東京〜バンコク〜サムイ〜東京〜沖縄〜東京〜沖縄〜東京(3)

東京〜バンコク〜サムイ〜東京〜沖縄〜東京〜沖縄〜東京(2)からつづき

再び沖縄へ

2月20日。朝11時から大学で会議。二つの会議を掛け持ち、終わったのは4時頃。5時に池袋で友人と待ち合わせて夕食をとったら、その足で羽田へ。さすがに疲れていて、チェックインの時「スーパーシートにしてください」と申し出たのだが、あいにく満席。もっとも、18日の着陸やり直しの一件以来、どうも飛行機に体が馴染まないので、どこに座っても落ち着かないのだが。

那覇空港まで学生に迎えに来させていたので、タクシーに乗るよりもはるかに楽な気分でホテル・サンワへ。昨日の今頃は羽田かと思うとなんだか妙な気分だ。荷をほどいてから、学生たちに「全員集合」をかけ、みんなしてマイ・フェイバリット・プレイス、柏屋へ向かったのは午前1時を回っていた。波の上ビーチに近いレゲエ・バーなのだが、掘り炬燵風の一角があって、半分寝ころびながらビールや泡盛をちびちびできる。疲れた体にはもってこいの飲み屋。ほんの少し飲んでから、「よーし、これからボーリングだ。沖縄では深夜のボーリングはクラブ通いよりお洒落なんだぞ」と冗談めかしていったら、みんな乗って来ちゃって、近くのサラダボウルへ直行。深夜だけど金曜日とあって空きレーンはわずか。2ゲームをこなす。1ゲーム目は76と惨憺たる結果だったが、2ゲーム目は140でトップ。ゲームが終わったのは午前3時半。みんなようやるよ。

H助教授来沖

2月21日。学生たちが帰る日である。最終日なので付き合ってあげたいのだが、今日は友人でフランス文学者のH助教授が沖縄にやってくるから、そちらが優先。この旅の後半はH助教授が同行者だ。
H助教授は、昨年夏に「ベトナムにはまった」のだが、11月に学会で沖縄を訪れ、こんどは「沖縄にはまった」のである。拙著『ハイサイ沖縄読本』を古書店で仕入れて熱心に読んでくれた偉い人物なのだ。3月末からパリに行ってしまうので、パリの片隅で沖縄への想いを高めてもらうために企画した沖縄の旅だ。

朝、レンタカーをホテルまで配車してもらってから学生たちの投宿先を訪ね、玉城村、知念村など南部のビーチを一回りしてきたらと指示。わがお気に入り「浜辺の茶屋」での休憩も勧める。
学生に別れを告げ、投宿するDホテルに一足先に行ってチェックイン、H助教授の予約も確認。プラザハウスにある台湾人経営のロジャーズ百貨店子供服売場にも立ち寄る。みやげ物はいつもロジャースの子供服と決めているのだ。東京ではなかなか手に入らない中流階層向けのバスターブラウン、ミニウェイブといったアメリカ製ブランドがここでは破格の値段で売られている。デザインも素材も日本製よりはるかにいい。

3時過ぎ、那覇空港にH助教授を出迎え。お定まりの市場コース。市場の食堂が、新年会のためにいつもより早めに閉店してしまったので、市場通りを突き抜けた先にある農連市場近く、開南の交差点に面した平和食堂へ。途中、学生たちとも再び出会ったので連中も平和食堂まで引き連れての大移動となった。オリオンを飲みながら“沖縄名物”おでんと中味汁(豚の内蔵~特に胃~を煮込んだもの)。立ち食い定食屋のような店だが、ちょっと寒いくらいの風が心地よい。学生たちはフライトの時間もあるのでまもなく引き上げたが、ぼくとH助教授は平和食堂のカウンターを2時間近くも占拠し、たらたらと飲み続けた。

