「沖縄イメージ」と「沖縄アイデンティティ」 (2)
「沖縄イメージ」と「沖縄アイデンティティ」 (1)からつづき
3.「沖縄アイデンティティ」の所在
普天間基地移設問題で揺れ動く中、極めて政治的な判断としてのG8のサミット会議が沖縄で開催された2000年。翌年には、NHKの朝の連続ドラマ「ちゅらさん」が放映される。NHKが日本国内での沖縄イメージ形成に果たす役割はきわめて大きいのであるが、この時まさに全国的な「沖縄ブーム」が起こったといえる。
これらの動きはざっくりいうと沖縄の生活文化の物産化(「消費される沖縄イメージ」というやつだ)なのだが、一方でネット社会の発展とともに、沖縄からのサブカルチャー的情報発信が出来るようになったともいえるだろう。イメージが共有されることによって、消費が拡大するのだ。そしてサブカルチャー的な脈絡でいうと、沖縄は日本の一つのエリアとして定着しているからこそ成立したわけだ。
癒やし、長寿といったウエルネスな沖縄イメージが消費されるようになったのと背中合わせに、基地問題では「現実的な対応」を迫られる厳しい政治状況の中で、沖縄内部には閉塞感が漂っていた。
(新城和博「 復帰40年の幻想と現実を映す沖縄イメージと地元雑誌の変遷」、p.40)
ここで新城さんがいいたいのは、流布された沖縄イメージ、あるいは消費されることを宿命づけられた沖縄イメージは本当の沖縄ではない、ということなのだろうか。そこのところが今ひとつ判然としないのだが、もし「沖縄イメージ≠本当の沖縄」ということであれば、本当の沖縄とはいったい何なのだろうか。他者の造りあげたイメージとは違う、沖縄の真の姿とい う意味だろうか※。
※ 本稿脱稿後、新城さん本人に確認したが、必ずしも沖縄の真の姿、沖縄アイデンティティを意識して書いた論考ではないということだった。ただし、新城さんの持論を棚上げするとしても、「沖縄アイデンティティ の追求」を訴える人たちが少なからずいることはたしかだ。ここでの記述はそういう人たちに向けて書かれたものと理解していただきたい。
もしそうだとすれば、「沖縄とは何か」ということ、つまり、ウチナーンチュとしての共通のアイデンティティが追求の対象になる。吉本隆明さんふうにいえば、文字どおり共同幻想だ。共同幻想としての沖縄アイ デンティティである。それは先に触れた個人レベルでのアイデンティティ探しとはちょっと違う。より難しい問題を孕んでいる。
自分の身に引き寄せてみると、ぼくにも新城さんと同じように「日本とは何か」を考えることはある。ぼくにとって、それはきわめて文化的な問題意識で、アメリカやヨーロッパのカルチャーが日本の支配的なカルチャーになっているなかで、「真の日本文化とは何か」を発見する作業である。
より具体的にいえば、「日本のロックとは何か」という問題意識が、ぼくにとってもっとも重要なものの一つだ。
ロックという外来文化(英米ポップカルチャー)が、日本で消化され、日本のロックと呼ばれるようになった。それは独自の音楽的なスタイルを伴うものだが、主として日本語で歌われることによって初めて「日本のロック」という呼称を与えられた。だが、これは外形的な基準にすぎない。「ロックという音楽的スタイル+日本語」という組み合わせのポップミュージック なら、1950年代半ばから存在する。初期のロカビリーがそれだ。だが、人はそれを「日本のロック」とは呼ばない。「自作自演」がロックの契機だというなら、その時期は60年代になる。加山雄三がその代表選手だ。だが、誰も加山雄三をロック・ミュージシャンとは呼ばない。いやいやそうじゃない。いわゆる 「ニューロック」以降のロックがここでいう「ロック」なのだ。だからグループサウンズも一部を除いてロックじゃない。日本のロックの出発点はオリジナリティからいってもはっぴいえんどだ。では、GS時代のゴールデン・カップスやスパイダースはロックと呼ばないのか?どう考えてもジャックスが起点だろう。それじゃ、岡林信康のロック的サウンドはどうなるんだ。