首里城の瓦の色はどちら?—赤瓦、それとも黒瓦?

焼失した首里城(1992年復元)については、火災の原因とともに、ネットなどでは「首里城は正しく復元されていたのか」という問題が提起されています。とりわけ「赤い首里城ではなく本当は黒い首里城だった」という城の色彩をめぐる問題提起が注目を集めているようです。

最初にまず結論をいうと、「赤い首里城は間違いだ」という主張の論拠に十分な正当性はないと考えられます。

1992年に復元された首里城を設計する段階で、歴史学者で元副知事の高良倉吉さんを中心に、「瓦や壁をどの色にするか」については十分な議論は尽くされたと認識しています。さまざまな資料を分析し、皆で議論した結果、朱や弁柄(ベンガラ)を多用した「赤い首里城」というコンセプトに基づき復元が行われたという経緯があるということです。

赤い首里城を批判する人々が公表された資料の一部を踏まえて発言していることも確かですが、この問題は、考古学、歴史学、土木建築技術史学、書誌学、古文書解析などきわめて幅広い分野にまたがるテーマですので、多面的・多角的に検証しないと誤った結論を導いてしまうおそれがあります。

首里城正殿夜景(2011年)

首里城正殿夜景(2011年)

首里城正殿については、記録上先日炎上した首里城が「5代目」となります。最新の発掘調査では7代目ともいわれていますが、うち2回については年代がまだ確定されておらず、文献上も確認されていません。また、15世紀初頭に統一王朝を打ち立てた第一尚氏が創建した初代首里城ができる前には、同地(とくに京の内地区)に中山王の居城としての首里城があったともいわれています。大幅な改築・改装、大規模修繕まで考慮すれば、「7代」でもまだ足りない可能性もあります。いずれにせよ、首里城正殿は繰り返し焼失・破損し、建て替えられてきたということは間違いのない事実です。とすると、「いつの時代の首里城正殿をモデルに復元するか」が復元に際しての最大の問題となります。

炎上した5代目首里城正殿は沖縄戦で焼失した4代目首里城正殿がモデルに選ばれています。1715年に落成したこの4代目も、1768年と1928年の2回の大修理を経験しています。実はこの4代目についても詳細な資料が少なく、1928年の大修理に尽力した鎌倉芳太郎や伊藤忠太の遺した記録、尚家に残された文書などを発掘・参照しながらあらためて「時代考証」し、ようやく5代目の復元に漕ぎ着けたものです。もっとも、3代目以前の首里城正殿となると、具体的な資料はほとんど存在していませんので、4代目を選んだことは正しい判断だと思います。

4代目首里城正殿は、少なくとも瓦については「赤瓦」と見てよい資料が残っています。「特定の土を使ったから赤瓦になった」という説もありますが、通説は「低い温度で焼いたから赤瓦になった」となっています。赤瓦が選ばれたのは、財政的な余裕のなかった王府が、瓦を焼くための薪を節約した結果だいわれています。赤い瓦のほうが低い温度で焼成できるからです。遺構からは赤瓦に加えて灰色の瓦も出土していますが、これは1712年に焼失した三代目首里城正殿ものだとも考えらますし、一部は琉球処分後から戦後にかけて建てられた建築物の瓦であるとも考えられます。なによりも出土品の量で見ると、赤瓦のほうが多いのです。

龍譚近くにあった銭蔵の遺構からも、最近になって瓦や漆の破片が発見されていますが、色味としては朱または弁柄が主体と類推され、首里城正殿内の内装が朱または弁柄でまとめられていたこととあわせて考えると、首里城正殿の木壁も朱または弁柄であると考えることは適切だと思います。

なお、沖縄戦以前の首里城の写真の分析から瓦を黒(あるいは黒碧)とする説もありますが、これはたんなる変色と見ることができるほか、写真上の色彩を分析する際の「手法」にも問題があると思います。結論的にいえば、古文書あるいは出土品を参照しながら1715年の4代目首里城正殿をモデルに選んで復元すると、「赤瓦」を使うのは妥当な判断だったと思われます。

壁の漆塗りについても、1768年の大修理の際に使われた建築資材や寸法などを記した文書から類推するほかないようですが、古文書や出土品から判断するに、「木材に朱の漆を塗り重ねた」あるいは「木材に黒い漆を塗り、さらに水銀を用いた朱色の塗料を厚塗りした」とするのが適切ではないかと考えられます。

繰り返しになりますが、1715年の首里城正殿をモデルと決めて復元した以上、瓦と外壁が朱あるいは弁柄に落ち着くのは合理的な判断だと思います。「黒い首里城だった」という説が誤っているとはいいませんが、この所説が当てはまるのは、4代目とは異なる時代の正殿をモデルとした場合になると思われます。焼失した5代目正殿は、1715年の4代目をモデルとした綿密な時代考証に基づき、設計グループや復元グループ全体で討議した上で決められた色彩ですので、その限りでは手続き的にも正当性があったといえるでしょう。高良倉吉さんやそのグループが、「中国に忖度して朱色を選んだ」という批判がありますが、そうしたことは「絶対にない」と断言できます。諸資料にもとづく合理的な判断の結果です。

ただし、今後、これまでの通説を覆すようなあたらしい古文書や図絵、出土品などが出現すれば、あらたに再建される首里城正殿が別の色になる可能性も否定できません。今のところ首里城の「赤」を「黒」に変えるほどの決定的な資料は出ていませんが、研究の進展に連れ、黒に変えるという判断が出てくるかもしれません。それぞれの時代には、それぞれの時代の合理的な判断があります。色を変えることをおそれる必要もないでしょう。

批評.COM  篠原章
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket