「イスラエル不招待」の政治性—長崎市平和祈念式典をめぐる問題点
長崎の平和祈念式典(8月9日)に際して、長崎市がイスラエル大使を招待しなかったことに憤慨した米英などが事実上の式典ボイコットを決めた。イスラエル大使に招待状を出さなかった理由に関して、鈴木史朗長崎市長は以下のように語っている。
「イスラエルの招待については政治的な理由ではなく、あくまでも式典の円滑な運営の観点から招待状を発出できない総合的な判断をさせていただいた。引き続き、そういった考え方を粘り強く、関係のところにお伝えし理解を求めていきたい」(テレビ長崎へのコメント)
式典前日8月8日もNHKのインタビューに答えて、鈴木市長は同じことばを繰り返した。
この言をそのまま信ずると、「イスラエルを招待すると(テロや批判が起こる可能性があり)式典の運営に差し障りがでる」ということになる。
が、広島市はイスラエル大使を招待したが、長崎市が懸念するテロなど起こっていないし、批判も巻き起こらなかった。
他方で、CNNによれば、長崎市はハマスやヒズボラを支援するイランの大使は招待しているという。イスラエルを招待せず、イランを招待するというのは、長崎市にバランス感覚が欠如していることの証でもある。「政治的な決定」と受け取られても致し方ない。「長崎市はパレスティナ(およびハマス、ヒズボラ)とイランの味方であり、イスラエルの敵である」と対外的に宣言したようなものである。
長崎市自身が「政治的な判断ではない」といくら抗弁しても、これによって「政治的な火種」を振りまいてしまったことは明白だ。
鈴木長崎市長が、「ガザ地区の戦禍に思いを巡らせるとイスラエルを招待する気にはとてもなれなかった」と言い訳するならまだしも(それとてもきわめて感情的な判断だが…)、「式典の円滑な運営」を理由に招待しなかった以上、「円滑な運営とはなにか」についてイスラエルとG7主要国に対して釈明する義務があったが、その義務は果たされなかった。
鈴木市長も長崎市もこのまま有耶無耶にしてしまうだろうが、「国際問題」に発展しかねない長崎市の今回の判断は、市議会で追及すべき重要案件だ。市議や市民の「良識」も問われると思う。