コロナウイルスの犠牲となったアラン・メリル — 日本ロック黎明期の立役者

ヘレン・メリルの息子として

アラン・メリルがコロナウイルスで亡くなった。享年69歳。日英米の3カ国で活躍したロック・ミュージシャンだった。

1951年ニューヨーク生まれ。父はベニー・グッドマンの教えを受けたサキソフォン奏者、クラリネット奏者のアーロン・サクス、母はジャズ・シンガーとして日本でも良く知られたヘレン・メリル(1929年生まれ/存命)である(1956年に離婚)。

ヘレンは1950年代から60年代にかけて、チャーリー・パーカー、クリフォード・ブラウン、ギル・エヴァンス、スタン・ゲッツ、エンニオ・モリコーネ、マイルス・デイヴィスなどとのレコーディングでシンガーとして活躍したが、とくにクリフォード・ブラウンと一緒にレコーディングした1954年の『Helen Merrill 』が名高い。若き日のクインシー・ジョーンズが編曲を務めた同アルバム収録のコール・ポーターの作品「You’d Be So Nice to Come Home To(ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ)」(初出は1943年)は、日本ではヘレンの定番曲として知られる。

ザ・リードへの参加

ワールド・ツアーで何度か訪日経験のあったヘレンは、1966年に日本への移住を決め、翌67年UPI通信社東京支局長だったドナルド・ブライドンと結婚する。が、ハイスクールの学生だったアラン・メリルはニューヨークに残り、十代半ばからセミプロ・ミュージシャンとしても活動していた。著名バンドだったレフト・バンクのオーディションに合格したが、加入前にレフトバンクが解散してしまったため、68年には母を追うように東京に渡り、上智大学に籍を置きながら、69年にはアメリカ人ばかりの4人編成のバンド、THE LEAD(ザ・リード)に参加している。

シングルやアルバムのクレジットを見るとメンバーは、タミヤ・アーダクル (Tamia Arbuckle – vocals, guitar) 、マーク・エルダー (Mark Elder – lead guitar, vocals) 、フィリップ・トレイナー (Philip Trainer – bass, vocals) 、アラン・ヒル (Alan Hill – drums, vocals)となっており、アラン・メリルの名前は見あたらないが、リーダー格だったギターの名手、マーク・エルダーが69年春に麻薬取締法違反で逮捕され、その穴埋めに加入したのがアラン・メリルだった。ザ・リード時代のアランは、ポール・メリルまたはアラン・サクス(父方の姓)を名乗っていたが、メンバーのアラン・ヒルとの混同を避けるためだったらしい(「ポール」はポール・マッカートニーにあやかった名前)。

ザ・リードは、在日アメリカ人、在日外人が集まるダンス・クラブとして知られた東京・赤坂の「Pasha Club」(パシャクラブ)を活動の場としていたコピー専門の人気バンドで(68年6月結成)、RCAビクター(日本ビクター)にスカウトされ、68年10月25日にシングル「悪魔がくれた青いバラ(尾中美千絵作詞/鈴木邦彦作曲)/沈黙の海(山上路夫作詞/鈴木邦彦作曲)」(両A面)と、「テネシーワルツ」「ルシール」「ロック・アラウンド・ザ・クロック」など日本でポピュラーなアメリカン・ポップス、ロックンロールのカバーばかり収めたアルバム『ザ・リード ゴース R&B(The Lead Goes R&B)』でデビューし、69年2月5日にクリント・イーストウッド主演、ドン・シーゲル監督の映画『マンハッタン無宿(Coogan’s Bluff)』のテーマ・ソング「Pigeon-Toed Orange Peel 」(ウォリー・ホームズ作詞/ラロ・シフリン作曲)をカバーしたシングル「マンハッタン無宿」(B面はボー・ブラメルズの1965年のヒット「Just a Little 」のカバー)をリリースしている(「Just a Little 」はファースト・アルバム収録曲でもある)。

悪魔がくれた青いバラ

沈黙の海

 

これら3作品にアラン・メリルのクレジットはないが、マーク・エルダー逮捕時にすでに録音作業に入っていたセカンド・アルバム『サウンド・オブ・サイレンス(サイモン&ガーファンクルのヒット曲と同名タイトル)リード・ゴーズ・トップ・ヒット 』(69年4月発売)に中途からギターとボーカルで参加している。全14曲中の3曲、「Summertime Blues / Spoonful」「 Hey Jude」「Daydream Believer」でアラン・メリルはリード・ボーカルとリード・ギターを担当している。

サウンド・オブ・サイレンス

ザ・リードのデビュー・シングル「悪魔がくれた青いバラ/沈黙の海」は完全に「青い目のGSサウンド」で、ファースト・アルバムは、60年代前半に日本で流行った洋楽ポップスを中心としたカバー集だった。が、セカンド・シングルと2作目のアルバムは彼らの独自性を感じとることのできるロック・カバー集である。当時の他のGSもステージではカバー作を披露していたが、ゴールデン・カップスやハプニングス・フォーなど一部を除き、ロックのカバー作を主体としたシングルやアルバムをリリースする機会はあまりなかった。英語ネイティブであり、かつテクニックの優れたザ・リードだったからこそ、ロックのカバー作を発表する機会に恵まれたのだろう。ザ・リードの演奏技術の水準が、コピーに専念していた当時の日本のロック・バンドのひとつの目標「値」だったのかも知れない。

ソロ・デビュー

その後フィリップ・トレイナーも麻薬取締法違反で逮捕され、ザ・リードは69年夏には解散する(ちなみにトレイナーは米国に帰国してからも「スティール」と名乗って音楽活動をつづけた。2008年にはドイツ・グラモフォンから『ジム・モリソン最後の日々』という作品をリリースしている)。

アラン・メリルはナベプロ(渡辺プロダクション)と契約してソロ・シンガーに転身し、1970年3月に創刊したばかりの『an・an』やテレビCMなどでモデルとしても活躍した。同じナベプロに所属するGS発展型ロック・バンド “ロック・パイロット”(活動期間:1970年ー72年)のステージをサポートする一方、1971年2月にはアトランティック(ワーナー・パイオニア)からソロ・アルバム(ファースト)『ひとりぼっちの東京(Alone In Tokyo)』とシングル「涙/太陽と雨」(A・B面とも安井かずみ・かまやつひろし作品 編曲:井上堯之)をリリースした。

ひとりぼっちの東京

「ひとりぼっちの東京」というタイトルに象徴されているが、アランが次に歩み始めたのはGSブームの終焉を受けた「ロック・アイドル路線」で、作詞には安井かずみ、作曲にはかまやつひろし、クニ河内、井上堯之、編曲にはクニ河内、井上堯之などを配したロック指向の陣容で制作されている。沢田研二や萩原健一が結成したPYG(1971年ー72年)と同様、「GSから脱皮して本格的なロックを目指す」というGS関係者の期待を背負ったアーティストと目されていたといえよう。芸能界・歌謡界を向いていたナベプロの方針もあったのか、残念ながら「ロック」という印象はどこまでも薄く、同時代でいえばフォーク歌謡的な作品(後のニューミュージック的作風)に留まっているが、シングル・カットされた「涙」は秀逸なラブ・バラードで、数あるかまやつ作品のなかでも傑作に入るだろう。プロコル・ハルム風の「あなたが欲しい」(チト河内作詞・作曲)も気になる作品だが、これはチトが在籍したGS、ハプニングス・フォーのデビュー曲(1967年11月)をカバーした作品である。

マッシュルームからのリリース

1971年秋には村井邦彦、川添象郎のアルファに移籍し、GAROや小坂忠と同じマッシュルーム・レーベルから、レーベル・プロデューサーだったミッキー・カーチスの下、同年12月にシングル「Everyday All Night Stand / Ferris Wheel」を発表、翌72年1月にはフル・アルバム『メリル・ファースト Allan Merrill 1』をリリースした。タイトルが「ファースト」となっているが、アランにしてみれば、全11曲中10曲がアラン自身による書き下ろしで、ドラム(原田裕臣)とパーカッション(浜口茂外也・小坂忠)以外のすべての楽器を自ら弾いた多重録音の本作こそ、自分の最初のアルバムだという意識は強かったろう(「First Love」は前作収録の安井=かまやつ作品「初恋の風」の新録英語ヴァージョンである)。