あれだって自作自演じゃないか。そもそもニューロック以降がロックだなんて誰が決めた?フラワー・ムーヴメント以降と言い直すべきじゃないか?そうか?フラワー・ムーヴメント以降がロック?それはどうやって検証する?いや、英米のロック史に類推して日本のロック史を語るなんてバカげてる。ロックという括りをやめてやはりポップにすべきだ。ポップの革新の一つのスタイルがロックにすぎない。そもそも日本固有のポップなんてありなのか。鹿鳴館以降ほとんどすべて外来じゃないか。外来だとすれば、オリジナリティって何なんだ。外来文化という脈絡だと日本とか日本文化の固有性ってどうやって捉えるんだ。そもそも日本人のアイデンティティとか日本文化のアイデンティティとか論ずる価値はあるのか…。議論は際限なく続く。
この議論にこれ以上拘泥するのはやめておく。すでにこの段階で「“ロックとは何か”みたいなくだらないテーマと、ウチナーンチュのアイデンティティや沖縄のアイデンティティを問う切実なテーマを同一の土俵で議論するのは、とんでもない暴論だ。不謹慎きわまりない」という非難がぼくに向けられることは明らかだからだ。が、果たしてこのような非難はいったい正当なものなのだろうか?
結論からいおう。「ロックとは何か」「共同幻想としてのアイデンティティとは何か」は問題意識としてほとんど変わりはない。「共同幻想としてのアイデンティティ」が、歴史的に自分たちの(民族の)出自や文化的なルーツがどこにあるのかを定位する作業であるとすれば、それを希求する試行錯誤はたしかに重要ではある。現代を生きるぼくたちの本来的なポジションを教えてくれるからだ。それは母胎への回帰を錯覚させてくれる。地に足がついた気分にしてくれる。ときとして勇気も与えてくれる。だが、その逆もある。調べてみたら根っ子はどこにもなかったということもありうるだろう。神秘のヴェールに包まれていたほうがマシだったということもありうるだろう。いずれにせよ、出自やルーツや共同幻想としてのアイデンティティの確定は、ぼくたちが生きるための必要条件ではない。ロックとは何かを知ることが、ぼくたちが生きるための必要条件ではないのとまったく同じである。知りたい、突き止めたいという本能的な衝動は否定しないが、「知ったからって何なのさ?」といわれても合理的に反論できる気がしない。出自、ルーツ、共同幻想としてのアイデンティティといったものは、ぼくらが生きることで紡がれる物語とって重要なエピソードだが、物語の結末とはなりえない。たとえ、共同幻想としてのアイデンティティが見つかったとしても、今を生きるぼくらにとって、それがもらたす意味は思ったより大きくない。反対に、アイデンティティという謎の解明があらたなる謎を呼びこんでしまう可能性のほうが高い。まさに『2001年宇宙の旅』の世界だ。物語は再びループ状に展開する。
真実の沖縄、沖縄アイデンティティの希求。いろいろな装飾をはぎ取っていけば、共同幻想としてのアイデンティティの問題は、究極的にはきわめてパーソナルなアイデンティティの問題へと分解されてしまうのではないか。本来のアイデンティティとは、個人レベルでしか成立しないのではないか。
だいぶ前のことだが、鈴木慶一さんと話したとき、慶一さんはこういった。
「究極のエスニック・ミュージックは究極の個人音楽である」
名言である。個人の世界こそ究極のエスノ。一人一民族。最終的にはアイデンティティはパーソナルな問題へと解体される。ちょっと嫌らしい言葉でいえば「自分探しの旅」がまさにアイデンティティの追求である。それは図らずも各人の人生そのものを表している。生きることはアイデンティティを探す旅なのだ。
これに対して、共同幻想的なアイデンティティは神話の領域に属している。各人の神話が重層化したものだ。それに実態があるかのように見えるのは、神話を幾重にも編みこんだ支配装置を生みだし、これを操作する人びとが存在するからにほかならない。沖縄アイデンティティとは神話としての沖縄、沖縄の支配装置の別名である。
