追悼:坂本龍一—バタヴィア街のヨノイ大尉

ぼくは坂本龍一のあまり良きファンではなかったと思う。YMOの3人の中では、いちばん遠いところにいた。

初めて彼の姿を見たのはりりィ&バイ・バイ・セッション・バンドのステージだった。1976年春頃のことだ。腰まであるような長髪にサンダル(雪駄?)という出で立ちで、髪を振り乱しキーボードを叩くように弾く。その姿は衝撃的だった。その後、ティン・パン・アレーのセッション・メンバーになったが、そこでも異彩を放っていた。キーボードに向かうボディ・ポスチャーやフィンガリングは独特で、それは山下洋輔とも違う。ポップスというカラダのなかに入りこんだ異物にも見えたが、その「異物感」がよかった。

1978年10月28日にリリースされたファースト・ソロ『千のナイフ』は、新宿・紀伊國屋書店の2階にあった帝都無線で発売日に買った。数日聴きこんで、心というより脳髄を奪われた。未知の音の洪水だった。A面の「DAS NEUE JAPANISCHE ELEKTRONISCHE VOLKSLIED」〜「PLASTIC BAMBOO」〜「THE END OF ASIA」の繋がりと、壮大なB面「THOUSAND KNIVES」(表題曲)に耽溺した。どこにもない世界だったが、それは間もなくYMOで磨かれて大きな華を咲かせた。このアルバムのジャケ写で坂本龍一が着ているジャケットが気になった。クレジットには「BRICS」とあった。高橋幸宏さんのブランドである。ジャケットを探して青山のBRICSのブティックまで行ってみたが、同じものはなかった。諦めて帰ったが、今思えばあのときBRICSでいろいろ買いこめば良かった。BRICSには、後にも先にもその一度しか行っていない。

当時ぼくは大滝詠一さんの影響を強く受けていて「ポップスの人」になりたかった。ぼく自身は、キング・クリムゾンやイエスなどのブリティッシュ系プログレッシブ・ロックが大好きだったが、このままプログレを聴いていては、「ポップスの人」にはなりきれないと思い、プログレには意識的に距離を置いていた。YMOのテクノ・ポップにははまったが、それは細野さんやユキヒロさんが正真正銘の「ポップスの人」だと思っていたせいだ。1979年、大滝さんは「超」がつくようなノベルティ作品「ビックリハウス音頭」で坂本龍一を起用したが、大滝さんの坂本龍一評価はそれほど高くなかったと思う。「とても有能なプレイヤー、編曲家だけど、彼はポップスの人じゃないからね」といっていたので、その影響は大きかった。ただ、1970年代末から80年代初頭にかけて、ナイアガラ直系の山下達郎さんは、坂本さんと一体と思えるほど、親密な関係にあったと思う。ライブでもアルバムでも、坂本さんは山下セッションの中心メンバーだった。

私事ゆえに書いたことも話したこともほとんどないが、ぼく自身の音楽環境・生活環境の中にはクラシック音楽がかなり濃い目に練り込まれている。母が東京藝術大学ピアノ科の卒業生で音楽学校を経営していたため、子どもの頃からわが家に出入りし、親しく付き合ってきた大人たちの多くが、藝大ピアノ科や作曲科の出身だった。藝大を頂点とした日本の(ドイツ系)クラシック音楽ヒエラルキーの一員だった。だから、いやでも藝大の情報が入ってくる。当時の坂本さんは藝大の大学院に籍があったが、あまりよい噂はなかった。坂本さんは「ポピュラーやジャズの世界でバイトばかりしてピアノや作曲にちゃんと向き合っていない院生」と噂されていた。そんな言葉を聞くとちょっとムッとして、「坂本さんは才能の塊ですよ」とぼくなりに抗弁するのだが、大人たちは「才能って何?」「あなたに音楽がわかるの?」といった態度だった。ぼくは引き下がるほかなかった(もう少し深く掘り下げてみると、坂本龍一に対する藝大的な評価は、安川加寿子流のフランスと永井進流のドイツとの相剋の中で、生まれたものかもしれないとも思うが、これ以上深くは立ち入らない)。

大滝さんは坂本さんを「ポップスの人ではない」といい、東京藝大関係者は坂本さんを「クラシックの人ではない」という。二十歳そこそこのハナタレ小僧に過ぎないぼくは、他人事なのに板挟みになったような暗い気分だったが、坂本さん自身もそんな両極の評価を知って反発を覚えていたと思う(これは憶測である)。だからこそ、坂本さんは、音楽のあるべき姿をさまざまな角度から追求し、鍛錬を積み重ねたのだ。彼のその後の音楽の厚みが形づくられたのはこの時期のことだったと思う。

