<沖縄の本土復帰40年> 知念ウシさんと高橋哲哉さんの対談を批判する(1)

1.復帰の日、本土でのマスコミの報道

 沖縄の本土復帰40年。その当日にあたる昨日は、新聞もテレビも数々の沖縄特集を組んでいた。が、各紙の東京版を見ると、一面で復帰を扱ったの朝日、讀賣、毎日。朝日は天声人語と39面に誘導する写真記事、讀賣は連載記事、毎日は3段写真入りとコラム・余録。日経はコラム「春秋」のみ、東京は一面での扱いはなし(産経は記事なし)。 朝日が知念ウシの対談などで大きな特集を組んでいるが、新聞全体としては冷淡な扱いだ。博多でつくっている西部本社版は扱いが違うだろうが、他地域は東京版と同じだろう(以上は18日に修正)。

朝日新聞(2012年5月15日)

朝日新聞(2012年5月15日)本土復帰40年の特集記事

NHKの場合はニュースプログラムでかなりの時間を割いてはいたが、復帰記念式典の完全生中継はなし。「NHKはメディアのなかでもとくに沖縄が好きなんだから、せめてBSで生中継ぐらいすればいいのにな」と思ったのはぼくだけだろうか? キャスターの大越さんが沖縄出張している割には冷淡な扱いだ。 全部を見たワケじゃないが、民放も似たようなものだった。

総じていえば「節目として報道はするけれど、扱いとしては一番じゃありませんよ。ごめんね、沖縄県民」という雰囲気が漂っている。だが、それはしょうがないことだ。

ぼくのように縁あって沖縄に深く関わってしまった人間にとっては、沖縄に関する報道が気になるのは当然だと思っているが、忌憚なくいえば、本土の一般的な人たちにとって、沖縄に関する情報なんて無数にある情報のうちのごく一部にすぎない。いや、沖縄のことをまったく気にかけていない人だって数千万人はいる。沖縄なんてどうでもいいのだ。

あたりまえである。「仕事して子育てしてローンを返して」という普通の暮らしにとって、他県・他地域で日々発生する問題や事件なんてどうでもいいに決まっている。それはまったく自然なことだ。だから各社の世論調査で、「沖縄の基地負担は過剰か」とか「沖縄のこころをわかっているか」という質問に対して、「過剰だ」「わかっている」と答える本土の人たちの比率がせいぜい3割程度だったとしても驚くにあたらない。ぼくのように比較的沖縄に詳しい者でも「沖縄のこころ」について質問されたら返答に困るのだから、ほとんどの日本国民は、沖縄の期待に応えるような回答なんてできっこない。そのことは責められることではない。

昨日の記事で触れたような沖縄民族主義者の方々は、「沖縄の人びとは、日夜基地からの騒音に苦しみ、米軍犯罪を怖れ、北朝鮮から飛んでくるかもしれないミサイルに怯えている。その上、沖縄戦や米軍統治での辛い経験が心の傷となって休まる時間もない」という事実を理解しない本土の人間は許せない、というかもしれない。だ が、ぼくらはもう知っている。それはウソだ。

基地や戦争体験に四六時中苦しみながら暮らしている人は多くはない。沖縄にも本土と変わらない日常の暮らしがある。辛いこともあるが、楽しいこともある。絶望もあれば、希望もある。歌も歌えば、踊りも踊る。基地周辺には苦痛や不便を感じる人は多いだろうが、そもそも基地があるのは41市町村中21市町村だ。人口の多い那覇にも名護市の大半の地域にも、そして宮古・八重山にも明確な基地被害はない。心の傷はそれぞれにあるだろうが、県民全体を不眠症のごとく誇張するのはまちがっている。

にもかかわらず、マスコミは「沖縄のこころ」を知ら ない本土の人たちを責めるような報道をすることがあるから始末に負えない。マスコミ自身の関心が一過性であるにもかかわらず、国民に対しては関心を持ち続 けるよう求めるのだ。一例を挙げよう。ある局のニュース番組で、初老の沖縄の女性が街頭インタビューに答えていた。

本土の人たちは青い海やカチャーシーを見て沖縄が好きとかいうけど、私たちの心はわかってくれない

思わず「そりゃないぜ」と呟いてしまった。彼女に悪気があるわけではない。「沖縄のことをもっと気にかけてほしい」という素直な心情の吐露だったのだろう。だが、これを見た人のなかには、「沖縄の人たちの心がわからないと沖縄に行ってはいけないんだ」と思う人も少なからずいたはずだ。「沖縄の人ってそういう目で自分たちを見てるんだ」と沖縄に足が向かなくなる。それは沖縄にとって百害あって一利なしだ。沖縄の問題は基地問題だが、経済問題でもある。そんなことはマスコミ人なら百も承知していなければいけないはずだ。このコメントで少なくとも数百人、場合によったら数千人の本土の人間が沖縄への旅を躊躇する気分になったろう。それは沖縄にとって、潜在的な観 光マーケットに対するダメージを意味する。