8時半過ぎ、番組に出演するため、ラジオ沖縄に向かう。旧知の売れっ子タレント、富田めぐみちゃん(「琉球の風」でも準レギュラーだった)がDJをつとめているハイサイ・ラジオという90分番組。パーフェクTVの電波にのせて、全国にもオンエアされているらしい。沖縄の楽しさ、沖縄の悪口を含めて、ここでもたらたらと取り留めなく話す。途中、視聴者からの電話を受けるコーナーがあって、倉敷の視聴者が沖縄への思いの丈を目一杯ぶつけてくる。とてもまじめな方なんですね。おかげでかけたい曲がかけられなくなる。「篠原先生にも手紙を書いたことがある」というから記憶をたどったら『ハイサイ沖縄読本』の読者カードを真っ先に送ってきた人だった。

番組終了後、めぐみちゃん、H助教授、ぼくの3人でコザで飲むこととなる。めぐみちゃんはいつも元気で、明日は沖縄芝居の稽古の後東京に行くというのに、わざわざコザまで付き合うという。住んでいるのは南部の東風平だから、コザからの帰り道は1時間以上かかるというのに。ちなみに彼女のおばあ様はノロである。ノロとは琉球王府公認の呪術師・祈祷師である。世が世ならめぐみちゃんもノロのはずであった。

那覇からDホテルに向かったが、なんとH助教授の部屋が取れていなかった!だから昼の間に確認しておいたのに。ぼくがチェックインした部屋はベッドがひとつしかなかったので、その部屋を他のお客さんに譲ることにして、H助教授と二人で和室に一泊することで折り合った。やだよねえ、こういうトラブル。
気を取り直して、中の町の「揚羽蝶」で足ティビチと泡盛を食することにする。ここのティビチは大きくて美味しいことで有名。照屋林助のいきつけでもある。林助は酒を厳しく禁じられているが、今年還暦を迎えたママさんによればお忍びで少しだけ飲みに来ることもあるという。そのママさんだが、姪の結婚式だったとかで、ぼくらが店に入ってから間もなく正装でもどってきた。深夜の1時過ぎである。要するに祝宴が1時まで続いたということだ。これもいかにも沖縄らしい。

めぐみちゃんを囲んで、沖縄話に花が咲いたが、さすがにぼくは疲れていた。いつもなら明け方までがんばれるのだが、3時頃お開きにした。彼女はこれから東風平まで自慢の軽自動車を駆って帰るのだ。沖縄の女の子はみな元気である。

H助教授、金武社交街とネーネーズにご満悦

昼過ぎ、林賢さんが迎えにくるということで、それまでコザの街をぶらつくことにした。H助教授とゲート通りを歩く。おもにフィリピン・バーのある辺り。昼はまったくの廃墟にしか見えないが、夜は妖しげなネオンがまたたく一帯である。

林賢さんは、ぼくらを拾って、沖縄の湘南といわれる北谷町のサンセット・ビーチ沿いに建設中のスタジオ兼ライブハウスを見せてくれた。もうこれ以上は望めないという最高のロケーション。経営的なことは心配だが、「何とかなるサー」とは林賢の弁である。この一角には映画館複合ビルがあって、連日大盛況だとか。2000人からの観客を動員するというから、たいしたものである。ビーチ沿いの映画館とは、考えてみればしゃれている。林賢さんの「経営的自信」もそんなデータに裏付けられているようす。

林賢さんが忙しそうだったので早めに遠慮して、やんばる(山原)は金武(きん)の街に向かった。極東最大の海兵隊基地、キャンプ・ハンセンの城下町である。
この街も大部分廃墟と化している。きらびやかだった時代の残骸がいたるところにあって、ベトナム帰りの亡霊や、混血ロッカーやホステスたちの笑い声や叫び声が壁にまで染み込んでいる。安宿の「ホテル東京」や「パラダイス・ホテル」は、今も客待ち顔だが、わずかなフィリピーナが訪れる以外はほとんど人気もないことだろう。
写真芸術論についての翻訳もあるH助教授は、感激の連続らしく、シャッターを押し続けている。「こんなに凄い街だとは思わなかったよ。コザよりも数倍凄い」