クラシック出身のミュージシャンが、ロックやポップスに深く関わるようになったのは70年代からのことだったと思う。嚆矢は藝大打楽器科卒のジャックス、木田高介さん。残念なことに木田さんは早く亡くなってしまったが(1980年逝去)、桐朋学園大作曲科卒の矢野誠さんがその穴を埋めるように活躍した。矢野さんがいなければ、山下達郎、大貫妙子、矢野顕子は生まれなかったかもしれない(ひょっとしたら喜納昌吉も)。思えば、大滝さんやあがた森魚さん、ムーンライダーズも矢野さんに支えられた時期があった。矢野さんと坂本さんが違うのは、坂本さんには、「自分の音楽」を前面に出したいというギラギラした欲求があり、その欲求を満たす方法論や身の処し方を早くから見いだしたところにあると思う。

戦場のメリークリスマス』が公開されたのは83年5月。テーマ曲に心を掴まれた人が多いだろうが、ぼくはなぜか、ジャカルタの旧市街であるバタヴィア街をヨノイ大尉(坂本龍一の役名)の乗った軍用車が走る短い場面で流される、ガムランのリズムを意識した地味なインスト曲に惹かれ(曲名も「Batavia」)、その年の7月、香港経由で初めてジャカルタを旅してバタヴィア街にも足を運んだ。持参した音(カセット)は『戦場のメリークリスマス』のサウンドトラックと山下達郎の『メロディーズ』だけだった。

バタヴィア街とは、オランダ統治時代にオランダ銀行やオランダ貿易会社(ABN)が使っていたビルが建ち並ぶ旧フィナンシャル・ディストリクトである(香港でいえば香港島の中環=セントラル)。83年当時のインドネシアは最貧国のひとつで殺伐としていたが、夜のバタヴィア街は妖しげな熱気の溢れる屋台街だった。オランダ統治時代に生まれたと思われる下水のマンホールを越えて汚水が道路に滲みだし、大きなゴキブリがあちこち疾走している。ぼくは、ジャカルタの喉に引っかかった異物のように屋台に潜りこみ、足元の汚水やゴキブリ、波状的に襲いくるハエや蚊を気にしながら、悪戦苦闘してミゴレン(焼きソバ)をたいらげ、コピー(コーヒー)をすすった。映画のあのシーンがセットを使って撮影されたものだと気づくのにあまり時間はかからなかったが、気分は軍服を着た坂本龍一だった。バタヴィア街には、無数に走る古いホンダやヤマハからモクモクと発せられる排気ガス臭、汚水のすえたような悪臭、料理に使われるココナツ・オイルの甘い香りが混淆した独特の匂いが充満していた。それに加えて、脂で薄汚れた安っぽいカセットラジオから飛び出してくるダンドゥットの響き。酷暑の昼が遠のき、喧噪と享楽が支配するねっとりと膨らんだ闇夜の時間。それはぼくにとって、別の惑星での体験に近いものだった。時を経て、そのイメージは今やすっかり「戦メリ」や「ヨノイ大尉」と重なっている。

「戦メリ」以降の坂本作品もすべて聴いてきたが、それでも「戦メリ」に戻ってしまう自分がいる。

映画としての「戦メリ」にはあまりそそられなかったが、坂本龍一、北野武、デヴィッド・ボウイ、ジョニー大倉の、いわゆる好演が光る映画で、それを支えたのが坂本龍一のプロの作曲家としての技量だったと思う。大島渚監督、ジョニー大倉、内田裕也、デヴィッド・ボウイが去り、残されたのはタケシだけになったという寂しさもあるが、サウンドトラックはこの先も末永く聴き継がれると思う。

本音をいうと、ぼくにとっては、YMOが細野さんたった1人になってしまったという事実のほうが重い。大滝さんを除くはっぴいえんどの3人が「共にある」ことで救われてはいるが、これ以上、愛する者たちの死には耐えられないかもしれない。重なる悲しみで壊れそうになる自分をなんとか支えながら、それでも生きていくほかないのか。「もうこのあたりでいいんじゃないか」‥‥ぼくは、ラヴェル『スペイン狂詩曲』を聴きながら、残された灰色の未来はどうでもいい、と思い始めている。自分のために生きる価値を、もうこの世界には見いだせないかもしれない。


 
批評.COM  篠原章
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