中村とうようと『ニューミュージック・マガジン』(WEB版)
NAKAMURA Toyo and ”New Music Magazine”
WEB版につき小著収録のテキストとは若干異なります。無断転載はご遠慮ください。
「ロック」という言葉がまだ手垢にまみれていない、フレッシュな響きをもっていた70年代、「中村とうよう」といえば“泣く子も黙る”と形容されるような、強面の音楽評論家としてロック・ファンのあいだで知らぬ者はなかった。音楽評論家というより元祖・ロック批評家、いや“日本のロック・ジャーナリズムの祖”といっても言い過ぎではない。外来サブカルチャーとしてのロックを日本に定着させ、「日本のロック」を育てた雑誌『ニューミュージック・マガジン』(現在の『ミュージック・マガジン』)の創始者・初代編集長として今も日本の音楽ジャーナリズムの頂点に立つ。
日本のロックの成長とともに年を重ねてきたぼくにとって、中村とうようは敵でもあり味方でもあった。その批評の流儀に右往左往してきた、といったほうが真実かもしれない。『ニューミュージック・マガジン』(以下NMM誌と略す)を読んで、「さすがはとうようさん、お説ごもっとも」と手を叩いた翌月には「ざけんな、中村とうよう」と息巻いたりする、その繰り返しだった。
複雑な思いを抱えたまま中村とうようのオフィスを訪ねたのは、クリスマスの装いが始まった頃だった。きちんと整理された室内には、ほどよい静謐と緊張のときが流れている。スペースの半分はディスク収納の棚で占められていた。
中村とうようの個人史とぼくたちの日本ロック史はこの部屋で交錯し、それぞれ年輪を刻んでいるように思えた。中村とうよう(本名・中村東洋)は、1932(昭和7)年7月17日生まれ。京都府の日本海寄り、天橋立に近い峰山町に生まれ、高校時代までそこで過ごした(2011年7月21日逝去)。
何しろ田舎街でしたから、洋楽情報なんてない。ただ、両親がいわゆる音楽好きというか、邦楽なんですけどね、おふくろが三味線を弾いて、おやじがちょこっと歌ったりするようなところがありまして。それと蓄音機みたいなものがあって、童謡のレコードなんかはありましたね。ラジオはあっても、スイッチを入れたり、ダイヤルを動かしたりするのはおやじの特権。世間一般にどういう音楽が流行っているかというようなことはむしろクチコミですよね。自分から積極的に音楽を聴くというのじゃなくて、環境のなかに偏在している音楽というか、なんとなく自然に呼吸しているという状態しかなかったんですよ
旧制宮津中学・新制宮津高校を経て峰山高校に進んだ。実家は裕福ではなかったが、成績は優秀、高校の先生の勧めもあって、卒業後は京都大学に進学する。
最初は文学部に入ったんです。歴史と絵が好きでね。だから美術史みたいなことをやりたいなと思って文学部を選んだんですが、親父が文学部だったら先生ぐらいしかなれないから、そんなんじゃだめだと。そこで転部試験を受けて経済学部に変わったんです
音楽を聴くようになったのは、二回生になってからですね。一回生のときは宇治分校にいましてね。峰山より田舎でしたから、文化生活みたいなものはまったくない。2回生になって京都市内に移ると生活がガラリと変わってね。宇治ではろくにバイトもできなかったんですが、京都ではバイトもできるから、経済的な条件も整ってきたんです。自分でラジオを買ったりレコードを買ったりするようになって。最初はアメリカのヒット・ソング。エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」がヒットしたのが56年。その年にぼくが大学を卒業したんですから、ロック直前の時期なんです。で、アメリカでいえば50年代前半のダイナ・ショアとかペギー・リーだとかエディ・フィッシャーとか、いわゆるポップ・ソングの黄金期です。