夜、H助教授はお目当てのネーネーズが連日出演する宜野湾の「島唄」へ。ぼくは友人の奈須重樹のフォーク・デュオ、やちむんのライヴがあったので、コザのライヴ・ハウス“パティ”へ。深夜になってから合流したが、「美人はよくないよ。やっぱりどこかに影のある不細工な女が哀感を込めてブルースを歌ったりすると最高なんだ」が自説のH助教授は、ネーネーズの宮里奈美子さんに惚れこんでいて、ネーネーズ三昧ですっかり満足した様子。
やちむんの二人も一緒に、コザは北中城よりのライカムにあるバラックという店で、深夜のエスニック料理。ここがうまいんだな。ひょっとすると沖縄でもっとも美味しいレストランかもしれない。レゲエ・バーみたいなところだけど、料理は一流。那覇の柏屋もそうだけど、沖縄で料理のうまい店や雰囲気のいい店は、たいがい本土の人間がやっている。悲しいかなこれも沖縄の現実である。

真栄原(新町)・吉原

H助教授が最高に盛り上がったのは2月23日。なにしろ超盛りだくさんのメニューだったからね。夕方、那覇へ向かって再び平和食堂でそばとチャンプルーで軽く一杯。軽くといってもまたまた2時間近くカウンターを占拠。その後、玉城村の「浜辺の茶屋」でコーヒー・ブレイク。とある芸術家の批判をしていたら、いつのまにか後ろの席に本人が座ってた。逃げるようにして「浜辺の茶屋」をでて、宜野湾の色街・真栄原社交街(新町)へ。比較的若い女の子が客をひいている様にH助教授もかなり驚いた様子だったが、どこかの誰かさんとちがって、店にあがろうとはしなかった。女でなく酒を出す「チェリー」というスナックでビールを2本。この店は24時間営業だが、最高で25日間店に居座りつづけ、飲み続けたカップルがいるという。もの凄い土地だね。一週間飲み続ける客など珍しくもないらしい。どうなってるんだ?さてもう一軒ということで「焼肉」の看板がある小汚い店へ。「この店は飲めますか?」なんて聴いてから入らなくちゃならないなんて、妙な街だよ。焼肉屋のおやじは60近い雇われマスター。ぼくが彼とおなじ山梨県出身、H助教授が彼の馴染みの町・中野育ちだと知って、すっかり親近感をもってくれたらしく、泡盛一杯1000円也の料金で大サービス。しなびたおでんはでるわ、自家製漬け物はでるわ、泡盛のお代わりはでるわ、とすっかり打ち解ける。女を追って沖縄まできてしまった彼もすでに在沖縄26年。ブルース(哀感)に満ちた男だったので、H助教授は早速「真栄原の嘉手苅林昌(=現代沖縄民謡の最高峰)」と呼んで、「沖縄で出会った最高の男」と評価を下した。次いで訪れた吉原は飲めそうな店がなく、50代・60代の老娼婦たちを後目に中の町社交街まで引き返して、嘉手苅林昌の息子・林次が出演するはずの「なんた浜」を探すが、見あたらない。潰れたんだね、きっと。コザではお気に入りの店が知らぬ間に潰れるから、ずいぶん寂しい思いをすることが多い。『ハイサイ沖縄読本』の時に通ったコザの店で残っているのは、‘揚羽蝶’と‘パティ’と‘姫’ぐらいしかない。で、民謡クラブ「姫」へ。やはりH助教授ご贔屓の美形民謡歌手・我如古より子さんが出演する店。H助教授はここでもご満悦。よかった。

仕上げはゲート通りのフィリピン・バー「クイーン」。1本800円のビール、1杯千円の女の子用ドリンクをいちいちキャッシュで精算しながら飲むから、けっして使いすぎることはないという明朗会計。二人のフィリピーナと英語でわいわいやりながら、小一時間でしめて8400円(二人分)の気軽な恋愛世界。売春じみた行為はいっさいなしの健全空間である。

帰投は午前4時。明日はまた東京である。

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批評.COM  篠原章
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