『深夜食堂』のテーマ曲「思ひで」(鈴木常吉)のこと

まったくもって迂闊なことに、有力バンドがひしめいていた時期の『いかすバンド天国』(イカ天)で人気を博したセメントミキサーズのボーカリスト・鈴木常吉が、2020年7月6日にがんで亡くなっていたことを知らなかった。

安倍夜郎の同名漫画(『ビックコミック』連載)を原作とする小林薫主演の人気ドラマ『深夜食堂』(TBS系。現在はNetflix配信)のオープニング・テーマに採用された「思ひで」(鈴木の2010年のソロ・アルバム『ぜいご』収録)があちこちで話題になったこともあり、最近の鈴木の活動は脂がのっていたようだが、ソロ・ライブに一度も足を運ばないうちに亡くなってしまった。とても深く後悔している。

「思ひで」は稀に見る名曲で、我が私的な「世界の名曲100選」(篠原の死後に発表予定)に間違いなく選ばれる作品だ。心を締めつけられるような匂いがある。ジュディ・ガーランドが1940年のミュージカル『Little Nellie Kelly
』の劇中で歌って有名になったアイルランドのトラディショナル「 A Pretty Girl Milking Her Cow」のカヴァーなのだが、鈴木オリジナルと見紛うほど個性のある作品に仕上がっている。日本語詞は鈴木のオリジナルで、翻訳ではない。

「思ひで」は鈴木の声質にもっとも適した楽曲だったと思う。音節の切り方がまたいい。音節の切り方というのももちろん歌の魅力の一部で、その手法に特徴のある歌はたくさんあるが、日本のアーティストでは、ぼくにとって宇多田ヒカル『First Love』(1999年)以来の注目株だった。

YouTubeには海外のアーティストも含め「思ひで」のカヴァー作は数多くアップされているが、グラミー賞の受賞経験があるキャロライナ・チョコレート・ドロップスの一員として有名なリアノン・ギデンズが、ヨー・ヨー・マのアンサンブル「シルクロード」のショーン・コンリー (ベース)、メーヴ ・ジルクリスト(ハープ)を従えてマサチューセッツ州ケンブリッジで行ったライヴでのカヴァー(2021年)が秀逸だ。リアノンの日本語は完璧で、音節いのちの「思ひで」を見事に唱いこなしている。この曲があり、この歌手がいて、名手がカヴァーしたという好例である。五臓六腑にしみわたる歌だ。

亡くなった鈴木常吉に心から感謝したい。ありがとう。

 

批評.COM  篠原章
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