日本の政治を萎縮させる民進・共産連携 − 「護憲」対「改憲」という構図の嘘

参院選で、一人区32選挙区中沖縄を含む11選挙区で「野党統一候補」が議席を獲得しました。そして今また、都知事選で鳥越俊太郎候補が「野党統一候補」として出馬しています。 メディアではほとんど話題になりませんが、「野党統一」という言葉で思い出すのは、1960年代~970年代前半の「革新統一」候補です。おもに社会党と共産党が選挙で協力し(一部で民社党を含む)、横浜市(飛鳥田一雄)、東京都(美濃部亮吉)、大阪府(黒田了一)など全国各地で「革新自治体」を誕生させました。沖縄県の屋良朝苗・平良幸市時代の沖縄県もその流れをくむといわれています。一方、国政レベル(衆院・参院)の選挙では、社共の大規模な「共闘」は実現しませんでした。その意味で、先の参院選での「野党統一候補」の議席獲得は、野党間協力の歴史的な「先例」になるかもしれません(ただし、後述のように「悪しき先例」になると思います)。

かつて「革新統一」は、「反安保=日米同盟反対」「護憲」「福祉政策最優先」の3条件を満たすことが、主たる協力の条件でした。社共間で選挙協力するためのある種の「政策協定」です。もっとも、自治体レベルの選挙における「反安保」や「護憲」といった公約は、地域住民の暮らしにほとんど無縁だったのですが、スローガンとして意義があるかのように受けとめられていました。

今回、民進、共産、社民、生活に共有されているのは、「護憲」「福祉政策最優先」です。ベトナム戦争中の60年代~70年代前半だからこそ説得力を持った「反米」(安保反対・日米同盟反対)という旗は掲げられていません。政策の向こうにある目標は安倍政権打倒または自公政権打倒です。 都知事選の結果次第で(=鳥越候補の当選で)、こうした野党連携にはずみがつくと観測されていますが、過去の経験、すなわちその後の「革新統一」の歩みを見るかぎり、この観測が正しいとはとてもいえません。

革新統一または革新自治体は、70年代後半に破綻しました。その背景には、部落解放同盟(部解同)への対応をめぐる社共対立があったといわれています。部解同を批判する共産党と部解同を擁護する社会党のあいだに亀裂が広がり、社共共闘は破綻したという見方です。が、おそらく原因はそれだけではありません。右肩上がりの日本経済がオイル・ショックを機に停滞局面に入り、ボーダーレスで自由化された成熟経済への道を歩み始めると、日米同盟が国民から再評価され、「反安保」がスローガンとしての説得力を失ったことが、社共共闘を破綻させた大きな要因だと思います。同時に、自民党が党是である「改憲」という旗印を曖昧にしたことも革新統一の行く手を阻みました。

もう一つの大きな要因は、自民党が、「革新」のお株だった「福祉」を充実させたことです。社共の福祉政策を先取りするような制度が、70年代後半から80年代にかけて次々に整備されるようになりました。「福祉は社会党・共産党」という印象は薄れ、政権与党が福祉国家への道を切り拓いていきました。ただし、その過程で巨額の国債が発行され、日本は超赤字国家に転落しますが、財政赤字をも凌駕する日本経済の地力(資本形成力や技術力)が、国債の持つ負の効果をカバーしたことで、どうにかこうにかバランスを保ちました。

つまり、社共(革新統一)が共有する「反安保=日米同盟反対」「護憲」「福祉政策最優先」という三つの政策が、国際情勢の変化と自民党側に対応により、ことごとく意義を失ってしまったことが、社共共闘の破綻をもたらしたのです。

その後、社会党は社共路線から社公民路線に転じて日米同盟を事実上認めながら旧自民党出身者と手を組み、1993年には非自民連立政権(細川護煕内閣)を成立させることに成功しました。さらに94年には、自民党、さきがけと連立し、自社さ連立政権が成立しました。首相として指名されたのは村山富市社会党委員長でした(社会党の首相は47年ぶり)。村山首相退任後に成立した橋本龍太郎政権(96年)も、当初は自社さの連立で支えられましたが、社会党は社会民主党と改称後に連立から離れ、まもなく有力議員多数が民主党に合流してジリ貧への道を歩み始めました。「革新統一」の歩みは、そっくりそのまま社会党凋落の歩みに引き継がれたといってもよいでしょう。

民主党は「自民党の分裂」「社会党(社民党)の分裂」から生まれた政党です。そこに、より右派的な立場を標榜していた維新の会が合流して、民進党が成立しました。両党間で名目的な政策調整は行われていますが、かつての自民党よりもレンジの広い、実に多様な政治的立場の人々を抱えています。

もっとも気になる安保政策についていえば、非武装中立派、反米護憲派、親米護憲派、改憲派が並存しています。これでは党内の合意を形成するだけでも難行ですが、反米護憲を掲げる共産党との政策調整が可能だと考える人はほとんどいません。たとえ安倍政権を倒すことができたとしても、共産党との連立政権を樹立することはほぼ不可能です。改憲派、親米派が多数存在する民進党が、反米護憲の共産党と安保観を共有できるとはとても思えません。結果的に党内対立が激化し、再度自公政権の成立を許すだけでしょう。選挙に勝てたとしても、民進党政権は生まれないのです。安倍政権打倒までのシナリオは描けても、それ以上のビジョンを描けないのが、現在の民共連携・野党協力の実態です。

今国民のあいだで注目されている最大の政策課題は「改憲」です。平和安全保障法制を成立させた自公政権の手法は「解釈改憲」(集団的自衛権を容認するための憲法解釈)に依存していました。要するに「改憲」には踏み切らなかったということです。他方、民進党・共産党の立場は、大雑把にいって「解釈護憲」です。憲法を条文通りに読めば自衛隊が違憲であることに疑いの余地はありませんが、彼らはその自衛隊を合憲とする強引な憲法解釈に依存しているのです。要するに、両者とも「憲法解釈」によって改憲を避けているのです。

本来なら、両者とも「改憲」を訴えるべきなのです。ところが、日本の政党および政治家の大半が(自民党すらも)、戦後の主要な政治シーンにおいて「平和憲法は財産だ」といった主張を繰り返してきたために、国民の多くが「憲法は変えてはいけないもの」と信じています。論理的に考えればほぼすべての政治家が「改憲派」であるはずなのに、国民の大多数が「護憲派」になってしまっているというねじれた現実。戦後日本の政治空間は、そのねじれあるいは曖昧さのなかに埋没しているのです。もっといえば、日本人は長いことその状態を心地よく感じてきたのです。この点を正しく認識しない限り、次のステップに進むことは困難です。争点は「改憲」なのではなく、「戦後日本の政治空間の歪みをいかに正すか」なのですが、多くの政治家はそのことをわかっていて口にしません。

こうした観点から見ると、70年代に破綻した「革新統一」のレベルにも及ばない「民共連携」など、日本の政治を前に進める行動などではけっしてなく、むしろ萎縮させ、後退させる愚行です。 まして目下問題になっているのは、都知事選です。都知事は強大な権限を持つとはいえ、それはあくまでも東京都の境界内でのことです。都知事といえども一首長にすぎません。国政に物申すことはできても、国政は簡単に動かないのです。あの石原慎太郎知事ですら、そうした見識は具えていました。都知事なら国政を動かせると思っているのなら、それは大いなる誤解です。

したがって、たとえ「鳥越俊太郎知事」が誕生して、民共連携にはずみがついたとしても、自公政権は「恐るるに足らず」という姿勢で臨むことでしょう。知事が「常識人」であれば、都政でできることは限られています。沖縄県の翁長雄志知事のように、あたかも一国の国王でもあるかのようにふるまうことはできません。逆にいえば、一般的な地方自治の枠を大きくはみ出そうとしている翁長知事のふるまいのほうが異例なのです。おそらく都民の大多数は、都知事のそのようなふるまいを望みません。

批評.COM  篠原章
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket