「沖縄イメージ」と「沖縄アイデンティティ」 (3)
「沖縄イメージ」と「沖縄アイデンティティ」 (2) からつづき
5.「沖縄アイデンティティ」など不要だ
新城さん自身はあまり問題視していないようだが、最近の沖縄から発信される論調の中には、<「沖縄イメージ」と「沖縄アイデンティティ」のあいだで引き裂かれる沖縄>という問題提起が見受けられるようになっている。もっとはっきりいえば「沖縄アイデンティティの確立」を訴える主張である。
ここで、「沖縄イメージ」と「沖縄アイデンティティ」という語法を使って、歴史的な課題にもアプローチしておきたい。
薩摩侵攻以来、「中国であって中国ではない、日本であって日本ではない」という琉球(沖縄)イメージを琉球の人たちは甘受してきた。というより、幕府によって政治的に押しつけられたその琉球イメージを、王府の指導者たち(支配階層)は、進んで受け入れてきた。ときにはそれを大いに活用することもあった。この時期の琉球イメージは「琉球が生きるため」の手段だった。大国と大国の狭間で小国・琉球がどうすれば生き残れるか?ときに日本にすり寄り、ときに中国にすり寄ること。それが彼らの出した答えだった。このプロセスが、幕府・薩摩のコントロールの下で行われていたこともまた事実だが、中国もまたその実態を承知し、黙認していた。
「中国であって中国でない、日本であって日本でない」琉球イメージも、今ふうにいえばビジネスモデルだ。中国使節を迎えて那覇や首里で行われる華やかな宴はまさにこのビジネスモデルに組み込まれた一大イベントだった。琉球を主役としたこの「ないない幻想型ビジネスモデル」に、薩摩も中国も進んで参加し、それなりの利を得ていた。三者が利を得る限り、この「ないない体制」は安定した。これもまた、歴史的な脚色を薄めていけば、お金や既得権、つまり経済的な利得の話に行き着いてしまうのだ。
この時代に見る共同幻想としての「琉球アイデンティティ」は、上記の「琉球イメージ」のあり方と直結するものだったのではないか、とぼくは思っている。「中国でも日本でもない」という否定形型アイデンティティである。消去法型アイデンティティといったほうがいいかもしれない。中国でも日本でもない状態に琉球のアイデンティティがあった。「ない」と「ない」の狭間に琉球の共同幻想のコアな部分が埋めこまれていた。それこそが「琉球人とは何か」という問いかけ、あるいは「沖縄人とは何か」という問いかけの基底にあるのかもしれない。
薩摩侵攻以後の琉球王府の主導権争いの歴史(支配をめぐる争闘の歴史)には、つねに「薩摩派」と「中国派」の相克がつきものだった。単純に「利権」をめぐる争いだったとはいいにくいが、少なくとも「権威」「権力」は絡んでいただろう。「沖縄インディーズで行こうぜ!」とか「ウチナー型グローバリズムで行こうぜ!」とか主張した士族や高官もいたかもしれないと思うと、ちょっとしたロマンをかきたてられるが、残念ながらその証拠はなさそうだ。完全なる封建体制なのだから、その体制を維持するために中国の力を借りたほうが得策か、薩摩(幕府)の力を借りたほうが得策かという二択だったのだろう。結果として両者の力が均衡するところで、琉球史は展開したとみるのがいちばん順当だ。
「大国の狭間でしたたかに生きてきた琉球」というイメージなら聞こえはいいのだが、自立への明確なコンセプトを欠いていたと見ることも出来る。要するに琉球のアイデンティティは、「中国でもない」「日本でもない」という消去法的にしか存在しなかったということだ。そのおかげで「文化の独自性が育まれた」と唱える人もいるが、岡本太郎さんが指摘したように、「組踊り」以外にアーティスティックで創造的なものはなかったのかもしれない。ひょっとすると、エンターテインメントとの分野での独自性は発揮されていたのではないかという気がするが、ぼくもまだそこまで調べきれていない。中国を差し引き、日本を差し引いた琉球にいったい何が残されていたのだろうか?『おもろさうし』を隅々まで読んでもその姿は浮かんでこない。率直に言ってぼくは何もなかったのではないかと思う。
