パンナムの世界一周便—ぼくのインドと博士論文

バンコク(CX)ボンベイ(PA)フランクフルト(1983年)

午前3時頃に目覚めたら、KD社・T氏よりファクス深夜便あり。この正月、ご子息とインドを旅したのは知っていたが、ファクスによれば、予想通りというか、さすがインドの旅、やっぱりヘヴィだったようす。カルカッタ→デリーという旅程、最後の数日は父子とも高熱にうなされホテルから一歩も出なかったらしい。T父子には申しわけないが、いかにもインドらしいと感動。

ぼくには「インドの支出税」という論文はあるが、インド経験はほとんどない。わずかにボンベイでのトランジットという経験があるだけ。

大韓航空機が撃墜された83年の夏、ぼくは胃ケイレンで苦しんだ東南アジアから逃げ出すようにヨーロッパに向かった。いわゆるRWT、世界一周便を利用しての旅だ。

バンコクからキャセイ機でボンベイへ。ボンベイでパンナム機に乗り換えてドバイ経由でフランクフルトへ。チケットはフレックスだったので、このとき、ボンベイに滞在するという選択肢はあった。キャセイ機の機中でもそのことばかり考えていた。細野晴臣さんの「インドじゃ空港に降りて空気を吸った途端に下痢する」という言葉が脳裏をよぎる。母にもカルカッタでトランジットしただけで3日間寝込んだ経験があった。目的地はヨーロッパ、インドで旅が中断することをおそれたが、怖いモノみたさという好奇心も沸々とわいてくる。

キャセイ機は夜10時過ぎにボンベイ国際空港に到着。乗り換えるべきパンナム機は6時間後の朝4時発である。待ちかまえていたパンナムの係員にチケットをみせながら「ボンベイにステイしようかどうか迷っている」というと、「ミスターシノハーラ、ノープロブレム。ユー・キャン・ステイ・イン・ボンベイ。ノープロブレム。ユー・キャン・メイク・ファンタジック・エクスピリエンス・イン・インディア、ノープロブレム、ノープロブレム」と“ノープロブレム”を連発された。東南アジアでは“ノープロブレム”というタームを連発されたあとはロクなことはなかった。

断腸の思いでようやく決断、「今の体調では俺はインドに耐えられない」日本を出てから3週間で7キロも痩せてしまっていたから、今思えば正しい選択だった。

空港内で待機するといっても、人気のないロビーで寝込んで手荷物でも盗まれたら大変だ。レストランでコーヒーを注文し、ワイヤー付き携帯ロックを使って荷物をテーブルの足にしっかり固定。ゆっくりコーヒーを飲んでもつぶせた時間はたった30分。空港内アーケードは24時間営業が建前だが、開店している店は半分もない。アーケードを一周してもせいぜい10分。座り込んでワックス掛けしている清掃係の中年女性が数人。鮮やかな色調の衣装とキラキラしたピアス。あんな長い衣装を着て床にはいつくばるようにワックスがけしたらゴミもワックスもぜんぶ自分の着物に取り込んでしまうじゃないと唖然。時間を潰すつもりでちっぽけなスーベニール・ショップに入り込み、民芸品の小さな手彫りの像の置物なんかを眺めていたら、店の女の子が身の置き場のないぼくに同情してくれたのか「いっしょに食事でもしてったら?」

店の床にビニールシートを敷き、錫製の弁当箱(お重といったほうが適切か)を取り出して真ん中に置く。何層かに分かれた弁当箱には、ライス、カリー、漬け物などが別々に詰め込まれていた。どこからともなく別の男女が現れて、ぼくも含めた4人が車座になって食事。といってもスプーンやフォークが出るわけじゃない。連中は右手の親指、人差し指、中指の三本を使ってカリーとライスをリズミカルに混ぜながら上手に口に運ぶ。感心しながら彼らの様子を観察していたのだが、「あんたも食べなさいよ。スプーンがいるんだったらさがしてくるわ」とぎらぎらした目が印象的な女の子。

食べなさいよといわれてもねえ、という気分、せっかく治りかけた胃腸がこのカリーでまた台無しになるかもしれない。ヨーロッパに着いたはいいが赤痢で入院、コレラで隔離じゃシャレにはならない。が、アジア世界ではすすめられたモノを口にしないのは失礼に当たるわけで、意を決してぼくも指を使って食べようと試みる。が、自分でもイヤになるくらいヘタクソ。思ったよりはるかに難しい。かなりの技能が必要だ。カリーとライスを混ぜるのも相当ぎこちないのだが、ポロポロとこぼしながら口に運ぶので、とりわけてもらったライスがなかなか減らない。同席の連中も笑いをこらえている。ご愛嬌、ご愛嬌と自分に言い聞かせ、曖昧な笑みで誤魔化しながら世間話。最初は味わうも何もなかったのだが、本格的なインド料理をまだあまり知らなかったせいもあるのか、慣れてくるとカリーは絶品、こんなにうまいなら赤痢にかかってもいいやと居直って、最後にはお代わりまでしてしまうという図々しさ。

そうこうしているうちに出発時刻。レストランに置きっぱなしにした荷物が無事なのを確認して一安心、改札して出発ロビーに入るが、ボーディングはなかなか始まらない。結局、出発時刻をすぎてから「ディレイ」という案内。定刻は4時発だったが、さらに待つこと2時間、機内に入ったのは6時過ぎ。着席してシートベルトを締めてからがまた長い。離陸は午前7時半頃だったが、その頃には意識朦朧、気がついたらドバイへのランディングの最中だった。ドバイでも空港ロビーで一休みできたのだが、窓の外一面に広がる砂漠を眺めるだけでもう十分。隣に座りあわせた一人旅のアラブ人小学生と雑談。まだ10歳のくせに英語は堪能、体臭はオトナ並みに強烈。マトン三昧の毎日か?金持ちの子らしく、ロンドン郊外に馬場まで備えたでっかい家があるだの、セントラルパークを見下ろすペントハウスがお気に入りだの、夏はレマン湖の別荘で遊ぶだのと唾を飛ばしながら豪勢な話ばかり。ただし、日本のこともアジアのこともまるで知らない。この石油成金め、自慢話はいいからたまには世界地図を広げて勉強せい、といいたい気持ちを抑えてになんとかこやかに応対。子ども相手にむかつくとは大人げない。

フランクフルトに着いたのは午後もちょっと遅い時間。 ゲートをくぐってロビーに出るともうそこは別世界、アジアを逍遙したあげく「這々の体で」ヨーロッパにたどり着いたという感じ。これで飲み物に入ったアイスの“出自”を気にしなくて済む。水道の水で口を濯げる!感動にも似た心情にしばし酔いしれるが、船旅時代を思えば耳垢程度のものに違いない。が、母の胸に抱かれたようなあの安心感は今でもリアルに甦ってくる。

もっとも、それから数日もしないうちに整然としたドイツの街並みに嫌気がさして、アジアの喧噪がたまらなく懐かしくなってしまう。「インドの支出税」という論文を書いたのはそれから半年後のことだった。

 

批評.COM  篠原章
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