4.ビジネスモデルとしての「沖縄イメージ」
「沖縄イメージ」という言葉が出てくるようになったのは90年代後半なのだが、この「沖縄イメージ」の変化は、沖縄と日本との関係を考えるにあたって重要かもしれない。両者の狭間に横たわる、溝の深さであり、また幻想の共有でもある「沖縄イメージ」を“復帰”を起点にして、年代ごとに追い求めていくことで、現在の沖縄が立たされている場所も見えてくるかもしれない。
(新城和博「 復帰40年の幻想と現実を映す沖縄イメージと地元雑誌の変遷」、p.37)
新城さんは「沖縄イメージ」を文化の領域の問題と考えているのか、政治の問題と考えていいるのか判然としない。だが、新城さんが指摘する「消費される沖縄イメージ」という議論を手がかりに捉え直すと、「沖縄イメージ」はマーケティングの問題、ビジネスの問題、経済の問題に還元される。実は文化の問題でも歴史の問題でもない。ビジネス上の必要に煽られて生みだされたイメージである。ここでいうビジネスとは、何もJAL、ANA、JTB、國場組、大米建設など特定企業のビジネスのことを指しているわけではない。沖縄に関わるお金の動きを指している。沖縄に関して特定のイメージを造りあげることで何らかの利得を得る可能性のあるすべての集団や個人のことだ。その中には、政府機関、自治体、労働組合、NHKや朝日新聞などの大手メディアも含まれる。平たいことばでいえば、「沖縄って商売になる」と思っているすべての集団と個人である。 選ばれたプロデューサがいるわけではないが、メディアが先導し、個人も企業も役所も同一の方向に動く。沖縄イメージの方向に「お金」は動いていく。 その意図が善良なものであろうが、邪悪なものであろうが、倫理的・道徳的な立場は、この場合、まったく関係ない。
イメージが形成される段階では、ある種の直観が働いている。「沖縄はおもしろい」「沖縄は楽しい」というヤツだ。いってみれば「異文化観光イメージ」である。旅行者としての視点である。文化的な要素はあるが、文化そのものではない。つまり、鍛えられ、練られたものではない。新城さんいうところの、ポップな感覚で生みだされた一連のイメージである。それがポップに消費されるのも当然の成り行きである。飽きられれば、市場から後退していくのも道理となる。
「沖縄イメージはお金の話じゃない」という批判もあるだろう。「それでも地球は回っている」じゃないが、やはり最終的にはお金の話である。そこに沖縄の全体像は存在しないし、現実の沖縄とも乖離している。ぼくはそれが「悪い」といっているわけではない。先にも書いたように、経済行為に正邪善悪の判定はつけられない。お金の話は重要だ。それによって、ここ20年で300万人だった観光客が600万人まで増えたのだから、沖縄をめぐる経済的利得とチャンスは明らかに拡大した。そのイメージが真性でピュアなものであるかどうかはどうでもいい話だ。沖縄の実態に近いか遠いかもどうでもいい話だ。
新城さんのいう「沖縄イメージ」の移り変わりは、沖縄をめぐるビジネスモデルの変遷を示すものだとぼくは考えている。消費者が「沖縄は素晴らしい」と思い、それなりのお金を出す、というのは。真っ当な経済行為だ。企業や個人が沖縄の儲けることだって、それが真っ当な経済行為である限り、誰にも責められない※。
※ ここではあまり触れるつもりはないが、沖縄には「真っ当でない経済行為」が跋扈している。税や公債を原資としたお金の循環がそれにあたる。沖縄イメージを進んで消費する人は、通常、自分の財布をいためる。お金と引き換えに何らかの満足を得ているから、それは真っ当な経済行為である。ところが公的資金の場合、日本国民全体の財布がいたんでいる。国民が出したくもないお金を、政府や自治体が「沖縄イメージ」のために費消しているとすれば、それは真っ当な経済行為とは呼べない。
あわせてどうぞ
「沖縄イメージ」と「沖縄アイデンティティ」 (1)
「沖縄イメージ」と「沖縄アイデンティティ」 (3)
「沖縄イメージ」と「沖縄アイデンティティ」 補説