吉本さんちからの手紙

K社のTさんが、よしもとばななさんの新しいエセーを教えてくれた。それを読んだら、いろいろ想いだした。想いだすままにTさんに返信を書いた。

考えたら、吉本隆明さんが亡くなったとき、ぼくはとくに追悼文を書かなかった。書くような立場にない、と思っていたのだが、ぼくの「個人幻想」としての吉本さんはとてつもなく大きな幻想だった。で、まだ、決着はついていない。だから、「決着をつけるための出発点」として追悼文は必要だったのだ、ということに最近気づいた。

吉本さんの命日は数日前、3月16日だった。Tさんへの返信を、ここに掲げて、ぼくの、1年遅れの追悼文の代わりとしたい。


1986年12月の、『現代詩手帖 臨時増刊』は、「吉本隆明と現在」という特集で、そこにたくさんの写真が出ていました。吉本さんが自宅で食事作ってるところとか、自転車で買い物に向かうところとか。それ、たぶん、本駒込。

あの頃は『試行』(吉本隆明さん編集の個人誌)を定期購読していて、巻頭コラム「情況への発言」の熱心な読者でした。『試行』は年に2回ほど出てたかな。よく出せたな。今はその大変さが身に染みてわかります。

「3号で2000円」というのが当時の購読料だったように記憶しています。郵便振替なんかではなく現金を吉本さんの自宅に送っていました。

購読期間がいよいよ終わるというときに、「本号で期限切れ」という赤いハンコを押した封筒に『試行』は包まれてやってきました。

あるとき、継続を忘れました。忘れているうちに新しい『試行』が出てしまった。そのことを知ったのは、たぶん、どこかの本屋の店頭に新しい『試行』が並んでいたからだけど、いったいあれはどこの本屋だったのだろう。紀伊國屋とか、大盛堂とか。置いていたのかな。『試行』を。それとももっと小さな本屋だったのか。新左翼系の。まったく覚えていません。

全然違うけど、記憶の回路って、そのときどきの動物的な状態ですかね。記憶のことを考えていると、理性が存在するとはとても思えない。くだらないこと、たくさん覚えている。でも、本屋のコトなんて忘れてる。考えたら、中学の頃、甲府の柳生堂書店で、中沢新一を見かけた、というのが本屋にまつわる最後の記憶。日川高校始まって以来の俊才だと、誰かに教えられた。林真理子も、そこにいたかも。中沢さんのおっかけだったから(笑)。林さんのことは後になってから知ったけど。

話がずれたな。ひょっとしたら、東京新聞の「大波小波」あたりで取り上げられていたのかも。『試行』のこと。あ、『群像』で誰かが書いていたのかな。ま、どうでもいいや。

で、何がいいたかったのかというと、『試行』の継続を忘れた言い訳を長々と手紙にしたためて、お金と一緒に吉本さんちに送った。

「雑事多くバタバタと。床も棚も机も本と雑誌だらけで、おまけにその隙間に公共料金の請求書が挟んであって、電話が止まってから慌てて請求書を探すんだけど、それを探し出すだけで半日かかってたいへんで云々…ごめんなさい」

といったような言い訳だった。

あの頃、ぼくは大学院生。博士論文を書いていたと思い ます。当時は「インドの支出税」という一章を書いていたと思う。ボク税金でしたから、専門が。しかも読むものはほとんどドイツ語か英語。寝ても覚めても、 税金のことだけ。といっても計算じゃなくて、理論と学説と制度設計ですけど。『共同幻想論』のことを考えるのはすっかり後回しにされていた。

そしたら返信がありました。女性の字で。

「お手紙を読んで笑ってしまいました。まるで吉本を見るようです」

吉本さんの奥さんだ! 和子さんだ!

なんだか嬉しくて。それがとても嬉しくて。返信が吉本さんからじゃないところがまたよくて。その手紙、とってあるはずだけど、これもたぶんなかなか見つからないだろうな。

吉本さんが亡くなって、いろいろ知らないことも出てきました。奥さんが家事しなかったから、吉本さんがおさんどんしながらばななさんたちを育てたとか。

ホントなんだろうか。

でも、『現代詩手帖 臨時増刊』の写真には、ごちゃごちゃとした台所に立つ隆明さんと雑然とモノが並ぶテーブルがあった。ばななさんはまだ小さいから、和子さんの返信だよな。それとも長女のハルノ宵子さん?ちょっとした謎。これもまた嬉しい謎。

こうして個人幻想、対幻想、共同幻想がつながりながら、融けあいながら時間が進んでいくんですね。それが…ぼくたちの歴史の実相ってことか。

『現代詩手帖 臨時増刊』 吉本隆明と現在

『現代詩手帖 臨時増刊』 吉本隆明と現在

『現代詩手帖 臨時増刊』 吉本隆明と現在から吉本さんちのお写真

『現代詩手帖 臨時増刊』 吉本隆明と現在から吉本さんちのお写真

批評.COM  篠原章
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