらかなりの規模の軍事力を有しています。ムーミンの国・フィンランドは本格的な徴兵制度さえ備えているのです。近隣の中国の軍事力は年々強化されていますし、徴兵制度を備えた韓国の軍隊がいかに強力かは周知の事実です。

ここではなにも軍隊を持つことの是非を問題にしているのではありません。一定の戦争遂行能力を備えていることが、実質的に「普通の国家」の要件になっているといいたいのです。つまり、「暴力の実行や戦争を行う意思と能力を持つ国家」が標準的な国家なのであって、これをファシズムと見なしてしまったら、ファシズムが世界標準になってしまいます。

「いや、それは詭弁だ。大半の国にとって軍隊は防衛のための存在であるのに対して、安倍内閣は自国の勢力拡張のために憲法を変え、強力な軍隊を持とうとしているのだ」という批判はあるかもしれません。が、その見方は本当でしょうか?おそらくあの軍事マニアの石破幹事長をもってしても、「外交+経済交流+軍事力」による地域の安定、世界秩序の安定をいの一番に考えているはずです。「日本という国家の勢力を拡張するために戦争したい」などと本気で考えている政治家が何人いるでしょうか。

百歩譲って、安倍首相や石破幹事長が好戦的な政治家で、憲法を変え、軍事力を増強しようとしているとしても、アメリカやロシアや中国やフランスの安全保障に対する考え方といかほどの違いがあるのでしょうか。ひょっとしたら安倍内閣もそうした国家と肩を並べたいと思っているかもしれないが、少なくとも現状では違います。「ファシズム野郎」とまず批判すべき相手は、日本政府ではなく米露中でなければつじつまが合いません。

ぼくだって「ファシズム国家・帝国主義国家である米露中と肩を並べようとしている日本」という構図を許したくはありません。が、そもそも世界に冠たる高齢社会・高齢国家である日本が、米露中と軍事的に肩を並べる能力を備えていると考えるほうがどうかしている。まともではありません。そのように考える政治家がいるとしたら笑止千万です。同盟国・米国も、そんな政治家は相手にしないでしょう。おまけに経済界もこの手の政治家を支持しないでしょう。グローバリゼーションそのものの「悪徳」はここでは度外視しますが、妄想的な政治家以外の誰もが(経済的な)利得を得られない軍備増強はけっして実現しません。が、そのように考える政治家が内閣をつくっている、と批判するのも妄想同然だと思います。ひとことでいえば短絡です。

ケネディ大使やニューヨーク・タイムズなどが懸念する「日本の右傾化」も、はっきりいえば「実体」は伴っていないと思います。彼らも「右傾化」を本気で心配しているのではなく、国際秩序に日本という「普通の国」が関わってくることを畏れているのです。彼らがあの手この手で日本批判を展開しようとしてるのは、日本を「米国の一同盟国」という地位に留めておきたいからでしょう。もっとはっきりいえば、米国は日本を従属国のままにしておきたいのです。おそらく、米国は今後、憲法改正にも介入してくるはずです。憲法のドラスティックな改正を認めず、日米安保条約を軍事的には米国主導の条約としてキープしたまま中国などとよろしくやっていく。おそらく米国はそのくらいのことは考えているでしょう。日本の世論などちょろいものだ、という判断さえしているはずです。「安倍内閣=ファシズム」「辺野古移設反対」「憲法改正反対」という声さえ、米国は利用できる立場にいるのです。

要するに、安倍内閣がファシスト内閣だとすれば、「普通の国になるという努力」がファシスト呼ばわりされていることになります。独裁主義や全体主義を伴うファシストとはほど遠い存在です。理知の世界を離れた、筋肉的な言語、運動至上主義的な扇情的言語にしか思えません。だからこそ、「レイシストをしばき隊」関係者の抗議活動がぼくにはピンとこないのです。

「『アンネの日記』の損壊は日本の右傾化の兆候」「浦和レッズ・ファンの<ジャパニーズ・オンリー>という垂れ幕は日本の右傾化の兆候」といったような右傾化批判が的外れであると同様に、「安倍ファシスト内閣」という批判は的外れなのです。もちろん、『アンネの日記』の損壊にも、<ジャパニーズ・オンリー>にも厳正に対処すべきですが、それが「日本の右傾化の兆候」という批判はまったくあたりません。

