NHKドキュメンタリー『ジャカルタ・パンク 抑圧された人びとの叫び』番組評

2016年9月11日10時からNHK・BS1で放映されたドキュメンタリーWAVE『ジャカルタ・パンク 抑圧された人びとの叫び』を見た。

ここ十数年、インドネシアの大衆音楽は急速にポップ化して、汗と酒と煙草の臭いが染みこんだ、フェロモンたっぷりの路地裏のダンス歌謡・ダンドゥットでさえ妙に洗練される傾向があるが、その流れに逆行するかのようなジャカルタ・パンク、マージナル(Marjinal)の存在はまったく知らなかった。バンド歴20年だからもうかなりのベテランといえるが、ショービズやエンターテインメントの世界とのつながりを意識的に避けるような活動形態だから、彼らの情報はこちらに届きにくかったのだろう。

荒削りのツートーン・スカっぽいところもある、タテノリのリズムが基本だが、インドネシアというエスニシティも意識させるギターとウクレレとの絡みがとても印象的で(ウクレレがあれほど攻撃的な楽器だとは知らなかった!)、わがニッポンでいえば、初期のRCサクセションに類推できなくもないサウンドだ。

歌のテーマは、一口にいってしまえばインドネシアの現社会体制に対する抵抗である。抑圧された者を鼓舞し、その魂を慰め、変革への希望を情熱的に歌い上げる。急速に近代化する巨大都市・ジャカルタの片隅に追いやられたかのような若者たちが、マージナルのパフォーマンスに共鳴しながら熱唱し、拳を振り上げるライヴ映像にはそそられるものがある。政治的権力者や華僑を含む富裕層が牛耳り、彼らの既得権益を守るためには基本的人権や法令さえ無視されるインドネシア社会の抱える深刻な歪みを、「歌う」という行為によって告発するバンド、マージナルの姿勢には大いに共感した。

こんなことを書くと、「沖縄の基地反対運動や反安保運動に懐疑的なお前がなんて調子のいいことをいってんだ!」という非難を浴びそうだが、背負ってきた歴史も社会体制もまるで異なるインドネシアと沖縄や日本を同列に置き、「抑圧された俺たちには抵抗権がある」とばかり辺野古や高江などで展開される「プロフェッショナルな抵抗運動」にエールを送る人たちのほうが、はるかに無分別で無思慮だと思う。この世には「被抑圧者を装う抑圧者」「被害者を装う加害者」が無数に存在するという事実になぜ気づかないのか。絡みあった糸を一本ずつ丁寧にほぐしていけば、「被抑圧者」「被害者」という虚飾に満ちたベールなど簡単に剥がすことができるのに、彼らはそうした作業にまるで関心がない。「反知性主義」とはこのことだ。

日本では、当事者である住民とはほぼ無関係な人びとが脱法行為・違法行為を承知で辺野古や高江などの「現場」に座り込み、機動隊にごぼう抜きにされると「人権無視だ」「差別だ」と大騒ぎである。このドキュメンタリーには、マージナルに支援されるインドネシアの農民も登場するが、違法性の強いセメント工場によって地域の水源が汚染される事態に直面して危機感を抱いた彼らは、大統領府前で警備の警官と交渉し、法の枠内で整然と抗議活動を繰り広げていた。力ある者が平気で法治の原則をねじ曲げ、拷問や謀殺も罷り通るといわれるインドネシアで、農民の抗議運動が法に則りピースフルに行われている。これには失礼ながら驚きを禁じえなかった。彼らの法治主義・民主主義に対する「高潔さ」には脱帽である。これに対して、日本の「被抑圧者」のなかには、脱法行為・違法行為を「基本的人権だ」といわんばかりに平然と繰り返す人びとがいる。インドネシアの人びとの切実さと高潔さを侮辱するに等しい行為だと思う。

いわゆるメッセージ・ソングやプロテスト・ソングには馴染まない僕だが、マージナルの歌はすんなり入ってくる。インドネシアの社会体制が、それほどまでに「抑圧的」に見えるせいもあるが、彼らの歌が「〜打倒「〜反対」といった直接的な政治的メッセージを目的としたものではなく、「人としてフツーに生きたい」という当たり前の欲求、つまり「普遍性」に裏づけられているからだと思う。

※写真はNHK放映の画面をデジタル・カメラで撮影したもの。

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批評.COM  篠原章
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