【2018年紅白歌合戦レビュー】我らの時代の墓碑銘となった平成最後の歌の祭典(上)

もくじ
(上)
プロローグ:歌は世に連れ、これでお仕舞い
1.北島三郎のお墓と演歌の命運
2.フォーク調ポップスは生き残れるか〜あいみょん、いきものがかり、ゆず etc.
(下)
3.米国の墓碑銘となった「U.S.A.」と沖縄の現在
4.縦割り組織型ダンス勢の限界
5.NHKに見るスポーツ応援歌の変容
6.俺の時代は終わった—松田聖子・ユーミン・サザン etc
エピローグ:誰が未来を切り拓く?

プロローグ:歌は世に連れ、これでお仕舞い

「歌は世に連れ」はあっても、「世は歌に連れ」ということはありえない。ただ、人々の記憶の中の歌がこの世界の構造を、見事に切り取って見せてくれることはある。2018年大晦日、平成最後と喧伝されたNHK紅白歌合戦を見て、その思いを強くした。

例年の紅白レビューでは、楽曲毎(出演者毎)に簡単なコメントを付けて公開してきたが、今年のレビューでは、紅白出演者の歌によって切り取られた2018年現在の世界の構造をぼくなりの視点で整理しておきたいと思う。

トータルの印象を一言でいえば、「これでお仕舞い」の紅白。「あんたの時代は終わったんだぜ」という言葉を、4時間半にわたり突きつけられていた針の筵、寂しくもあり、痛くもあり。おうおうおう、上等じゃねーか、紅白さんよ。こちとらは「これでチャラにしてやるよ」と居直ることもできるんだぜ。ざまあみろってんだい。これも負け犬の遠吠えか。

1.北島三郎のお墓と演歌の命運

それは予期されたことだったが、大仕掛けのセットと演出にもかかわらず、北島三郎翁の歌唱の衰弱には心がしくしくと痛んだ。引退したはずの大歌手がなぜこの紅白で復活したのか。さすがに欲ボケとまで思わなかったが、北島の真意をはかりかねていたところ、そのステージを見て納得した。歌手としての北島三郎の「お墓」をNHKが紅白にはめこんだのである。あなたの黄金時代は素晴らしかったよ、サブちゃん。昭和・平成とトップランナーだった演歌歌手への謝辞と賛歌。NHKの「思い」は汲み取れたが、ぼくには生前葬にしか見えなかった。

サブちゃんに「ありがとう」といいながら落涙する場として、紅白がふさわしいかどうかわからないが、13歳の春(1970年)に「ロックという武器で演歌を根絶やしにしてやる」と意気込んだはずなのに、1978年の「与作」、1984年の「まつり」でサブちゃんの逆襲を受け、演歌との共存を余儀なくされた身としては、やはり一時代の終わり(演歌の終焉ではないぞ)として正面から受けとめざるをえなかった。知らぬ間にぼくも、「ありがとう、サブちゃん」といいながら落涙する世界の一員になってしまったのかもしれない。

それにしても演歌はしぶとく生き残っている。想像を絶するほどの生命力だ。若気の至りとはいえ、よくもこんな怪物を殲滅しようなどと考えたものだ。身の程知らずというものである。坂本冬美、天童よしみ、石川さゆりの紅白常連組はまだ衰える気配を知らないが、覇権を狙って君臨するような存在感はない。老域に入って「紅白卒業」も視野に入っている五木ひろし、すでに紅白を「卒業した」森進一や細川たかしが復活してサブちゃんの代役を務めることもないだろう。島津亜矢、三山ひろしはまだまだ小粒だ。そうなると、現在の常連組が倒れた後はやはり氷川きよし、山内惠介、丘みどりといった美男美女系実力派の成長を待つほかないのか。

「親分子分」の関係が演歌界から一掃されるなら、それはそれで「朗報」だろうが、他方で「なんだかつまらなんことになったな」という思いもある。「ポスト北島」時代の演歌界の動向はやはり気になるところだ。今回の紅白では、石川さゆりが「天城越え」でギタリスト・布袋寅泰と「競演」した(布袋、カッコよかったぜ)。新しい仕掛けが演歌界から求められていることは間違いない。こうした仕掛けがなければ(歌のうまさや容貌だけでは)、演歌の生き残りも難しい時代に入っているのかもしれない。

蛇足だが、三山を紅白歌手として記憶する人はほとんどいないだろう。記憶に残るのは、昨年、今年と2年連続でギネス記録に挑戦した「けん玉名人の歌手・三山」である。ギネス記録を達成してめでたいかぎりだが、昨年失敗した男性はこの1年をどういう思いで過ごしたのだろうか。去年の失敗が笑い話になって本当に良かった。

2.フォーク調ポップスは生き残れるか〜あいみょん、いきものがかり、ゆず

昨年はエンケン(遠藤賢司)が亡くなった。息絶えるまで吼え続けていたエンケンの真骨頂は、斬新な手法を提示しながら時代の標識となることを拒み続けたことだ。「俺は俺」。それは表現者としての孤立無援の闘いだった。「フォーク」と括られながら、その枠を壊す。「ロック」と括られれば、より大きな普遍性を目指す。多数者の投票によるヒットチャートとは異なるレベルで、つねに歌いたいものを歌うという、まさに表現者としての原点を我々に突きつけていた。時代の上澄みを掬ったようなポップスに対する「牙」を剥くエンケンの作品群は、原初的なパワーを土台としつつも、薄っぺらい感情の表出や安っぽい計算高さを徹底的に排除することで成り立っていた。エンケンの音楽は圧倒的に「理知」のそれだったのである。

あいみょん、いきものがかり、ゆずといったフォーク調ポップスは、「大衆に受け入れらやすいものを歌い継いでいく」という点で、いまだに大きな影響力を持っている。フォークの軟弱さとポップスの強みを併せもつ彼らの音楽は、この社会に潜む「毒」を和らげることで命脈を保ってきた。毒を毒として突きつけてきたエンケンの対極にある。理知と感情の相剋を、感情の側に引き寄せることで、「多数者による投票」という栄誉を勝ち取ってきた。

ぼくらの世代からすれば、毒でもクスリでもないという彼らの「無害」は、「子ども時代の記憶」さえあれば誰でも共有できる。それは懐かしく温かいが、現代と未来の構図を曖昧にするという副作用がある。時代のテーマをあえてオブラートにくるんでしまうような手法が今後も有効であるかどうかは疑わしい。「音として尖っていない」という彼らの特性が、彼ら自身の足を引っ張る時代が到来するのではないか。フォーク調ポップスの延長線上にある西野カナ「トリセツ」やaikoの旧作「カブトムシ」を聞いても、やはり「なんだかなあ」という思いを禁ずることができなかった。

(下)につづく

批評.COM  篠原章
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