ウクライナやクリミアにおける政治的・軍事的な動向を、どう捉えればよいのか、といった問題提起のほうが、「右傾化問題」にとってはるかに現実的かつ深刻です。ウクライナの民族主義の膨張がロシア離れを呼び、クリミアにおける民族主義の膨張がウクライナ離れを引き起こしたという事態こそ、本当の「右傾化問題」ではないでしょうか。民族主義とは何か、ファシズムとは何か、帝国主義とは何か、国際関係・国際秩序とは何か、といった本質的な課題を多数含んでいるからです。一国の首相が、その国の代表的なバラエティ番組に出演する機会を捉えて、実体を伴わない反ファシスト運動を展開した、なんてこと、そもそも考える価値さえないのかもしれません。この一件は、むしろ日本のだらだらとした平和としょぼしょぼとした民主主義の象徴にすぎない、という気さえします。

いっておきますが、ぼくは「日本が普通の国になる」ことを歓迎しているわけではありません。「普通の国じゃなくていいじゃないか」という見方にも魅力があります。アメリカの庇護の下、半植民地的に生きていくという選択肢も悪くない気がするのです。独立とか自立とかどうでもいいじゃないか、と。一方で、アメリカがいつまでも庇護してくれるとは限らない、という不安もあります。中国やロシアや韓国とももっと仲良くしたいと思っています。でも、ぼくたちが信頼しても、相手が信頼に応えてくれるかどうか不安でいっぱいです。グローバル資本主義の担い手である巨大企業に身を委ねるという手もあります。資本の運動に身を任せて、国家という枠を取り払う機会を狙うという生き方ですね。もちろん、企業は個人を平気で見殺しにしますが、どんな競争にも犠牲はつきものと諦めればいいわけです。

いうまでもなく、国家や組織ではなく、個人が主役である社会が望ましいに決まっています。その場合でも、個人と個人の間の調整役や、集団間・地域間の調整役が必要なことは間違いありません。こうした調整メカニズムを、民主主義や市場メカニズムが担ってきたことも確かですが、まだまだその調整機能は不十分です。こうした調整機能のあり方を見極めることが目下最大の関心事ですが、その答えはまだ出ていません。

安倍首相にとってその答えは「明治憲法下における日本の姿への回帰」なのだと思います。人によってはそれが「ファシズム」に見えるのでしょうが、「ファシズムか民主主義か」といった二者択一の短絡的・単層的なアプローチでは、過去の歴史に倣うこともできなければ、新しい歴史を切り拓くこともできないでしょう。安倍首相的な国家観の浸透を望んでいるわけではありませんが、「レイシストをしばき隊」的な反ファシズム運動がそれに取って代わるとはとても思えません。彼らのスローガンについては、先に「筋肉的言語」「運動至上主義的な扇情的言語」と揶揄しましたが、運動の現場における志気高揚(プロパガンダ)以上の意味を見いだしにくいのです。それが彼らの思想の流儀だとしたら、非常に残念なことです。

なお、同じ安倍批判でも、佐和隆光さんの「ファシストでないにせよ自由と民主主義をおびやかす安倍政権」というアベノミクス批判、安倍政権批判には一定の説得力があります(ファシストでないにせよ自由と民主主義をおびやかす安倍政権) ただ、佐和さん自身が、批判に自信を持っているように思えません。日本経済の相対的地位低下について、おそらく分析し切れていないのだと思います。もっとも、佐和さんが分析できないほどの大きな問題設定ですから、ぼくにも自信のある解はありません。いずれにせよ、佐和さんの安倍批判は、「レイシストをしばき隊」関係者のスローガンと違って、丁寧にたどっていく価値はあると思います。今後の課題です。

2014年3月23日
篠原 章

【付 記】

本記事を公表したとたん、このデモンストレーションの関係者の方たちから「お叱りTweet」をいくつもいただいた。お叱りのポイントは、

  1. いかにも偉そうに他人の政治活動に口を出すのは不遜である
  2. Wikipediaを利用するなど浅学丸出しのいい加減な「ファシズム論」は論として成り立たぬ。
  3. 「レイシストをしばき隊」はもう存在しないから、事実誤認である。