パティ・ペイジとかドリス・デイとかね。最初に聴き始めたのはそういう歌でしたね。そしたら友だちにやたら詳しい奴がいて、ガリ切りのバイトの時間以外は、勉強なんてほとんどしないで下宿にごろごろしながら音楽の話ばかり。急速にそういうものに興味を持つようになったんですよね。当時ラジオのNHK第2放送に「リズムアワー」というのがあったんです。夕方4時ぐらいだったかな。一時間ぐらいの番組で。たとえば月曜日はジャズ、火曜日はシャンソン、水曜日はタンゴみたいなメニュー。ジャズなら牧芳雄とか河野隆次、タンゴは高山正彦、シャンソンなら蘆原英了とか、いちばんの権威みたいな人たちがレコードかけて解説するものすごくオーソドックスな音楽番組。ほんとうに一生懸命聴いてメモを取ったりしていましたから。全ジャンルを。毎日聴いてましたからね。そこで、ぼくの幅広いポピュラー音楽の知識の基礎が築かれたようなものですね
“ロック・ジャーナリズムの祖”にもあったエアチェック時代、といってもテープレコーダーもなかった時代だから記憶媒体は自分の“脳”しかない。33回転のLP盤が国内で発売されたのは51年だったが、まだ72回転のSP盤が主流で、リリース点数も今とは桁違いに少なかった。が、それがかえって中村とうように味方したようだ。
当時の日本では定評のある巨匠たちの名演みたいなものは、国内盤SPで一通り出てたんだと思いますよ。というのは今と違ってポピュラー音楽のジャンルというのは限られていますから。今みたいに訳のわかんないものが周辺にあったりしないんですね。SP時代ですから情報量全体が非常に小さい。SPというのは一枚で2曲しか入りませんからね。片面3分そこそこの奴が2曲。どんな人気アーチストでも、一年間に3、4枚吹き込めばもうすごいですよね。普通はジャズなんかでも大体一年間に出すSPの数なんて2、3枚ですよ。一年間にLP片面分しか生産していませんし、ミュージシャンの数も少ないですから。ぼくが聴き始めた頃には過去半世紀の主なジャズ、シャンソン、ラテン・ミュージック、ウエスタンなどを一通り聴くなんてそんなに困難なことではなかったんですよ。その意味でタイミング的には恵まれていたと思っているんですよ。日本という国はそういう外国文化を受け入れることにはすごい熱心だったんです、終戦後十年か二十年。戦争中に閉じられていた外国の大衆音楽に対して窓がパーッと開かれた時期でね。最初は開かれたといっても経済的に豊かじゃないから、金を払って買うことができなかったけれど、それができるようなってきたでしょ。だからぼくはそうやって入ってきた情報を吸い取り紙が吸い取るように吸収したわけです。そういう意味でぼくは幸運だったと思いますね
中村とうようはジャズやロックはもちろん、いわゆるワールド・ミュージックの分野まで広く深くカバーできるほんとうの意味でのポピュラー音楽評論家である。これだけの幅をもった評論家は少なくとも日本では他に例がない。こうした音楽的な幅も、“戦後”という時代的な状況と無縁ではなかった。
日本で出ていたシャンソンや南米のレコードがアメリカだったら出ていたのかというと、出ていなかったと思いますよ。日本は音楽に関しては世界の見晴台に立っていたんじゃないかと思うんです。戦前からヨーロッパのものに関しては蘆原英了さんたちがせっせと紹介していた実績があって、戦争中閉ざされていたものが、戦後になってダムの放水みたいにどどーっと入ってきた。だから大学卒業するまでの3年間ぐらいで20世紀前半の大衆音楽の主なものは聴いちゃって、さらに当時としてはいちばんマイナーでマニアックなもの、たとえばアルゼンチンの(アタウァルパ・)ユパンキですね、ギターの弾き語りで素朴だけど非常に心あったまるような牧童や農民の音楽ですが、大学3年ぐらいのときにはそんなものまで聴いてましたね