実のところ、当時のヤマトにも共同幻想としてのアイデンティティなんてなかったんじゃないか、とぼくは思っている。あったとすれば、支配層が半ば「偽造」したアイデンティティのようなものだろう。それはおそらく、政治的なツールとして用いられていたのだろう。大部分の日本住民(「国民」と言って良いかどうかもわからないので「住民」にしておく)にとっては、ほとんど無縁のものだったのではないか。地域ごとに存在する大名やその配下の侍たち、あるいは寺僧や公家などが、支配者として君臨しているだけで、村単位の帰属確認(神事・仏事)以上の、共同幻想としての地域的アイデンティティなんて事実上存在しなかったにちがいない。
「沖縄アイデンティティの確立」という問題提起も、こうした歴史的な検証の延長上にあるのではないか、とぼくは考えている。もちろん、封建制が崩れ、しだいに近代的な民主制に移行するに伴って、支配装置の枠組み・構造やその存立基盤は変化してきた。国家のシステムも幕藩体制〜天皇中心主義〜国民主権という変遷を経ただけでなく、国家間の関係も大きく転換してきた。だが、共同幻想としてのアイデンティティに対する歴史的評価は、こうした諸要素の変化を前提にしても、大きく変わることはないと思う。
はっきりいおう。「沖縄アイデンティティ」など存在しないのである。いや、正確には現在も過去と同じように、「支配装置」としての沖縄アイデンティティしか存在しないということだ。県民の心をひとつにするような「沖縄という実体(アイデンティティ)」などぼくはあり得ないと思っている。少なくとも、沖縄アイデンティティを自覚しながら暮らしている県民が多数派であるとはとても思えない。「沖縄アイデンティティがなければ生きていけない。おれの人生は暗い」と考えている人がどれほどいるのか。
「いやいや、オスプレイ反対で示された11万人の志こそ沖縄アイデンティティの証明だ」という反論が返ってくるかもしれない。そういう問いかけをする人には、「本気であの集会がアイデンティティの存在証明だと思っているのか」と問い返したい。「沖縄独立こそアイデンティティ確立への道だ」という主張もあり得るだろう。そういう主張には「では何のためにアイデンティティを確立する必要があるのか」と問い返したい。「沖縄ナショナリズムに基づく新しい国家システムの確立が不可欠なのか」と問い返したい。沖縄アイデンティティ(あるいは独立)は生きる上で必須のものだろうか。もしアイデンティティが不可欠なものだとすれば、日本アイデンティティ、フィリピン・アイデンティティ、ケニア・アイデンティティといった国家ごとのアイデンティティが求められるのだろうか。
「沖縄アイデンティティ」がもしパーソナルなものなら、それはそれでいいだろう。だが、ぼくには共同幻想としてのアイデンティティは不要だと思える。それよりも、民主主義に対する理解と認識を深め、経済政策や所得分配のあり方を問い直すといったような近代政治制度・社会経済制度(の理念と実態)の点検作業のほうがはるかに重要だ。共同幻想としてのアイデンティティ探し、あるいはその確立は(非民主的な)支配装置の強化につながる。偏狭なナショナリズムの勃興につながる。そんなアイデンティティならないほうがずっとマシだ※。
※今回は基地問題にはあえて触れない。だが、基地問題もアイデンティティの問題と同様のアプローチで考えることはできる。これについては、稿をあらためたい。
批評.COM開設2周年 2013年2月25日(2月26日改訂)
あわせてどうぞ
「沖縄イメージ」と「沖縄アイデンティティ」 (1)
「沖縄イメージ」と「沖縄アイデンティティ」 (2)
「沖縄イメージ」と「沖縄アイデンティティ」 補説