やちむん・寿 / りんけんバンドJr. / クラブ・シャングリラ(3)

1999年3月22日(月) 山原巡り

午前中は沖縄県庁へ行ってちょっとした面談調査。昼前にはフリーになったので、そのまま山原(やんばる)行きを決行。いつもなら本部山原なのだが、久々に大宜味~辺土名(へんとな)~奥~東村~名護と廻ることに決めた。

さすが公共事業の島である。国道58号の名護市街を過ぎたあたりから、いやというほどの道路工事。渋滞というほどのことはなかったが、片側一車線通行の多さにイライラも募る。確かに道路はよくなりつつある。以前は大宜味を過ぎたあたりから「あっ海に落っこちる」という不安を感じながらのドライブだったが、そんな冒険も過去のことになりつつある。だが、なんだかつまらない。あの危なっかしいドライブこそ山原の醍醐味だったのになあ。

大宜味村喜如嘉を通るときは少しばかり逡巡。ここを曲がってまっすぐ行けば平良商店があるなと思い、怖いもの見たさでいったんは平良商店への筋をたどったが、彼方に花束が置いてある一角が視野に入ったとたん Uターンして国道にもどってしまった。やはり“あの事件”には関わるべきではない。

奥間で脇道にそれて、沖縄最低の食事を出して平気でいる JALの“高級リゾート”ヴィラオクマを左手に見ながら、サトウキビ畑を辺土名方向へ。途中うっかり道を間違えてヴィラオクマと隣り合わせの米軍専用ビー チに入り込む。こんなうすら寒い時期に奥間で泳ぐ兵隊やその家族もほとんどいないだろうに、どうしていつも柵で囲って門番を置いているんでしょうね。ヴィラオクマとの間の仕切も形骸化しているし、専用ビーチとして抱えこむ意味はもうほとんどないはずだけど、米軍は未だにここを手放さない。あの小汚い米兵用バンガローを使っていちどはビーチパーティしてみたい。

辺土名港近くに車を置いて町をぶらつく。表札を見るのが目的。昨日林助が言っていたとおりたしかにこの辺りはヤマトの名字が多い。名城とか比嘉とかいう沖縄固有の名字に混じって、 原とか平井とか高田という表札、いかにも“ヤマト”である。山原でも北の方は島づたいにやってきたヤマトンチュが多いという林助説はどうやら正しそうだ。

港近くに食堂二軒。さちこ食堂と波止場食堂があって隣り合わせ。客が入っているのは波止場食堂のほう。テラス(といっても物干し台みたいなもんだが)で食べるので気持ちよさそうだ。が、哀愁があるのはやはりさちこ食堂。もう典型的な沖縄風、今にもつぶれそうな瓦屋根の狭苦しい民家で営業。おばあのさち子さんが健在で、よたよたしながらそばを運んでくれる。つくっているのはどうやら娘さんらしい。450円の沖縄そば、麺はつるつるタイプ。鰹だしがきいていてさっぱり系の出汁。うまい!!というほどではないが、 「ああ美味しかった、お腹いっぱい」てな感じで満足。店の雰囲気に敬意を表して75点はあげなくちゃね。2年ほど前、俵孝太郎・萌子夫妻のお嬢さんでTBSのプロデューサーに嫁いだエッセイストで翻訳家の青木葉協子さんがヴィラオクマに滞在したとき、「あそこは史上最低に食事がまずいリゾートだから辺土名の定食屋で食事した方が絶対にいいよ」と事前にアドバイスしたものの、ぼくは辺土名の定食屋で食事した経験がなかった。帰ってきた協子さんは「さちこ食堂がよかった」と教えてくれたが、たしかにヴィラオクマの数百倍美味しいといえる。メニューがそばと野菜炒めとゴーヤーチャンプルーぐらいしかないのがちょっと寂しいが。そういや与那原恵もさちこ食堂の話をしていたような気がする。

辺土名から奥へ。相変わらず「カメに注意」の看板多数。 車につぶされたカメは見たことはあるが、生きているカメを路上で発見したことは未だになし。今回もカメとの遭遇はできなかった。沖縄最古の共同店といわれる“奥共同店”に立ち寄る。58号線の沖縄における終点(58号線自体は鹿児島県にもある)なんだから、もっと商売っ気を出していろいろ土産物を並べてもいいはずだが、昔と同じようにお茶ぐらいしかない。ま、名産品なんてそんなに簡単にできるものではないのだが、カメ饅頭とかカメの縫いぐるみがあっても可 笑しくない土地柄である。ここでも表札を見て回るが、やはり沖縄姓に混じってヤマト姓も少なくない。「ウチナーンチュは純粋種」みたいなことをいう人は多いが、どうもそれは間違いのようだ。なんだかんだいっても混成種なんである。こんな大事なことを忘れていいのかと誰かに問いかけたくなった。為朝に擬せられることもある尚王朝の開祖・護佐丸だって本島の北にある伊是名島出身、ということはヤマトからの流れてきた者であるという可能性は否定できない。「ヤマ トーンチュが沖縄の支配者だった」などと嘯きたいのではない。われわれは混成混血の末に歴史を刻んできたのである。純粋などということは沖縄でもヤマトでもありえないのだ。そうした認識の上で沖縄らしさ、沖縄の風土を語ればいいのである。