50年代頃までは今とちがってメディアから入ってくる音楽情報もまだわずかで、音楽ジャーナリズムも黎明期だった。
活字はね、まだなかったんです。要するに単行本というのはほとんどないんですよね。当時ぼくがいちばん勉強したのはこの本なんです(河野隆次・服部龍太郎・高橋忠雄・松本太郎共著『ジャズ・タンゴ・シャンソン』昭和29年1月5日発行、婦人画報社)。ジャズ、タンゴ、シャンソン、この3つのジャンルに関して代表的な評論家が解説していて、代表的なミュージシャンの名前が書いてあって、主なレコード、日本で出たレコードが書いてある。で、何月何日にリズムアワーで聴いたとかメモったり、すごくよかったと思ったら、グルグルと丸したりして。活字情報というのはこれぐらいでしたね。『 ミ ュ ー ジ ッ ク ・ライフ』はなぜか読んでなかった。52年創刊でしたね。『スイング・ジャーナル』が47年、今の『ラティーナ』の前身である『中南米音楽』が52年。ちょうどぼくが高校から大学に入る前後ぐらいにその辺の雑誌は創刊されています。あの頃ポピュラー音楽のジャズとかの情報がちょうど若者たちに求められていて、そういうジャーナリズムが成り立つという見通しが立ったんじゃないですかね。でもなぜかぼくは雑誌を読んでいませんでしたね。ラジオでは民放が始まってから“今週の何位”をやり出したと思いますけど、それもぼくが大学を卒業した頃じゃないかな
NHKのラジオ放送は25年に始まっていたが、民放ラジオの開局は51年9月。最初は名古屋のCBC(中部日本放送)と大阪のNJB(現在の毎日放送)、東京では同年十二月開局のラジオ東京がパイオニアだが、当初はヒット・チャート番組らしきものはなく、ニュースやラジオ・ドラマ中心の構成だった。初のヒット・チャート番組「ユア・ヒット・パレード」(文化放送)が始まったのは55年のことであった。
むろん、レコードを買おうにも現在のような輸入盤専門店もほとんどなく、欲しいレコードを手に入れるには人的ネットワークに頼るほかなかった。
ぼくが初めて買ったLPは輸入盤でしたけどね、大学3年か4年ぐらいのとき。アルゼンチンのフォルクローレなんかに興味を持ち始めた頃、そういう音楽を熱心に聴いている大学の先輩がいて、その仲間に南米貿易をやっている人がいましてね、すごい熱心な音楽マニアでもあって。で、その人が自分の商売に乗っけて南米のレコードをとって、仲間に譲ってくれるんです。そこで買ったのが最初です。レコード屋がLPを置くようになったのは、京都だと十字屋あたりが最初かな
56年正月、大学卒業を間近に控えた中村とうようは就職試験にかこつけて初めて上京した。マニアらしい本末転倒、銀座のヤマハに行くことが本来の目的だったという。コレクター仲間からフランスのヴォーグ盤がヤマハに大量入荷したと聴いていたからである。
就職試験もそこそこにヤマハに行ってヴォーグ盤を買ったんです。で、そのなかの1枚が黒人のゴスペルソング。素晴らしいもので、ものすごく衝撃を受けたんです。ジャズの根っ子にほんとうに泥臭い黒人音楽があるんじゃないかなとおぼろげに思ってたんですが、ブルースなんかを聴くチャンスはまったくなかったですからね。そしたらブルースより先にゴスペルに出会っちゃって、ほんとうに衝撃を受けましたよ。ぼくが黒人音楽をずっと聴き続けることを運命づけた一枚ですね
他誌がいくらがんばってもNMM誌に勝てなかった点のひとつは、ルーツ・ミュージックとしての黒人音楽に関する情報が豊富なと頃であった。ゴスペル、ブルース、アフリカの音楽といった根っ子の大衆音楽への眼差しは、早くもこの時期に芽生えていたわけだ。
ヴォーグ盤蒐集のついでに受けた就職試験は不合格だったが、中村とうようは日本信託銀行に入社することになり、あらためて上京する。56年春のことだった。
