日米の「価値観共有」という幻想:陳腐化した日米安保
地回りトランプの脅し
ドナルド・トランプ米国大統領は、「米国は日本を守ってやってんだぞ。しかも経費は持ち出しだ」といった趣旨のことをたびたび放言する。こうした言葉を放ってしばらくすると、「もっと日本は武器装備を買うべきだ」と必ずフォローする。簡単にいえば「脅して利を得る」というやり方だ。
周知のように最近もまた「脅し」があった。
「事情に詳しい関係者3人の話として、トランプ氏が日米安保について、日本が攻撃されれば米国が援助することを約束しているが、米国が攻撃された場合に日本の自衛隊が支援することは義務付けられていないことから、あまりにも一方的だと感じている」(6月25日 ブルームバーグ)
トランプ大統領「日本が攻撃されれば、米国は第三次世界大戦に参戦し、米国民の命を懸けて日本を守る。いかなる犠牲を払ってもわれわれは戦う。だが米国が攻撃されても、日本にはわれわれを助ける必要がない。ソニー製のテレビで見るだけだ」(6月26日 FOXビジネスネットワーク)
これに引き続き、今回も「利」を得ようとする商売人・トランプの思惑がこめられた発言も飛び出した。以下は6月28日の日米首脳会談における大統領の発言である。
トランプ大統領「最初の国賓で天皇陛下にお会いできたのは特別なことだった。世界でも話題になったと思う。首相に感謝する。多くの自動車会社がミシガン、オハイオ、ペンシルベニア、ノースカロライナといったところに進出し、全米各地で製造している。他の日本企業もすばらしいプラントをアメリカで建設している。そのことに感謝する。(会談では)貿易、軍事、防衛装備の購入について協議したい」(6月28日 日本経済新聞)
日米安保や貿易不均衡で脅して、高額な武器防衛装備の購入を迫ろうとするトランプ大統領のやり方はあまりにも露骨かつシンプルすぎて笑えるほどだ。配備が一部で問題化しているイージス・アショアも、トランプ大統領のトップ・セールスで購入が決まったものだといわれている(しかも当初1600億円といわれた購入価格が最終的には4000億円程度までに膨らむと予想される)。購入が決まる前のトランプ大統領が日米同盟に疑問を呈していたのは、多くの人が知るところである。G20が終わった現在、参院選後に予定される日米貿易交渉でトランプが「日米安保破棄」を切り札に日本政府に譲歩を迫るのは明らかだ。
「こんな地回りみたいな奴とは付き合うな」という声が出てくるのもわかるが、トランプ大統領の言い分にも理はある。安全保障環境の変化とその変化に対する今後の対応を考えれば、「応分の覚悟と負担は必要だ」とする世論が米国側で膨らんでくるのは当然である。「なんのために米軍が日本国民を命懸けで守らなければならなのか」という疑問を口にしたトランプ大統領の根本的な問題提起は一考に値する。
ただ、このような一方的な発言が報じられ、ホワイトハウスがその発言を否定したのち、「武器装備を買え」という本音を突きつけられると、日米同盟をめぐる経緯がぼやけてしまうことも確かだ。これまでも自衛隊の武器装備は米国の「言いなり」だったからである。
自衛隊のこれまでの武器装備は、憲法が制約する範囲内に留められてきただけではなく、米軍の承認する範囲内に限られてきた。要するに自衛隊の戦力の水準は「米軍次第」だったのだ。米国・米軍の事情が変わった途端、「なんでお前たちは自分を自分で守ろうとしないのだ、米国製の武器をもっと買わないのだ」と言われても、「きょとん」とするほかない。「あんたのいうとおりやってきたんだよ」がこちらの本音である。したがって、「自分の国を自分の国の軍隊が守るのは当然だ」というトランプ流の突き放し方をそっくりそのまま認めるわけにはいかない。米国にもメリットがあったからこそ、日本国内の米軍基地が維持されてきたのであり、自衛隊の戦力は制約されてきたのである。
トランプ大統領の言い分を認めるなら、米軍の戦力と戦略に依存する日米安保体制の下で活動していきた自衛隊のあり方も全面的に見直さなければならないし、日米同盟を抜きにした日本の安保体制の将来像も模索しなければならない。いや、もう見直すべきときが到来しているのかもしれない。
日米安保の前提は「価値観の共有」
そもそも日米同盟は、同じ価値観を共有する国同士の国益を守るために維持されてきたといわれている。だが、両国が共有する価値観とは一体何だろうか。日米安保条約(正確には日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約・1960年)には次のように規定されている。
(前文)「日本国及びアメリカ合衆国は、両国の間に伝統的に存在する平和及び友好の関係を強化し、並びに民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護することを希望し、また、両国の間の一層緊密な経済的協力を促進し、並びにそれぞれの国における経済的安定及び福祉の条件を助長することを希望し、国際連合憲章の目的及び原則に対する信念並びにすべての国民及びすべての政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認し、両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し、両国が極東における国際の平和及び安全の維持に共通の関心を有することを考慮し、相互協力及び安全保障条約を締結することを決意し、よつて、次のとおり協定する」