安波へと向かった。茅葺き屋根の集落があることで有名な場所である。古い琉球は茅葺きで瓦葺きではないといわれるが、その証拠がここに残っているというわけだ。真偽のほどは知らないが、茅葺きはヤマトのカルチャーであるかもしれない。ここでも表札にはヤマト姓が多い。いずれにせよ山原がヤマトから流れてきた人々の住み着いた場所であるというのはまず間違いないだろう。それにしても道路が整備される以前の、船しかコミュニケーション手段のなかった時代の山原・国頭はどんな場所だったのだろう。ここは今でもNHKしか電波が届かない、孤島のような一帯である。

国頭村から東村に入る。慶佐次 (けさし)のヒルギは以前よりもよく保護されているようだ。美しい。本島では数少ないマングローブの自生する場所である。慶佐次を過ぎて名護に向かって深い森のあいだに引かれた道路をしばらく走ると左手に新しいリゾート、カヌチャベイがあった。大浦湾に面した広大な土地を開発したリゾートである。お茶でも飲んで休憩としゃれこみたかったが、なんと広すぎて始末に負えない。施設が点在しているのに自動車の乗り入れを制限しているから、移動には巡回バスかレンタルカートを使うことになる。バスかカートに乗らなければお茶の飲めるレストランにたどりつけないのだ。レンタルカートを借りるには数千円かかるので巡回バスを待つほかなかった が、いくら待ってもバスはやってこない。歩くことも可能だが、急坂を10分以上歩かなければならないというので、結局ティーブレイクは断念して名護市内へと向かった(カヌチャベイには「周富徳の中華料理」もあったけど、ほんとうに美味しいのかなあ)。

美しいが少しばかり暗い印象を与える東海岸をたどって名護市内に着いたのは夜7時半。A&Wで休憩してコザには夜9時頃の帰還となった。10時間近くキャロルに乗り続けるのはけっこう辛かった。軽自動車はたしかに使い回しはよいが、ステアリングが不安定なので、やはり長時間のドライブは疲れる。ひとつ利口になった。

1999年3月23日(火) クラブ・シャングリラ

さすがに連日の“観光”に疲れたので一日デイゴホテルでゆっくりと過ごす。コザの町もぶらぶらしたが商店街はますます寂れていた。大丈夫かなと思う。笑築過激団の玉城満が館長を務める小劇場・アシビナーも頑張ってはいるようだが、本島の他の地域から遊びに来る人も含めて、観光客にとっての魅力が乏しい街になりつつある。チャンプルーだけがキーワードではもは や生き残れない。北谷のような、ちょっと薄っぺらいリゾートっぽさがなければ集客はできない時代なのだ。基地をベースとしたサービス業だけに生きてきた街 の宿命といえばそれまでだが、この街を再興する方策を急いで考えなければ、まもなく廃墟になる。

夕方金武(きん)に向かった。金武は極東最大の米軍海兵隊基地、キャンプ・ハンセンの城下町である。ここには幾たびとなく足を運んだが、コザを凌駕する廃墟ぶりがいい。かつてニューコザといわれたコザの西方にある八重島地区はもはや廃墟としての痕跡も失ってしまったが、金武もまもなく八重島化するだろう。が、今でもわずかながら海兵隊員の遊ぶ場所は残っている。ロックンロール・クラブ2~3軒とフィリピン・バーが10軒程度。かつて何軒かあったフィリピーナ専用ホテルは現在はホテル東京だけのようだ。

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社交街東側の崖っぷちにクラブ・シャングリラという廃墟 然とした凄みのある建物があるのは前から知っていた。とおの昔に営業を停止したクラブだと思っていたが、帰りがけに気になって近くまで行ってみると、なんと妖しげなネオンが瞬き、店内からラップ・ミュージックが聞こえてくるではないか。「やったあ」と感激、勇気を出して店内に通ずる階段を降りてみると(この手の店にはいるのはただでさえ勇気がいるのだが、シャングリラはまた特別にA-SIGNっぽいところなので、マゾヒズムに近い勇気がないと入れない。ざまあみろ)、なかには数人のフィリピーナ。着飾るわけでもないジーンズ姿がかえって印象的で、話しかけてみると毎日営業しているとの返答。が、りんけんバ ンド・ジュニアのショーを撮影するために9時には北谷に行かなければならない。で、今回は残念ながら“取材”を断念せざるをえなかった。次回のお楽しみで ある。

9時過ぎ、北谷のカラハーイへ。事務所で林賢と話していると、沖縄だけでなく東京や名古屋にもミリタリー・グッズやアジア・中南米の民芸品を扱う店舗を展開するアメリカ屋の社長・池原眞一郎がやってきた。3人でカラハーイやアメリカ屋の事業展開の今後やコザの街の復興策などについてけっこうまじめに語り合う。世界中に仕入れに行く池原さんだが、何といっても凄いのはどこに行くのもTシャツにゴム草履という正統派ウチナーンチュの出で立ちだということである。ウチナーンチュの知り合いは多いが、暖かい沖縄とはいえ真冬でもゴム草履で通すのはこの池原さんと林賢、そして名嘉睦稔ぐらいしか知らない。現代沖縄を代表する3人である。

ホテルに帰ったのは12時半。マッサージを頼むとSさんという50代半ばぐらいの女性。ツボを得たやさしいマッサージ。ヤマト者であるらしいが、多くは語らない。いろいろあったんだろうなと邪推したかったが、 それは越権だと思い直してただただ身を委ねた。10分ほど余分にサービスしてくれたが料金はわずか3,000円。安すぎて申し訳ないほど。ほどよい疲労感だ けが残って久々に深い眠りについた。

 

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批評.COM  篠原章
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