この番組の担当ディレクターやプロデューサーは、 「沖縄のこころ」を理解することが本土の人間のたしなみであり、沖縄問題の解決につながると本気で信じていたのかもしれない。だが、番組を最後まで見ても、沖縄のこころが何かは一向に伝わってこなかった。知念ウシさんがいっているような「虐げられた歴史と過剰な基地負担に対する苦しみ、そして平和に対する強い願い」が正解なのだろうが、歴史は「沖縄戦」、過剰な基地負担は「事故・騒音・犯罪」ということばで簡単に片づけられていた。「どうですか?大変でしょ?」といわれているに等しい。そういわれれば「大変ですね」と答えるほかないが、誰も「こころ」まではわからない。ディレクターやプロデューサーだっ て大してわかっていないはずだが、視聴者には「あんたたち、沖縄のこころを知らなければダメだよ」と問いかけ、相応の覚悟を要求する。当のディレクター氏 やプロデューサー氏は、翌日には東京に戻って、交通事故死や原発の取材に明け暮れ、沖縄のことなどすっかり忘れてしまうのに。観光客の足は遠のき、「沖縄のこころ」はいつまでも見えてこないままに終わる。

2.「やまとのこころ」はどこにいった?

この番組に限らない。ほとんどのマスコミは「沖縄のこころ」の押し売りに徹していた。いや、「沖縄のこころ」を取り上げるのがダメだとはいわない。だが、「こころ」の実態に迫る報道が一切ないことは問われてしかるべきだ。原発に苦しむ「福島のこころ」や所得水準がいちばん低い「高知のこころ」とは誰もいわないのに、なぜ「沖縄のこころ」だけを理解しなければならないのか、誰も説得的な説明をしてくれない。「沖縄のこころ」があるなら、「大阪のこころ」や「東京のこころ」もあるはずだが、そんな話が出て来たことも一度もない。「薩摩による植民地化」「琉球処分」「沖縄戦」「米軍基地の過剰負担」という苦しみばかりだったから、沖縄は特別なのか?だったらその苦しみをできるだけ正確に立体化すればいいのだが、そうした記事や番組もほとんどない。

はっきりいえば、マスコミ報道は知念ウシさんの論法にほぼ等しい。「日本人は罪深い。おまえたちは断罪されるべきだ」とばかり本土のマスコミも「日本人」を叩く。マスコミは自分たちも知念ウシさんのいう 「日本人」であることすら忘れている。安保の問題にも所得格差の原因にも、マスコミが深く斬りこむことはない。「贖罪意識」を背景に「沖縄民族主義」の発する呪文を繰り返しなぞるだけだ。

沖縄戦は特別に悲惨だった。平和を愛した沖縄人は米軍だけではなく、日本の軍人にも殺された。広島・長崎の原爆や東京大空襲は軍国主義を支えた国民が責任をとらされたというだけの話だ。硫黄島は軍人軍属だけだから死んで当然だ。ロシアや中国に抑留され、零下20度のなか何年も凍土を掘り続けた元軍人や民間人の苦しみも沖縄に比べればとるにたらない。しかも今もなお沖縄には74%の米軍基地が集中している。土地を奪われ、墜落の危険性や騒音被害にさらされている沖縄は未曾有の苦しみに苛まれている。本土には、沖縄よりはるかに広い国土にわずか26%しか基地はない。被害も負担もごくわずかだ。特別に悲惨な歴史を経験し、今も特別に苦しんでいる沖縄に基地があることは全く許しがたい。とんでもない差別だ。日本人は沖縄のこころを理解して、今すぐ基地を持ち帰れ!

意図的に組み立てた表現だが、知念ウシさんの「沖縄被差別論」は、ぼくにはこんなふうに聞こえてしまう。

私事で恐縮だが、関東に生まれ育ったぼくの両親も戦争の時代は体験している。父は硫黄島で兄を失い、空襲で家も失った。母は小学生時代に戦闘機に機銃掃射されて逃げ回り、空襲で家とおじを失った。が、沖縄での被害に比べれば自分たちはまだマシだったと思っていた節はある。というのも、両親とも沖縄に対する贖罪の気持ちは強かったからだ。何度も沖縄旅行に誘われたが、「沖縄に顔向けできない」といつも断っていた。かなり高齢になってから両親は初めて沖縄を訪れたが、観光らしい観光はほとんどせず、慰霊碑と戦跡ばかりをめぐって線香をあげていた。沖縄での日々は寝付きも悪かったという。自宅には憔悴しきった顔で帰ってきた。ぼくの両親だけが特別だったわけではない。肉親や家・財産を戦争で奪われた世代は多かれ少なかれ沖縄に対する共感と贖罪の気持ちは持っていた。喩えれば、それは「やまとのこころ」である。 「沖縄のこころ」はこの「やまとのこころ」を知っているのだろうか?「沖縄のこころ」は「やまとのこころ」なんて価値がないと思っているのだろうか?

知念ウシさんと高橋哲哉さんの対談を批判する(2)
につづく

批評.COM  篠原章
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket