川添象郎さんを悼む
川添象郎さんが現住地・福島で亡くなった(2024年9月8日)。
いよいよ「ぼくが敬愛してやまない先輩たちの時代」も終わりを告げようとしている。ミッキー・カーチスさんや村井邦彦さんなどがまだお元気なのが救いだ。
ミッキーさんや村井さんにはインタビューしたが、川添さんにインタビューできなかったことは返す返すも残念だ。評伝を作ってみたかった。
高校1年の頃、かまやつひろしさんに教えられて知った飯倉のキャンティ(川添さんの店)にしばしば通っていた70年代は、「象多郎(旧名)はたんなる金持ちのどら息子のジャンキーで日本版『ヘアー』(ロック・ミュージカル)で逮捕された人」ぐらいにしか思っていなかった。「フラメンコ・ギタリスト」という経歴も眉唾だ、と。
コロムビア傘下のマッシュルーム・レーベル(YMOがデビューしたアルファレコードの前身/小坂忠やGAROが所属)は村井さんのレーベルだが、共同プロデューサーとしてミッキーさんと川添さんも関わっていた。このレーベルの初のCD化(監修/1991年)はぼくが手がけたが、監修に際して村井さん、ミッキーさんにはインタビューしたものの、川添さんのアポは取れなかった。
が、80年年代後半から90年代にかけて、あちこちのバーやレストランで川添さんに遭遇した。何度か隣り合わせになった。じっくり話をしたことはないが、しょっちゅう会っていたせいで「顔見知り」(通りすがりだが顔は知っている人)にはなった。仕事の席で会ったのは吉田美奈子さんの創美企画への移籍(1990年)に伴うパーティ(白金)のときぐらいだった(その時も隣り合わせだった)。
キャンティでご馳走になったこともある。ぼく自身が素性を明かしたからご馳走してくれたわけではない。「隣り合わせになった」というただそれだけの理由だった。ぼくのような通りすがりの見知らぬ人にまで奢ってしまうから破産するんだと思ったが、あれも川添流の生き方だったと思う。
本来なら自慢になるニューヨーク(グリニッジ・ビレッジ)やパリ(モンパルナス)の話を、自慢としてではなく、「人生の一コマ」として淡々と話すその姿勢が好きだった。フラメンコ・ギターも聴いた。「超絶」というほどではないが、絶品といえる腕前だった。「(60年代に)グリニッジ・ビレッジに住んでた頃、盲目のギタリスト、ホセ・フェリシアーノにギターをいちから教えた」と、さりげなくいうところもホラ話とは思えなかった。
ぼくが素性を明かしたことはないのは、そんな話を聞かされているうちに、自分の素性を明かすことなんでどうでもいいことに思えてきたからだ。ヘタにインタビューを申しこんで構えられるのもいやだった。最初から最後まで「たんなる顔見知り」のままで終わった。
先日NHKで、風吹ジュンさんのファミリー・ヒストリーを見た。壮絶な人生だったが、風吹さんが川添さんと結婚していた時代はすっかり省かれていた。ハブられたのは、風吹さんの意思なのか、それともNHKの方針だったのかわからなかったが、今にして思えば川添さんの配慮だったのかもしれない。
ぼくの知るかぎり少なくとも3回の逮捕歴があったと思う。キャンティは手放し、キャンティを任された弟の光郎さんも早逝している。「華族の末裔」も勲章ではなくなってしまった。ユーミンの発掘やYMOのプロデュースだって、彼にとって「人生の一コマ」にすぎないものだったと思う。端から見れば「先駆者の波瀾万丈な人生」に見えるが、どんな人生だったか「彼のみぞ知る」で終わった。
目立ちたがり屋さんだったが、貴族の末裔、東京人として育ったことが本当はとてつもなく気恥ずかしかったのだと思う。その気恥ずかしさが度を超えてしまい、川添さんの人生を波乱に満ちたものにしたのだ。評伝は作れなかったが、それでいい。
合掌。