のりこえねっと共同代表・上野千鶴子氏の「変節」と社会学者・北田暁大氏の批判

東京大学名誉教授でのりこえねっと共同代表の上野千鶴子氏の「奇妙な変節」については、新聞記事の掲載以来関心を持ってみています。以下は、上野氏の主張が問題になった2017年2月11日付の中日新聞「考える広場」からの引用です。

移民政策について言うと、私は客観的に無理、主観的にはやめた方がいいと思っています。

客観的には、日本は労働開国にかじを切ろうとしたさなかに世界的な排外主義の波にぶつかってしまった。大量の移民の受け入れなど不可能です。

主観的な観測としては、移民は日本にとってツケが大き過ぎる。トランプ米大統領は「アメリカ・ファースト」と言いましたが、日本は「ニッポン・オンリー」の国。単一民族神話が信じられてきた。日本人は多文化共生に耐えられないでしょう。

だとしたら、日本は人口減少と衰退を引き受けるべきです。平和に衰退していく社会のモデルになればいい。一億人維持とか、国内総生産(GDP)六百兆円とかの妄想は捨てて、現実に向き合う。ただ、上り坂より下り坂は難しい。どう犠牲者を出さずに軟着陸するか。日本の場合、みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい。国民負担率を増やし、再分配機能を強化する。つまり社会民主主義的な方向です。ところが、日本には本当の社会民主政党がない。

フェニミズム研究の第一人者で、女性差別や移民差別と闘ってきた上野氏らしからぬ、「敗北宣言」とも受け取れる一文です。あの戦闘的だった上野氏が、「移民受け入れは諦め、日本人は平等に貧しく慎ましくやっていこうじゃないの」というのですから、ショックを受けた人もたくさんいたと思います。と同時に大きな批判・非難が巻き起こりました。といっても、ネットを探索する限り、上野氏と同じ「界隈」と目される人たちからの批判・非難のほうが圧倒的に多く、境界外あるいは保守層からの批判はわずかです。境界外からは「リベラルの内輪もめ」「それ見たことか」といった冷ややかな反応ばかりでした。

上野氏をもっとも手厳しく批判しているのは、東京大学教授で上野氏と同じ社会学の研究者である北田暁大氏です。いってみれば「ご近所さん」からの批判です。北田氏の上野氏に対する論難は、荻上チキ氏が主宰する『シノドス』に掲載されました(2月21日付『脱成長派は優し気な仮面を被ったトランピアンである――上野千鶴子氏の「移民論」と日本特殊性論の左派的転用』)。以下少々長くなりますが、北田氏の上野批判の一部を抜粋しておきます。

日本の左派の一部に根強い人気のある「脱成長」「清貧の思想」がいかに残酷であり、またトランプ的一国主義・排外主義と裏表のナショナリズムを随伴してしまっているか、そのことを私の知るかつての「あの」上野千鶴子氏、そして上野氏の読者に向けて問題提起をしておきたいと思う。

「内なるトランプ」を精算しえないかぎり、そして優し気な言葉に包まれた敗北主義を精算しない限り、左派・リベラルの論理は――ノブレス・オブリージュすら欠いた――裕福なインテリの玩具にしかなりえない。

(中略)

日本では単一民族神話が信憑されているから、移民を受け入れる寛容性を期待できない、というのが上野氏の考えなのだろうが、それが被抑圧者犯罪説を伴うのか、抑圧者犯罪説を伴うのかが不分明である。前者であれば、統計上の数字の見方、解釈に大きな問題があるし、後者であれば、多文化主義への努力すらしていないこの国に対してずいぶんと「優しい」考え方といえる。

上野氏は「客観的に無理」「主観的にはツケがおおすぎる」と断言する。主観も客観も、どちらも上野氏の状況認識を反映した心情の吐露にすぎない。だいたいこの主観と客観の区別の意味が分からない。いずれも上野氏の正当化されていない信念を語ったものにすぎない。「私は残念に思うけれども、現状をみていると、多文化主義に日本は耐えられそうにないから無理」と言うのであれば、「私は残念に思うけれども、現状をみていると、日本の家父長制は強固だから変えるのは無理」という理屈も通ってしまう。リアリズムを装ったただの生活保守主義である。

こうした上野氏の混乱は、実は、この記事全体に流れている上野氏の「脱成長論」と深く関係していると私は考えている。上野氏はこう言う。「日本は人口減少と衰退を引き受けるべきです。平和に衰退していく社会のモデルになればいい。一億人維持とか、国内総生産(GDP)六百兆円とかの妄想は捨てて、現実に向き合うべきです」。

