「ブレイキン」は五輪に相応しかったのか?—パリ五輪に感ずる“違和感”の正体
ニューヨーク発ブラック・カルチャーとしてのブレイク・ダンス
ブレイキン(ブレイク・ダンス)を初めて見たのは1983年のニューヨークだった。
この時のニューヨークへの旅は目的が3つあった。ひとつは、当時勃興しつつあった新たなるブラック・カルチャー(ヒップホップ)のダンス・シーンに浸かってみること、二つ目は日本ですでに一般化していたパンク・ロック発祥の地であるCBGB(ライブハウス)のタテノリ・パンクを体験すること、三つ目はナイトクラブ・シーンの新星として評判になっていた「プラトンの隠れ家」(スウィンガーズ・クラブ)を見物することだった。
三つ目は同伴がないと入れなかったので(笑)断念したが、最初の二つはなんとかクリア。ダンス・シーンを見るために何軒ものクラブ(ディスコ)を探訪したが、グランドマスター・フラッシュやアフリカ・バンバータといった当時すでに有名だったDJには会えずじまい。
その代わりグランドマスターの一番弟子を自称する黒人DJ(名前は忘れた)の超絶テクニック(スクラッチ、ブレイクビーツのタイミング)に舌を巻いた記憶がある。ダンス(ブレイク・ダンス)はあまり記憶に残っていないが、いちばん驚いたのは「黒人にも上手に踊れない人がいるんだ!」だった(笑)。ブレイク・ダンスはまだ発展途上にあったのだと思う。
ちなみに、CGBGには三晩つづけて通ったが、ピークはとっくに過ぎていて、「なんか大したことはないなあ」という印象を抱いた。直前にロンドンの「マーキー・クラブ」で激しいタテノリ・ギグを観ていたせいもあるが。
「黒人不在」のパリ五輪ブレイキン
話を戻すと、「アメリカ黒人の歴史」と切っても切れないブレイキンだが、五輪の女子ブレイキンの出場者を見るかぎり、米国代表はなんと二人ともアジア系(フィリピン系と中国系)だった。出場者全体を見渡しても、一目で「黒人」とわかる人は一人もいなかった(黒人系はいたかもしれない)。決勝は、日本代表(AMI)とリトアニア代表、他の有力選手もアジア系や白人系ばかり。AMIが金メダルに輝いたことはめでたいが、「黒人は一体どこへ消えた?」という思いは禁じえなかった。
「こりゃどういうこっちゃ」と疑問を抱いた反面、ブレイク・ダンスのようなサブカルチャーを五輪のようなメジャー・カルチャーに組み込んだこと自体、フランス人のある種の「傲慢さ」(「度量の大きさ」と言い換える人もいる。近代五輪の主唱者はフランス人男爵・クーベルタンである)の表れなのかとも感じた。
そもそもサブカルチャーを五輪に採用するのは無理がある。自身もプレイヤーであり、“まじヤバっ““スゴっ”“ゴン攻め”で話題になったスケートボード解説者・瀬尻稜が、「五輪には五輪の、ストリートにはストリートのヒーローがいる。自由に楽しめることがいちばん」という意味のことを語っていたが(まさにこれを「達見」という)、「グラミー賞だけが音楽じゃない」という「真理」と同義だ。五輪(グラミー賞)が唯一の評価軸ではないということである。
※スケートボードは米国西海岸の白人若者カルチャーに端を発するが、これもブレイキンと同じく、ストリート発のサブカルチャーの一種であることに変わりはない。
おまけにブレイキンの評価軸は、最終的にはジャッジの主観のなかにしかない。それを「ルール化」するとなると滅法時間がかかる。
ついでにいえば、舞踏的要素のある競技は、「ルール改正」によっていまだにかなり揉めているという現状もある(典型的には今回の五輪のアーティスティック・スウィミング)。
長々と書いたが、簡単にいえば「野の花は野に置いてこそ美しい」のであって、ブレイキンは五輪種目に馴染まないというのがぼくの結論である。
パリ五輪に感ずる違和感の正体—白人エスタブリッシュメントの影
次回ロス五輪の種目にブレイキンは採用されないというが、その理由が、判定基準があまり明確でなく五輪種目として未成熟だからなのか、“本家本元”である黒人(アフリカ系アメリカ人)のあいだに「五輪種目化」に反対する声があるからなのか、それとも他に理由があるのか、現段階ではわからない。報道によれば、その理由はIOC委員が知るのみで、公には謎のままである。
「いかなるマイナー・カルチャーでもメジャー化(普遍化・一般化)した途端、そのマイナー・カルチャーが本来持っていた特質やパワーは失われてしまう」というのがぼくの持論だが(エンターテインメントとして新しい魅力が生まれる可能性は否定しない)、ブレイキンのパフォーマンスや審査のプロセスを見て、今回のパリ五輪にしばしば感する「違和感」の正体もわかった気がした。それは概ね以下のような問題提起に集約される。
ブレイキンという黒人カルチャー(サブカルチャー)を、パリ五輪のように受け入れるのも、ロス五輪のように拒むのも、おそらく古色蒼然たる白人エスタブリッシュメント(欧州貴族。最近はアラブ諸国の王族もメンバー)の五輪における影響力(利権も?)がいまだに「健在」であることを証明しているのではないか。
アジア人パワーの炸裂は広汎に認められるが、それも白人エスタブリッシュメントの「許容範囲」の内側にあるのではないか。その許容範囲を超えれば、種目からはずされる、あるいはルール改正などによって白人エスタブリッシュメント優位でことが進められてしまうのではないか。
「アフリカ人やアジア人は、俺たち白人エスタブリッシュメントが許す範囲で活躍すればいいんだ」という白人エスタブリッシュメントの奢りのようなものは五輪には存在しない、と果たして言いきれるだろうか。
※上述のことは、「西欧型民主主義」についてもあてはまる気がしてならない。
これらの「問題」には、もともと「下々に恩寵を施してやる」的な姿勢でコトに臨む欧州貴族の影響力が強かったIOCの思惑が絡んでる、とぼくは推測している。
毎度のことだが、オリンピックはぼくなりに楽しんでいる。だが、その背景まで深掘りすると、「なんだかなあ」という違和感が常につきまとって心を離れないのである。