オダギリジョー『オリバーな犬』で掻きたてられた妄想
あらゆる想像と解釈が「正解」
「青」に振れた映像が印象的なオダギリジョーの『オリバーな犬』(NHKドラマ10)を観た。
話題になっているだけあって、WebマガジンやSNSを中心に実にさまざまな「感想」が書かれているが、この作品はオダギリジョーがもっているさまざまな脳内イメージを映像化したものだから、観た者が自分の脳内イメージに重ねあわせて、それぞれが勝手に想像したり、解釈したりすれば「それが正解」である。観た者の「正解」(想像や解釈)の数が多ければ多いほど、この作品は成功したことになる。
類似の作品はあるかもしれないが、リンチンチンに遡る「犬」が出てくる映像作品として考えれば画期的なものだろうし、おそらく日本でしか生まれ得ない作品だから、その独自性は高い。歴史に残る作品だと評価している人もいた。気持ちはわかるが、そういうことはどうでもいい。歴史に残ることを目標にしていないし、「映像に革命を!」といった血気も感じられないから、観た者の「おもしろかった」がじわじわと積み重なっていけばいいと思う。NHKという媒体に拘った「NHKらしからぬとんでもドラマ」といった評価もどうでもいい気がした。表現の場がたまたまNHKだっただけだ。オダギリのファンとしての十分な資質と覚悟を持ったプロデューサーがいたということだ。
表現芸術の「伝統」へのつながり
ぼくは壮大なスラップスティック、またはヒップホップ作品として観た。ストーリーにあまり重要性はない。ストーリーは、オダギリの脳内アーカイブの寄せ集めを正当化するための手段であり、ストーリーに引っ張られると怪我をしそうだ。ストーリーとしての出来の良さや整合性に目を奪われると、作品のおもしろさは半減する。
オダギリの脳内にぼくの脳内を合わせることにも本質的な意味はないが、「解釈の数の多さ」という基準でみると、ぼくの脳内でもさまざまな解釈が飛び交って、収拾がつかなくなっている。オダギリ自身も収拾はついていないし、収拾する気もないだろうから、そこはお互い様だと思う。
オダギリの映像や舞台に関するさまざまな「引き出し」に刺激されて出てきたぼくの未整理の「引き出し」の中身を書くと、たとえばタイトルの『オリバー』は、ディケンズの『オリバー・ツイスト』などを参照しながら、芝居や映画やテレビドラマの世界で繰り返し活用されてきたプロットや登場人物の豊富なキャラ、さらに多様なキャラを集めることで生じている複雑かつ怪奇な人間関係が、21世紀になっても表現芸術の基本であることを教えてくれたと思いこんでいる。要するに19世紀の『オリバー・ツイスト』に対するリスペクトが、21世紀日本での『オリバーな犬』というタイトルに現れていると勝手に解釈したわけだ。もちろん、『オリバー・ツイスト』の背後には16〜17世紀のシェイクスピアもあろうし、19〜20世紀のコナン・ドイル(シャーロック・ホームズ)もあろうというぼくの勝手な解釈も含まれているが、オダギリジョーの脳内とはまったく無関係であるかもしれない。
ハリウッド発の動物映画スター・リンチンチンを彷彿とさせる「犬が主役」も古典的ながら素敵な発想だが、警察犬を人間(オダギリジョー)が演ずるという、「行儀のいい物語」とはほどとおい破壊的な演出も、この作品の大きな特色だ。しかも、その着ぐるみはシェパードとは似ても似つかぬ雪男風(ビックフットかイエティか)で、着ぐるみ劇が世界でいちばん多い、日本ならではのドメスティックなアレンジメントが効いている。
タランティーノとマイケル・ジャクソン
あちこちに出てくるタランティーノ風のシーンは往時の日活映画の切り取り(古き良き東京の「盛り場」のイメージ)にも重なっていて、独特の雰囲気を醸しだしている。ちょっと昔風に言えば「無国籍なハリウッド的アジア」を表現するもので、『ブレードランナー』のみならず、香港映画や岩井俊二の模写かと一瞬思わせながら、着ぐるみを着たオダギリジョーが、われわれの関連付けの志しを一気にぶち壊してしまう。
圧巻は、マイケル・ジャクソン「ビートイット」のPV(したがって『ウェストサイド物語』)を明らかにパクリながら、それを見事に解体していく大団円とストーリー未完を匂わせるラストのスクラップブックのような映像群。これは優れた「日本版ヒップホップ芸術」(実際に「ラップ・バトル」もある)だが、鈴木慶一、細野晴臣、火野正平なども数秒ずつ顔を出すというつくりは、我が世代を巻き込むとんでもない陰謀にも思えた。
音楽にエゴ・ラッピンを起用したのはけっして悪くないが、わがままをいえば英国流ハード・ロックのまがい物か醤油ソース風ヒルビリーがほしかった。ま、これは趣味趣味音楽領域の話だから、もっとどうでもいいことだが。
池松壮亮の演ずる主役のバディにとても惹かれた。バディのような若者がこれからの日本を造っていけばいい、と大いに妄想してしまった次第だ。