(第二条)「締約国は、その自由な諸制度を強化することにより、これらの制度の基礎をなす原則の理解を促進することにより、並びに安定及び福祉の条件を助長することによつて、平和的かつ友好的な国際関係の一層の発展に貢献する。締約国は、その国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また、両国の間の経済的協力を促進する」
さらに、「共有する価値観」は、2006年に両国首脳の「新世紀の日米同盟」なる宣言によって「更新」されている(外務省サイトより)。
日米安保条約によれば、両国が共有する価値観とは「民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配の擁護(および推進)」と受け取れるが、「新世紀の日米同盟」では「自由、人間の尊厳及び人権、民主主義、市場経済、法の支配」となっている。新バージョンでは、旧バージョンにはない「人間の尊厳及び人権」と「市場経済」が付け加えられている。
正体不明の「価値観」
調べた限り、「共有されている価値観」を解説した公式文書は見あたらなかった。日米の民主主義について(あるいはその比較について)、研究者的な視点で書かれた論考は無数にあるが、両国政府が合意に至った価値観とは何かをテーマとした論考はない。そうなると、「共有されている価値観」はア・プリオリ(先験的)なもの、あるいは暗黙知として相互に了解されていると見るほかない。
1945年8月15日を境に、日本は「軍国主義」を捨て、新憲法の下「民主主義・平和主義」を選んだ。核はもちろん、軍備も放棄した。国連の役割も信じた。それが世界の一大潮流でもあった。個人的な経験でいえば、「非核平和主義・国連主義」を学校教育で叩き込まれた。その一方で、「日本軍は凄かったんだぞ」という少年誌の特集も貪るように読んだ。「山本五十六さえ生きていれば、敗戦国にはならなかった」という「夢」のような話もさんざん聴かされた。
米軍の駐留を受け入れながら、彼らに導かれた民主主義、占領政策としての民主主義を実践しつつ、戦後日本は「経済大国」を目指して邁進した。得るものがあれば失うものもある。が、私たちは失うものを自覚することのないまま、アメリカン・ライフスタイルに一歩でも近づこうと、アメリカの文化や思想を無自覚・無批判に受け入れ、在来の伝統や制度の多くをかなぐり捨てた。私たちが教えられた民主主義は、アメリカの民主主義にすぎなかったが、私たちはそのことを承知しながら、日本へのその移植の正当性を疑うことはほとんどなかった。
私たちは移植された民主主義に馴染み、民主主義が大好きだが、民主主義について驚くほど無知だ。米国でドナルド・トランプが大統領に選ばれ、英国でテリーザ・メイが首相の座を失う事態に直面してもその背景を満足に説明できない。「ポピュリズム」「ナショナリズム」という言葉を用いて誤魔化すのがせいぜいである。一方、香港や台湾での「反中」を掲げた大衆行動を民主主義の鏡だと持ち上げ、「民主主義のない中国」への不信を募らせる。民主主義や人権尊重に普遍的な価値があるとお題目を唱え、中国や北朝鮮を槍玉に挙げさえすれば、それで心の安らぎが得られるのである。
結局のところ、内実をほとんど問われることのなかった私たちの民主主義は、全体主義・軍国主義や社会主義・共産主義との対立概念としてしかイメージされていないのである。無論、国家権力や現政権を批判するときの武器として「民主主義」という言葉が頻用されることもあるが、多くは「少数意見を尊重せよ」といっているにすぎず、政権交替が起これば、攻守入れ替わって同じ主張が繰り返されることになる。つまり、この場合の民主主義は、「少数派」の抵抗戦術以上のものではない。こうした抵抗戦術も含めてあえて包括的に論ずるなら、民主主義はおしなべて「対立軸」を演出するための便利な用具にすぎなくなっている。いわゆる人権派によるさまざまな抗議や告発も、民主主義を自ら問う経験を持たなかっ不幸が生みだした副産物だ。
安保体制の見直しが急務
こうした現状を見るとき、「(日米が)共有する価値観」など政治的・時代的にいくらでも流動化する戦術・戦略の域を出るものではない。この価値観は、合理性・客観性をほとんど備えていないし、十分に練られたものでも、歴史的条件が織り込まれたものでもない。また、改訂・省察のための努力の跡さえ見られない。簡単にいえば、今や「共有する価値観」は吹けば飛ぶような存在で、私たちは根本から仕切り直す必要がある。対立を煽ることで東西両陣営が覇権を争った冷戦時代の衣装をいまだに身に纏っている「共有価値」など、今やほとんど役に立たないということだ。
残念ながら、こちらから「日米安保を直ちに破棄する」といえる状況にはない。そのことを認識しつつ、私たちは「米国依存一辺倒ではない安保」「何があっても生き残れる外交政策」のオプションを無条件かつ迅速に検討すべきだろう。かつて「経済の自由」とはほど遠かった中国政府が「一帯一路」と呼ぶグローバリゼーションを推進し、かつて「自由経済と民主主義」のために闘う伝道師を自認していた米国が、米国第一主義・2国間関係重視を唱えるという捻れに直面している現在、陳腐化した価値観の共有に拘っている場合ではないのである。