メリル・ファースト

当時はあまり注目されることもなかったが、今聴くと素晴らしいオリジナル・ロック・アルバムで、ポール・マッカートニーの影響が随所に見られるとはいえ、当時の英米ロックのスタンダードを軽々とクリアしていることに驚く。とくに多重コーラスのデキには唸るほどで、当時「最高」といわれたGAROのコーラス・ワークを上回っている。「Everyday All Night Stand」「Starstruck」「Movies」「Policy」「Ferris Wheel」「Tranquility」などは必聴だ。とくに「Everyday All Night Stand」は、アランの楽曲中のなかで今も人気が高く、アップル・ミュージックのアラン・ページではトップにランクされている。なお、その後CDで出た『メリル・ファースト Allan Merrill 1』やApple Musicの音源にはボーナストラックとして、お蔵入りしていた楽曲やザ・リード時代の楽曲(「Hey Jude」「Daydream Believer」」など)も含まれている。いずれにせよ、アランの若かりし頃の才能が迸るアルバムだ。

ウォッカ・コリンズでの活動

1972年には、元テンプターズのメンバーで、スーパーGS・PYGにも参加したドラマーの大口広司とともにウォッカ・コリンズ(Vodka Collins )を結成し、後にベースの横内タケ(フォーリーブスのバックバンド・ハイソサエティーの元メンバー)もこれに加わった。かまやつひろしも客演メンバーとしてしばしば参加している。73年3月から9月にかけてレコーディングを行い、まず6月5日にシングル「Sands Of Time/Automatic Pilot」(両A面)を、12月5日にフルアルバム『東京-ニューヨーク (Tokyo – New York)』を発表している(東芝EMI)。楽曲・編曲のクレジットは「Vodka Collins 」となっているが、実態としてはほぼアラン・メリル一人の仕事で、「アランのソロ・プロジェクトに大口と横内がサポートで参加した」といってもいいすぎではないだろう。

東京ーニューヨーク

ウォッカ・コリンズのサウンドは「グラムロック」に擬せられることが多いが、当時英国を席巻していたT-REXのサウンドを、ポール・マッカートニー引き寄せたようなサウンドである。音空間の作り込み方はグラム・ロック系だが、洗練されたアメリカン・ロックというイメージも随所にある。シングルで先行発売された「Sands Of Time」「Automatic Pilot」だけが日本語詞で他は英語詞だが、この2作がこのアルバムのなかでもっとも魅力的だ。本人も「Automatic Pilot」はお気に入りのようで、YouTubeに儲けられたAlan Merrill Channelでさまざまな蔵出し音源を聴くことができる。

1973年には、久世光彦がプロデューサーを務めたTBSの人気ドラマ『時間ですよ』に出演している。ドラマの舞台となる松の湯で、出演者がダンスパーティに興ずる場面だが、演奏するバンドがドラム・堺正章、ギター・かまやつひろしと鈴木ヒロミツ、ベース・アランという編成で、樹木希林や天地真理がバンドを前にして踊るというストーリーだった。アランとはまるで関係ないが、樹木希林のダンスは必見である。→『時間ですよ』

なお、ウォッカ・コリンズは、アランが再来日して1996年にリユニオンされ、『Chemical Reaction 』(96年)、『Pink Soup』(97年)、『Boy’s Life』(99年)の3作を残している。このリユニオン時のベースは横内タケではなく加部正義だった。

アロウズでの成功とジョーン・ジェットによるカバー作の大ヒット

1974年になると、ナベプロとのあいだに契約をめぐって争いが起こり、アラン・メリルは日本での活動に見切りをつけて渡英する。現地でロック・トリオ、アロウズ(Arrows)を結成したアランは、以後ロンドンを拠点にするようになる。アロウズは、幸運にも、アニマルズやハーマンズ・ハーミッツ、ドノヴァンおよびスージー・クアトロのプロデューサーとして高名なミッキー・モストの目にとまり、ミッキーの設立したRAKレーベルからリリースするようになり、 1974年から1975年にかけて”Touch Too Much””My Last Night With You”  “I Love Rock ‘n’ Roll”といったシングル・ヒットを放ってUKチャートの常連となった。

