首里城ノート(2) 首里城はいったい誰のものか?(下)

承前

琉球大学から政府に移転した所有権

昭和の大修復の落成式の行われた1935年から満十年も経たないうちに、首里城は正殿だけでなく何もかも沖縄戦で失った。焼尽した跡地はしばらく放置されたが、1950年に米軍の肝煎りで琉球大学が設置され、首里市は首里城域の私有地を同大学に無償譲渡した。これに合わせて、尚家の直系当主(尚泰王の曾孫/第22代)だった尚裕も、城郭外の私有地だった円覚寺跡地、ハンタン山を琉大に寄贈した。琉球大学は当初米軍の設置した財団が運営したが、1966(昭和41)年に琉球民政府立に移行した。

1972年の復帰後、琉球大学は国立大学となり、同大学が利用していた旧首里市市有地と旧尚家私有地は国有地となった。その後琉大は首里から西原町移転して、跡地は公園として整備されることになるが、正殿付近に残されていた県有地(沖縄神社用地)は、首里城公園が国立公園として整備されるプロセスで国に無償譲渡されている。なお、尚裕は、尚家が私有していた玉陵、園比屋武御嶽、識名園、崇元寺などは那覇市に寄贈している。なお、復帰時に琉球政府の所有地の大半は国有地となったが、当時はこの措置に対する大きな異論はなかったようだ。

首里城周辺は、沖縄県の提案した「首里城公園基本計画」(首里杜構想)にもとづいて1986年より都市公園として整備されたが、正殿とその周辺(内郭)は国営公園(有料区域 4・7ヘクタール)、それ以外の城域は県営公園(無料区域 17・8ヘクタール)となった。1992年には正殿他が復元され、以後、当初の計画にしたがいながら、多くの建築物が復元されてきた。

なお、この公園化・建物復元の過程で、沖縄県は政府に対して「首里城跡を県として整備したい旨要請したが、この要請を政府が拒絶した」という話があったというが、このやり取りの詳細については今のところ確認できていない。ただし、沖縄県立芸術大学用地として首里城跡地を利用する構想があったことは確認されている。県からのこうした用地取得要請に対して、当時の文部省は首を縦に振らなかったとの話である。

管理運営権の県への移転

2019年1月に復元などの整備は一段落し、2月には国営公園(正殿など有料区域)の管理運営権も沖縄県に引き渡されている。これによって、沖縄県は首里城域全体の管理運営を担うことになったが(委託先は美ら島財団)、その8か月後に主要な施設が失われてしまったことになる。

以上見たとおり、首里城域の主たる所有権は、

◎ 琉球王府
→ 日本政府…1879年(琉球処分)
→ 建物は首里区・土地は日本政府(首里区に無償貸付)…1903年
→ 首里区(国から土地払い下げ)…1909年
→ 首里区・沖縄県(正殿付近を首里区から譲渡)…1924年
→ 琉球大学(当初は財団法人立。後に琉球民政府立)…1950年
→ 日本政府(琉球大学は国立大学に)…1972年(復帰)
→ 日本政府・沖縄県(厳密には那覇市も)…1986年

と変転してきた。

日本政府が今も首里城域の所有権を一部有していることに対して、「政府による沖縄支配だ」「沖縄の自立を阻むものだ」と異議を申し立てる論者もいる。ただ、首里城公園の長期にわたる整備計画を振り返ると、政府と沖縄県の共同作業が、復元プロジェクトとしてはほぼ成功裏に推移してきたという事実は無視できない。その間、「誰が首里城の所有者か」という問題提起を素通りしてきたことは確かだが、共同事業者としての国や県は「そのとおりですが何か不都合が?」と反駁することもできる。実際、平成の復元だけでなく、昭和の大修理も国と県との共同作業だった。次の「再建」もこうした共同作業なくして成就することはないだろう。

問題は「何を生みだすか」だ

問題は、文化とビジネスのバランスをとりながら、いかにして次世代に過去の遺産を継承していくかという点に尽きる。今回の火災は、そのバランスを失ったところで発生した不幸な事故であり、観光資源としての首里城への過剰な期待が文化財保護意識や防災意識の欠落を招いてしまったことは、やはり素直に反省すべきだ。

ついでにいうと、首里城正殿を沖縄(琉球)文化の結晶と見なす風潮にも警鐘を鳴らしておきたい。沖縄には首里城正殿に匹敵する優れた文化がほかにいくらでもある。各地のグスクや御嶽(うたき)、円覚寺、崇元寺などの寺社はむろんのこと、琉歌、琉舞、宮廷音楽、民謡、旗頭、織布染色等など。これらを現代に継承し、新しい魂を吹込ながら未来に繋いでいくことこそ文化の創造である。過去への思いに縛られながらステレオ・タイプな「沖縄のアイデンティティ」を強調して自足するようでは未来は萎縮するだけだ。

「所有権」への拘りはむしろ時代を逆戻りさせる畏れもある。誤解を恐れずにいえば、たかだか城郭跡の所有権である。「ヤマトvsウチナー」という対立の構図で事態を打開しようという試みは、人々を誤った方向に誘導しかねない。そこには象徴的な意味すらない。文化の大系の奥行きの深さを軽視する議論だ。何を取りもどすかが問題なのではない。問題は何を生みだすかだ。【完】

参考文献:

首里城復元期成会『甦る首里城ー歴史と復元』(首里城復元期成会・1993年/とくに真栄平房敬著の第7章「近代の首里城」)

与那原恵『首里城への坂道』(中公文庫・2016年)

野々村孝男『首里城を救った男―阪谷良之進・柳田菊造の軌跡』(ニライ社・1999年)

王府の庇護を受けていた名刹・円覚寺 沖縄県立図書館デジタルアーカイブより

批評.COM  篠原章
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