これは上野氏のみならず内田樹氏や小熊英二氏など、有力な左派論客に共有されている脱成長・成熟社会論である。脱成長とは言うけれど、要するに「清貧の思想」である。中野孝次『清貧の思想』が、清貧など想定もしていないバブル期に、貧しさなどと無縁な人びとに読まれたように、脱成長論もまた、豊かなインテリの玩具となっている。

北田氏は、「気鋭の社会学者」らしく、というより社会学者にしては随分まともな、「経済」に目配りした論陣を張っています。今さら驚くようなことでもありませんが、メディアに好まれる社会学者が経済に目配りすることは稀ですから、その意味で北田氏は希有な社会学者といってもいいかと思います。「経済成長論」をろくに分析もせず安直に放棄した上野氏(そして内田樹氏、小熊英二氏といった〝左派〟の論客)に対するこのように痛烈な批判は、あまり目にしたことはありません。実にまっとうな批判だと思います。日本の社会学者やその随伴者、そしてメディア論壇を仕切る人びとの大半は、(いったい何に媚びてそうしているのかよくわかりませんが)「経済変数」を抜きに経済を語るのが常道です。

北田氏は続けます。

(上野氏は)「移民」は無理であると言う。なぜか。

ひとつには、経済という人間の社会的営みに対する上野氏の認識の無頓着さと、それを支えるナショナリズムが考えられる。つまり「経済などというのは、成長がなくても、そんなにひどくはならないだろう」という、日本経済の底力に強い信頼を置いている可能性がある。

(中略)

いまひとつには、「経済が悪くなっても日本人は清く正しく生きるだろう」という漠然とした日本人の秩序志向への信頼が考えられる。現に日本はデフレの時期に「排外主義」の顕在化を許してしまった。経済だけが原因とはいわないが、まだ一億人の人口規模を持ち、団塊ジュニアが生産年齢にあるこの時期のデフレですら「我慢できない」人びとが、人口が半減し老人比が重くのしかかる状況での生活・経済環境に充足することができるとでも考えているのだろうか。

上野氏は「平等に、緩やかに貧しくなればいい」と言う。なぜ日本だけがそんなことが可能だと考えるのか。上野氏をはじめとする脱成長派に聞きたいのはそのことである。

総じてこれらの問いへの答えが得られない現状では、ひとつ考えられる有力な仮説は、「脱成長派は『日本経済』や『日本人のエートス』の力強さ、秀逸さを固く信じている」ということだ。これは伝統的な日本特殊性論にほかならない。単一民族神話を解体したいのなら、そんな日本特殊性論もちゃんと一緒に清算すべきである。「脱アイデンティティ」などと言っている暇があったら、ご自身の強固なナショナル・アイデンティティを「脱構築」すべきである。

北田氏の指摘の通り、「単一民族神話」と「日本人はやっぱし立派じゃん神話」は表裏一体だと私も思いますが、こうしたアイデンティティ論とは別に、「日本の経済的な成功」がそうした神話を土台にして達成されてきたことは事実です。が、アイデンティティ論をいかに「止揚」(超克)すべきかについては議論の余地が残ります。「日本だけがうまくやれればいいじゃん」という考え方が通用しないのは、経済のグローバリゼーションなくして(世界と日本の)人びとの暮らしが成り立たなくなっているからです。「日本あるいは日本民族というアイデンティティに対する根強い欲求(偏狭なナショナリズムへの志)」は、世界のこうした経済的欲求に抗しきれません。しかし、日本の社会と経済の現実がグローバリゼーションにまだ対応していない以上、国民経済という扉を全開にするわけにはいきません。多角的な配慮を欠いたまま労働や移民のグローバリゼーションを受け入れると、日本の社会と経済の土台はガタガタになり、回復不能になります。しかしながら、いずれは全開にせざるをえません。全開のスケジュールを受け入れず、上野氏のようにクローズドな社会と清貧の経済を構築しようなどという思想は、間違いなく破産します。「あんた、経済実態をちゃんと見つめたことがあるのかい」と問いかけたくなります。

ただ、北田氏が引き合いに出している貯蓄率、世代間分配、人口動態などの「経済変数」については、「今さらここで取り上げるの?」といった印象を抱きました。そういうことをわかった上で(前提にして)、我々は議論しているつもりなのですが、社会学では今もってその程度の認識しかないの?と、むしろ呆れました。