といったようなところにあった。

(1)については、不遜云々というのは批判というより、たんなる不快感や敵意の表明なので、前向きな議論に資するものとはいえない。たとえば、池田信夫からの批判なら真っ向から反論する価値はあるが、篠原程度の批判なら相手にする価値はない、というような意味での「偉そうに」であれば、自分の力不足を恥じるしかないが、その場合でも、どの点が無価値なのかに触れてもらわないと、こちらとしてはまったく応えようがない。 したがって、そういう批判者の方々には、あらためて内容を吟味した上で、議論を挑んでいただくほかない。

(2) は、この活動に参加する田中功さんからの批判である。田中さんは「Wikipedia程度の知識をもとに批判するのはこの運動に対して失礼千万である」というポイントから反論を始められた。ということは、つまり「学術論文」のようなクオリティでテキストを書くよう求められたことになるが、本欄は基本的に「評論」である。学術的な裏づけが不必要だとはいわないが、公論形成に少しでも寄与できればという思いで執筆しているのであって、学術的な貢献はまったく意図していない。もちろん、その器でもないかもしれない。田中さんが仰る通り、「ファシズムとは何か」という定義の問題は避けられないが、「辞典的」なレベルでの参照や言及があれば十分であるとの認識に立って、ぼくはWikipediaを引き合いに出したのである。Wikipediaであれば、このWebをご覧になる全ての方が簡単に確認できる。

Wikipediaの正確性については、しばしば問題が指摘されるから、たまたま手元にあったジョセフ・ガーチッチ教授(上記本文参照)の2冊の著書の該当箇所はぼくも確認した上でWikipediaを引用している。その2冊とは、Ethics and political theory(University of America, Inc, 1999)とFree and Equal: Rawls Theory of Justice and Political Reform,(Algora Publishing, 2011)だが、これらの論考を参照文献として供することにあまり積極的な意味を見いだせなかったので、ここには掲げなかった。事後的に社会科学関係・哲学関係のEncyclopediaにもいくつか当たってみたが、Wikipediaの「ファシズム」に関する記述にミスといえるものは発見できなかった。 つまり、今回についていえば、Wikipediaは必要最低限の知識を与えてくれるものであると考えてもいいと思う。ただ、田中さんの指摘するように、もう少し精緻な議論を展開したほうが望ましいかもれない。この点は今後配慮したい。

田中さんとの議論は、Wikipedia引用の問題から、その後、彼らの運動の正統性の問題へと発展した。彼らの「日本の軍国主義化」に対する懸念は、ぼくが想像する以上に大きなものだということは理解できた。しかしながら、「軍国化批判」を主たるテーマとした活動に対して、彼らと同じようなリアリティは抱けなかった。日本という国を取り巻く環境も国際環境も、戦前とはまるで異なっている。とりわけ「経済」という点で位相がまるで違う。また、安倍晋三の国家観は何よりも明治期の自由民権運動から明治憲法制 定に至る道筋に関わるもので、「軍国化」とは直結していない。この点ももちろんさらに精査する必要はあるが、そうした点から見ても、「安倍=ファシスト」というスローガンには過剰なものを感じとってしまうのだ。むしろ、あまり実体的でないファシズムに注目するあまり、現実の経済を見る眼がぼやけてしまう怖れがあるとぼくは考えている。

ただ、田中さんたちの「言語」が政治的アジテーションを含むものとして考えれば、ぼくが「過剰」だと感ずるものも、政治闘争のプロセスでは必要なのかも知れない。そうした運動の方法論が関わる「安倍=ファシスト」であれば、ぼくの批判はおそらく彼らに届かないだろう。ぼくの批判が的を射たものであるか否かは、今後数年の動きに注目するほかない。

なお、ぼくの議論につきあってくださった田中さんの誠実な姿勢にはあらためて敬意を表しておきたい。

最後に(3)について。「レイシストをしばき隊」が解消して、反レイシズムのあらたなるプラットフォームとしてC.R.A.Cが生まれたという話は聴いていたが、アルタ周辺の動画に「レイシストをしばき隊」のメンバーだった方の顔が映っていたから、上記文中では<「レイシストをしばき隊」関係者>というような表記を使わせてもらった。不正確ということはないと思う。いずれにせよ、(3)は議論の本質とはあまり関係のない批判である。

2014年3月27日

批評.COM  篠原章
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