高橋洋一「矢野次官はバランスシートが読めない」は正しいのか?
矢野康治VS高橋洋一
矢野康治財務政務事務次官のバラマキ政策批判発言(『文藝春秋』11月号)に対して、財務省出身の経済学者・高橋洋一氏が噛みついた。高橋氏はニッポン放送「飯田浩司のOK! Cozy up!」(10月13日放送)で、「はっきり言うとバランスシートが読めないという、会計学から見れば0点という状況なのですよ。前提となる会計学の知識が0点というのは恥ずかしいことですよ」と矢野氏を批判した。バランスシート(貸借対照表)で考えれば、日本政府は債務超過ではない。債務に対するものとして資産があり、日本政府は莫大な資産を持っている」というのが高橋氏の持論であり、矢野発言を機に、高橋氏もその「思いの丈」を一気に爆発させた感がある。
矢野氏の発言は、自民党総裁選4候補の公約や総選挙を控えた野党の公約が、「財源なき再分配」に寄りすぎていることを危惧した上での発言だと思う。ただし、巷間いわれているように矢野氏は「緊縮財政論」を唱えているわけではない。財政収支に着目した、赤字をできるだけ出さない財政運営をすべき、という主張にすぎない。安倍晋三元首相や高市早苗自民党政策調査会長は、「矢野氏は間違っている」というが、安倍内閣も基本的には矢野氏のような財政観を踏襲した政策を実施してきた。実際、行政という観点から見れば「可能な限り健全な財政運営」以外の選択肢はない。政治家がその理念や理想のために財政支出を大幅に増やす、ということなど到底できない状況だ。
高橋氏はつね日頃から、「バランスシートで財政を考えれば、日本の財政には何の問題もない」と主張し、政府の「資産隠し」を追及する代表的な論者である。もちろん、財務省が自らの権益(とくに課税高権・徴税権)を守る行動に走りがちなことは否定しない。「自分たちこそ最高権力者」と思いこんだ錯誤の末、ノーパンしゃぶしゃぶ事件を起こしてしまった前科もある。だからといって、高橋氏の理屈が現実の財政制度や経済システムに合致しているわけではない。
外為管理や年金財政は不要なのか?
高橋氏は、「日本政府は多額の資産を持っているのだから借金を重ねても大丈夫」という。たしかに日本政府は世界有数の資産家である。その限りでは正しい。が、問題は、「その資産は売却できるのか」「売却するとすれば誰に売却するのか」という点である。
政府の資産は、金融資産と実物資産(社会資本)から構成される。金融資産の多くが外貨準備と年金財政の積立金である。外貨準備を取り崩したら、円売り円買いという市場への介入ができなくなる、あるいは不十分になる。外為管理に支障が出れば、外為変動によって日本経済は大きな影響を受けることになる。外貨準備の取り崩しに伴うこうしたリスクは誰が引き受けるのか?高橋氏の論を見てもそこははっきりしない。年金財政の積立金しかり。これを取り崩すことによって将来世代の年金受給額が減少することはまず避けられない。それこそ国民に対する背信行為になりかねない。これは許されることなのだろうか?個人的には与野党挙って1970年代以降進めてきた「福祉国家化」が年金財政の根本に横たわる最大の問題だと思うが、最大の問題だからといって「福祉国家」を今止めることは不可能だ。公平な行政が実現できなくなる。ここに手をつけられる政治家はまずいない。憲法違反になる可能性すらある。
こうした金融資産が売却できたとしても、結局は外為管理、年金財政のために政府はあらためて借金を起こさなければならなくなる。借金を返すために資産を取り崩して、資産を取りもどすために借金するという構図だ。企業に「外為はオウンリスクでやってね。政府は関与しないから」、国民に「老後の面倒は自分で見てね。政府は関与しないから」と言い切れる新自由主義の権化のような政治的リーダーが出てくれば話は別だが、自民党や野党にそんな政治家がいるとは思えない。
国道は中国に売り飛ばせばいい?