Arrows I Love Rock'n Roll 1975

アロウズは1977年に解散し、アランは70年代末にはニューヨークに戻って米国での音楽活動に専念する。1980年代のアランの活動では、リック・デリンジャーとのコラボやミート・ローフへの参加が知られるが、1982年には、アロウズがリリースした75年のシングル「アイ・ラヴ・ロックンロール(”I Love Rock ‘n’ Roll”)」(アラン・メリル作詞・作曲)を、元ランナウェイズのジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツがカバー、これが全米チャート(ビルボード)No.1を7週連続で達成し、アラン・メリルは一躍有名になる(他にもブリトニー・スピアーズ、日本のSuperfly スーパーフライ(アランがギターで参加)、L’Arc〜en〜Cielなどによるカバーも知られている)。

Joan Jet I Love Rock'n Roll 1982

以後、アランは順調にソロアルバムや企画アルバムをリリースしてきた。近年はニューヨーク、ロンドン、東京などでソロ活動やアラン・メリル・バンドの活動を継続しているところだった。

突然の訃報

コロナウイルスのため各国で多数の人々が亡くなっているが、大半の国々で「医療崩壊」が起こっており、医療崩壊のせいで満足な措置を受けられないケースも頻発している。3月29日に亡くなったアランもその一人で、妻・ジョアンナは、義理の娘のFacebookを通じて以下のようなメッセージを公開している。

「約2週間前、アランは風邪をひいたようだと感じた。その後、インフルエンザじゃないかと。私はすぐに疑いを持ったけど、もちろんアランはあのとおりだから、私が何でもないことに騒ぎ立てているって言ってた。それでも、私はコロナウイルスについて調べ、読むもの全てに、息ができなくなるとか胸がすごく痛くなるとか重い症状が出るまで助けは得られないって書いてあった。そうでなければ、入院やCovid-19の検査は受けられないと。これは事実だった」

「とうとう、息ができず、ひどい悪寒に襲われ、眠れなくなったため、救急車を呼んだ。…私は彼と一緒にERに入れない、だから付き添う意味がないと言われた。1時間後にERの医師から連絡があるまで、どうなっているのかわからなかった。医師からは、ウイルスに感染していると思われるが、集中治療室に入るには検査を受ける必要があり、それには少なくとも10時間かかると言われた」

「電話をくれた医師に会うと、謝罪され、アランの容態が良くなったので、集中治療室に移し、そこで必要な治療を受けられると伝えられた。人工呼吸器をつけ、鎮静剤を投与されているから痛みはない、少なくとも感じてはないと。… それから15分毎に、私は、彼はいつ移されるのかって訊いてた。いつも、数分後だって答えが返ってきた」

「(病院側のはっきりしない対応に疲れ果てたジョアンナは)いったん3ブロック離れた家に歩いて戻ったが、医師から電話があり、彼が亡くなったと知らされた。…彼はもう死ぬってときまで入院できず、検査までやっと漕ぎ着けることができたと思ったら、14時間もERに置かれて弱り果ててしまった。もし彼が集中治療室に入っていたら、闘うチャンスがあったかもしれない」

【以上、Barks Japan Music Networkの記事より引用。一部批評ドットコムで編集】

今のところ日本はまだその段階には達していないが、これはまもなく起こりうる事態だ。アラン・メリルの死を無駄にしないためにも、より多くの命を救える態勢を世界に望みたいが、この厄介なコロナウイルスは、人類からそうした希望を奪い取る勢いだ。なんとも悔しくてならない。

アラン・メリルは、日本ロックがまだ海のものとも山のものともつかぬ、1960年代末の黎明期にわずか17歳でニューヨークから東京にやってきて、孤軍奮闘しながら自らのロック・ミュージックを確立した偉大なアーティストである。日本での評価は意外なほど低いが、1972年のアルバム『メリル・ファースト』は、当時の英米ロックに勝るとも劣らない密度の濃い作品だった。試行錯誤して作られたはっぴいえんど『風街ろまん』(1971年)がウェストコースト・ロックの風をまともに受けた当時の名作だとすれば、1972年の『メリル・ファースト』は、東京にニューヨークの香りを漂わせることに成功した名作だ。

そんなことを思い浮かべながら、ぼくはひとり遺徳を偲んでいる。

批評.COM  篠原章
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