中江裕司との「歌」論争

実は12日に沖縄に飛ぶ予定だった。4月18日に活動中止を宣言したCoccoのことが気になって、その謎を解く手掛かりを沖縄で見つけたいと思ったのである。ぼくはCoccoの熱烈なファンではないが、「Cocco最後の手記」にはそそられるものがあった。沖縄を考える際のあらたな視点を炙りだしてくれるような気がしたのだ。

ところが、9月11日の深夜から12日一杯まで飛行機に乗る気分にならなかった。しかし、このままでは時間がなくなってしまう。夏休みも終わりである。結局、焦りが恐怖に打ち勝ち、13日に意を決して沖縄に飛んだ。

直前まで逡巡した旅立ちなので、空港へ着いたのがフライト15分前。偶然にも8月の末から髭を蓄えたのでどことなくアラブ系。テロリストと勘違いされやしないかと冷や冷やしながらセキュリティ・チェックの列に並ぶ。と、後ろから「しのはらー」と大声で呼ぶ声。

「やべえ、ついに逮捕か」

人は自分の外見に左右されるものだ。何にもしていないのに髭を生やしただけで気分はすっかり似非テロリストである。
が、振り返ると中学以来の親友・伊東武彦がそこにいる。駒澤女子大の英語の先生である。

「沖縄?」
「そうだよ」

「伊東は?」
「学会で北海道」

「じゃあね」
「気をつけて」

たったそれだけの会話だったが、緊張はいくぶん和らいだ。親友とはそういうものだ。
セキュリティ・チェックを無事通過。厳しいと聴いていたのだが、似非テロリスト・シノハラは荷物の奧に忍ばせたカッターナイフ(というか鉛筆削りみたいなもの)を機内に持ち込むことに成功してしまった。意図して持ち込んだものではないが、まだまだハイジャックは可能であると逆に不安になった。

JALの機中では珍しく眠れない2時間半をすごす。ビンラディンとアルカイーダの犯行であると報道されているが、犯行声明がないので犯人が特定されたわけではない。テロリストの仕業だとわかっていても、その目的がはっきりしないかぎり自分の乗った便の安全性は確かめられないのだ。

不安を抱いたままのフライトだったが、無事、那覇空港に到着。さすがにホッとする。拍手したいくらい。爆弾が仕掛けられているかもしれぬ空港なんぞに長居は無用、早足で通路を抜け、逃げ出すように空港ビルディングを出て、オリオン・レンタカーの送迎車に乗り込む。

レンタルしたカローラを駆って空港近くにある宇栄原の奈須重樹宅へ。近々リリース予定のやちむんの二枚組CD『チムがある』のライナーノーツを頼まれていたので、その打ち合わせ。細君となったあっちゃん(比屋定篤子)も日向郎も元気そうだ。

奈須宅を出て“でいごホテル”に向かう。米軍基地はどこもゲートが封鎖されている。緊張感が漂う。湾岸戦争勃発時にもぼくは沖縄にいたが、そのときよりも空気が張りつめた感じだ。

チェックイン後、しばらくテレビに見入る。こちらにはFENのテレビ放送がある。BS1も入る。情報には事欠かない。ふだんはコメディ番組・バラエティ番組やホラー映画もたっぷり放映するFENだが、今回はNYとペンタゴンの映像だけが流れる。ニュースの合間には星条旗がはためき、アメリカ国家が流れる。やはり本質は軍事放送なのだと痛感する。

夜、那覇へ。リウボウホールで『ナビィの恋』の中江裕司 が登川誠仁を撮ったビデオを上映している。すでにNHKで放映済みのものだが、ぼくはまだ見ていない。楽屋を覗くと、中江さんがにこにこしていた。なぜかやちむんの満寿代もいる。満寿代と仲良く並んで作品を見ることにした。

中江作品はむる上等だった。「世界が悲しみに満ちているこういうときだからこそ、音楽や芸能の力が必要だ」と感じさせずにはおかない。登川誠仁、照屋林助、りんけんバンド、やちむんなどを抱える沖縄はとても “豊か”だ。でも、その豊かさを活かし切れない。それはぼくたちの力不足の結果でもある。

終演後、中江さんたちと合流して県庁裏で中華料理を囲む。途中、奈須重樹がぼくにテープを届けにやってきた。いつのまにか“歌”をめぐって議論になった。

中江さんはやはり独自だ。「歌は永遠であるべき」という。「歌の深さが音楽のすべて」といったようなことをいう。中江さんの撮ったビデオのなかで、八重山民謡のウタサである山里勇吉が「この歌はまだ私には歌えません」といっている場面がある。「まだ歌えない」という科白に中江さんは感動したという。

気持ちは分かる。が、ぼくは「歌よりも人」だ。みんなに「いい歌」として歌い継がれ、歌の深さに歌手が対峙していくという中江さんの議論には与したくない。それは古典の世界につながっていく。歴史の断層をそのまま引きずることになりかねない。

歌なんてたかが歌なんだ。ボブ・ディランの歌はディランによってしか乗り越えられない。ディランを歌う日本のフォーク歌手はディランとは別物だ。そこがポップのおもしろさであり、ポップの力なのだ。

いい歌が歌い継がれるのは真実だとしても、それが音楽のすべてではない。歌の深さを音楽の本質という中江さんの議論は、力強くは見えるけれど、そこから振り落とされるものが多すぎる。

中江VS篠原・奈須という対立の議論は小一時間つづいた。久々に楽しく興奮できた。沖縄モノの本を企画中のK社のTさんにこの話をしたら、「ぜひ中江VS篠原で激しくやり合って、一本の原稿にしてください」だって。さすがにそりゃ難しいかも。

批評.COM  篠原章
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