仲宗根源和と瀬長亀次郎 —カメジローは正義の人だったのか?

仲宗根源和の個性的な琉球独立論

10年ほど前、那覇市牧志の古書店(今はもうない)で、幻となった「琉球国旗」の装丁が気になって買い置いていた仲宗根源和『沖縄から琉球へ―米軍政混乱期の政治事件史』(初版は1955年。沖縄タイムスでの連載を一書に編んだものとの解説あり)が、最近になってようやく役立っている。

仲宗根源和は、戦中に沖縄県議に当選し、戦後初の沖縄の自治行政機関・沖縄諮詢会の委員を務めた本部出身の人物で、後年「沖縄独立論者」として名を馳せるようになったが、若い頃は東京で教員を務めていた。教員時代には非合法期の日本共産党に参加し、『無産者新聞』の発行人など重要な役割を担っていた。共産党時代の仲間である瀬長亀次郎、徳田球一、野坂参三、佐野学との親交も厚かったという。

『沖縄から琉球へ』は諮詢会時代の沖縄の政治社会状況を事細かに描写した本で、その時代を知るには絶好の資料だ。そのため、目下取り組んでいる戦没者数の再調査にとって貴重なデータも含まれている。

タイトルはいかにも沖縄独立論っぽいが、実際はそうでもない。この人の独立論は、共産党と大日本帝国に対する訣別(失望)の心情から生まれたもので、国家というシステムに対する不信感に満ちている。修正資本主義を土台とした「世界連邦」(のようなもの)を形成する過程で、「琉球人の自立」は不可欠だという考え方だ。現在でいえば喜納昌吉のそれに近い。

本書に書かれている沖縄戦中のエピソードを読むと、山原に逃げこんで飢えと恐怖に支配されて規律統制を失い、窃盗や恐喝を繰り返した敗残兵の浅ましさや横暴に悩まされなければ、仲宗根も日本のことを少しは信じていただろうな、と思う。要するに軍国主義の薄っぺらい実態にすっかり嫌気が指したのである。その意味で、あたまのお遊びの域を出ない新川明、川満信一の独立指向や漫画のような屋良朝助の独立運動、青臭いだけの琉球民族独立総合研究学会とは異なるレベルの独立論だ。

仲宗根の痛快なカメジロー批判

痛快なのは、仲宗根の瀬長亀次郎批判だ。仲宗根が描くのは、昨今の「カメジローブーム」の下で知られる過大評価の瀬長像とはまるで違う、共産党員・社会運動家としてもダメダメな亀次郎だ。仲宗根は、「県民・人民のため」ではなく「共産党のため、ロシア(ソ連)のため」に亀次郎は働いているとの認識だった。

仲宗根によれば、カメジローは、初代沖縄副知事で戦前の琉球新報社長だった又吉康和の腰巾着だったようだ。そのおかげで、又吉と諮詢会委員長だった志喜屋孝信(初代沖縄知事・沖縄県立二中校長)、沖縄統治の責任者だったワトキンス少佐(海軍/James Thomas Watkins Ⅳ)との内輪の話し合いで県議にしてもらったとのこと。又吉の工作とちょっとした不正によりカメジローが県議になったことは間違いないところだろう。カメジローはさらに又吉に琉球新報社長の地位を与えられている。琉球新報の前身はうるま新報で、当時はまだ米軍の御用新聞だった。その後、保守派だった又吉とは袂を分かち、カメジローは日本共産党やコミンテルンの意向を受けて人民党を結党して政治家として「成功」する。世間に流布されるカメジロー観からは、こうしたダークな側面が抜け落ちているのは残念だ。

孔子廟裁判の原告である金城テルさんが、「亀次郎さんの雑貨店は、人民のために安売りしているといいながら、実際には他の店より高い値段で品物を売りつけていた」と回想していたが、仲宗根の記述はそれを裏づけるものだ。「カメジローは正義の人」というのは幻想だと思う。共産主義の正義を振りかざしつつ、米軍やコミンテルンや保守派とつるんでいたとすれば、むしろ彼の物語に厚みが出ると思うが、誰もそこまではやっていないようだ。ぼくが亀次郎を知ったとき(高校・大学時代)、亀次郎はすでに日本共産党・革新共同(無所属)の国会議員で、当時は自民党などの保守系政治家からも人気があったようだが、国会質問などをあらためてチェックすると普通の共産党員と何ら変わらず、興味は引かれなかった。そんなんでは物語として成立しないなあ、と思う次第だ。

 

 

批評.COM  篠原章
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