私自身は、大学・大学院時代、経済学よりも社会学に傾倒していましたし、高等数学や統計学に依存しすぎた経済学に嫌気が指し、「社会学への転身」も何度か考えました。が、今は転身しなくてほんとうに良かったと思っています。失礼を承知で言えば、社会学は外から見ればグダグダの学問(北田氏のいう〝インテリの玩具〟)に見えます。社会と経済の停滞と後退をもたらすだけだと思います。

マルクスの下部構造・上部構造の議論はきわめて正しく、下部構造(経済)が上部構造(政治・社会)を規定することは半ば真理です。犯罪率と景気あるいは所得再分配状況が相関関係にあることは当たり前で、異論を差し挟む余地はありません。同じことはテロリズムの発生(テロリストの誕生)についてもかなりの確度で適用できると思います。

上野氏は「成長経済から貧困共生経済(成熟経済)へ」を唱えているのですが、「これっていつの議論だよ」という疑問も拭えません。バブル直後、90年代中盤から後半にかけての、いわゆる「エコ野郎」的な問題提起にすぎないように思えます。今や経済の枠組みも人びとの世界認識もすっかり変わっているのですから、過去に遡及するかのような「再論」にはほとんど意義はないと思います。

北田氏の「上野氏の脱経済成長論批判」は、そうした意味で理解できますが、北田氏自身の経済に対する認識もきわめて曖昧だと思います。上野氏と同紙面内で、小西美術工藝社社長のデービッド・アトキンソン氏が触れた技術革新や労働生産性に関する問題提起のほうがはるかにリアルです。つまり、日本経済にとっての「肝」は、目下「資源配分→所得創出」という供給面にあるのに、北田氏は「所得再分配=需要面」だけを強調し、フロー(所得)とストック(資産)という概念さえ混同する議論も平然と展開しています。上野氏の論は「私はこう感じているのよね」といった「感性批評」そのものですから、もう議論にも値しませんが、北田氏も不十分な経済認識をもとに議論しているのがとても残念です。トランプ政権の本質についても紋切り型の見方しかなく、「ビジネス至上主義者」(昔風にいえば「資本の先兵」ですが笑)にすぎないトランプ大統領を「過大評価」するものです。国境の壁を高くするとか、ありもしないスウェーデンのテロに言及するとか、紛糾するようなトピックをしばしば持ち出すトランプ大統領ですが、彼の言動はすべて「アメリカというビジネス」(これも昔風にいえば米帝ですが笑)に直結していると考えたほうがよいと思います。「人権」「平等」は崇高な理念ですが、理念は政治によって歪められ、利用されるのが常道で、トランプ政権が理念本体に歪みをもたらすどうかを即断することは難しいと思います。

現下の問題は、「アベノミクスによって賃金の底上げができるかどうか」「アベノミクスを維持しつつ財政赤字垂れ流しをストップすることができるのかどうか」にかかっていると思います。経済全体の底上げをはからないかぎり、所得再分配は失敗します。誤解を恐れずにあえて単純化するなら、「十分な稼ぎ手もいない、稼ぎ方もわからないのに、稼ぎをどう分配するかばかり議論している」のが社会学者だと思います。上野氏が理事長を務めるNPO法人ウィメンズアクションネットワークも、国民の稼ぎに賦課される税金を財源とした補助金で運営されています。上野氏はいつも「私たちへの補助金配分を増やせば世の中は良くなる」という姿勢ですが、「じゃ、あんたたちの運営資金は誰が稼いでるのよ」と文句の一つもいいたくなってしまいます。

社会学者批判になってしまいましたが、なにも「経済学も知らんのに社会学は偉そうだ」といっているわけではありません。経済学の難しい小理屈を彼らにぶつけたいのではなく、経済の現実を正面から見ようとしない、経済の常識を身につけようとしない彼らの姿勢には「未来」を感じないといいたいのです。

たいへん失礼ながら、上野=北田論争は、アカデミズムの枠を少々超えたところでやっている、経済常識知らず同士の乱戦だというのが正直な感想です。一言でいえば「いい気なもんだ」です。

問題をもっと敷衍して少々「八つ当たり」的にいえば、「革新」「左派」「リベラル」を標榜する、上野氏、内田氏、小熊氏など(そしてその随伴者としての主流メディア)は、旧体制に幻想を抱く保守主義者、形を変えた、体のいい封建主義者にすぎません。

いつものことながら、「もういい加減にしてくれよ」と叫びたい気分です。

批評.COM  篠原章
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