政府には社会資本という名の莫大な実物資産もある。最大のシェアを誇るのは国道である。国道の大半は建設国債を原資につくられたものだ。したがって国道は、国債の60年償還ルールに縛られている。毎年の返済額が決まっているということだ。仮に政府が国道を企業に売却した場合、その企業は償還ルールにしたがって返済を続けなければならない。おまけに莫大な維持管理コストもかかる。「償還金+維持管理コスト」は当該企業から国民に転嫁される。国民はその企業に税金ではなく利用料・使用料というかたちで料金を納めなければならない。それは国民にとって得なのか損なのか?そもそも莫大な維持管理コストがかかる道路を買い取る民間企業が存在するのだろうか、という根本的な問いかけもあり得る。日本の社会資本を無条件で買ってくれるのは中国政府ぐらいである。
企業会計と政府会計は違う
残念ながら、高橋氏のいうように会計学の原理にもとづいて政府の歳入歳出を正確に捉えることは不毛の試みだ。資産の意味も、負債の意味も、企業と政府とでは異なる。なぜなら政府は営利企業ではないからである。むろんバランスシート的なチェックすること自体は無意味ではない。行財政改革にとってひとつの大きな基準を提供する。だが、政府という経済主体と企業という経済主体は明らかに異なる。財務省出身の高橋氏が理路整然とそういったからといって正しいとは限らないのである。異質なもの同士を簡単に比較するそのやり方には無理がある。「公会計」という概念を用いれば、公民の比較はより現実味を帯びるが、公会計はお役人の仕事にまで深く干渉する可能性があり、現状では使える概念ではない。
デフォルトは起きないのか?
高橋氏は、「政府は何十年も財政危機だと宣伝しながら、一度も破綻していないではないか。財政赤字というのは嘘っぱちだ」ともいう。が、財務省の言い分に誇張はあるとは思うがウソではない。年々の予算編成の折に一般会計に計上される国債費(借金の返済分)の増減が政府の行動を縛り、本来必要な経費すら支弁できなくなる事態はいつでも起こりうる。アルゼンチンやギリシアのように日本政府が財政破綻しないのは、たしかに日本政府が資産を保有しているからだが、目下のところ、幸運にもその資産の中身まで問われていない。なぜなら、財政計画という名の返済計画や政府の慎重な財政金融政策が評価されているからである。返済計画が変われば信用力も変わる。財務省を擁護するわけではないが、予算技術的な能力が高いからこそわが国は生き残っているのである。分厚い民間経済、民間貯蓄の規模の大きさも日本政府に対する「信用」の背景となっている。だからといって、親(政府)の子(国民)に対する無限の借金を正当化できることにはならない。形式的には、お札を印刷できる日本銀行が裏書きしている信用であって、お札もまた無限には印刷できない。高市氏は「デフォルトは起きない」といって矢野氏を批判したが、これまでデフォルトが起きないよう、政府と日銀がなんとか調整してきただけであって、これからもデフォルトが起きないと断言することは不可能だし、デフォルトが起きなくとも恐慌は発生しうる。
疑問のある積極財政の効果
積極財政は国民経済を活性化させ、消費経済を膨らます効果があるともいわれるが、積極財政に大きな経済効果があった試しはない。せいぜい気休めの効果があったにすぎない。貯蓄額の増加には貢献したが、消費は思ったより増えなかった。財政政策への過信は禁物だ。補助金・給付金の制度は、多くの場合、ほんとうの意味での「日本経済の再生」にはつながらない。
高橋氏の議論を全否定するつもりはさらさらないが、矢野氏との対比で正解を争うことには意味がない。不毛な議論に終始するだけである。それよりも財政の制度と現実を正しく捉え、デジタル化という用具を駆使しながら財政改革・規制改革を積極的に進めることが何よりも重要だと思う。バラマキを伴った派手な選択肢は国民受けするが、そんなことはいつまでも続けられない。最低限の財政規律、財政倫理すら壊そうという現下の動きはやはり警戒する必要がある。