銀行員としては落第だったというが、入社して半年後には労働組合の役員に選出され、主として組合機関紙の編集に携わった。が、労使間のごたごたが激しく、最後は嫌気がさして「音楽で食っていこう」と4年半務めた銀行を辞めてしまう。
銀行在職中に、中村とうようは音楽評論家としての第一歩を踏みだしていた。
ハリー・ベラフォンテの「デイ・オー」や浜村美智子の「バナナ・ボート」がヒットして、カリプソ・ブームなんていわれていたんですが、カリプソとは何なのかぜんぜん紹介されていない。たまたまぼくはラテン系の音楽、カリブ海の音楽はよく聴いていて、本場のトリニダード島のカリプソ知っていましたから、『ミュージック・ライフ』の編集部にいきなり電話して、こないだカリプソの紹介記事が出ていたけど、あれはぜんぜん間違っているから俺に書かせろって。これがぼくの初めての記事なんです(『ミュージック・ライフ』昭和32年5月1日号)
「新らしい音楽カリプソのすべて」と題された中村とうようの“デビュー原稿”は、「軽音楽界の最近の話題は何といってもカリプソにさらわれてしまった感がありますが、一体カリプソとはどんなものなのでしょうか。これから暫く、カリプソの国、西インドの島々を訪れてみたいと思います」という書き出して始まる柔らかい文体の記事だが、カリプソやベラフォンテはもちろん、ジャマイカ民謡やスティール・バンドまで紹介したかなり本格的なもので、リード文では“著者はカリプソ音楽の研究家”と紹介されている。いかにも中村とうようらしい出発点である。
脱サラして音楽評論家としてスタートしたものの、当初は必ずしも順風満帆とはいえなかった。大学時代に身につけたガリ切りの技能を生かして糊口を凌いだが、60年7月のベラフォンテ来日時に書いた記事がきっかけでベラフォンテのアルバム『ベラフォンテ・スピリチュアルを唄う』や『ベラフォンテ・カーネギー・ホール・コンサート』(いずれもビクター)のライナーノーツを手がけ、以後は順調に仕事も増えていった。
ぼくがなぜベラフォンテの解説を書かせてもらえるようになったかというと、誰も書ける人がいなかったからなんです。いわば、隙間産業みたいなもんですよ。ジャズだのシャンソンだのジャンルが確定しているものに関してはオーソリティの先生方がいましたし。ベラフォンテも最初の頃は野口久光先生とかが書いていたけど、野口先生の手におえない、カリプソのようなものまでベラフォンテは歌いましたから。カリプソなんて、当時書ける人はいなかったんです
『スイングジャーナル』のレコード評をレギュラーで担当、初の単行本『ラテン音楽入門』(音楽之友社)を出版する62年頃にはガリ切りのバイトに精を出さなくてもよくなっていたが、その頃には中村とうようは新たなる“隙間産業”を発見していた。フォーク・ソングである。
レコード・レビューをやっているうちにフォーク・ソングに出会うんです、ピート・シーガーだのボブ・ディランだの。“ 最 近 ア メ リ カ で フ ォ ー ク ソ ン グ という、民謡というイメージではなくて新しい音楽として急速に伸びている”というような話を書いたりして。誰もやりそうになかったから、ぼくが『音楽之友』で総論的な紹介記事を書いたりしたんですね。当時キングが若い頃のジョーン・バエズがいたヴァンガードというレコード会社と契約していたんです。で、ジョーン・バエズは絶対日本人の心情にぴったりするところがあるし、アメリカでも話題になっているから出さなきゃだめですよって話をしたんですよ。で、ヴァンガード・フォーク・ソング・シリーズというのを10枚ぐらい選んだのかな。ガリ版刷りでわら半紙二つ折り4ページぐらいの、パンチョの絵を描いた宣伝物をぼくがこしらえて。フォーク・ソングとは何ぞや。アメリカでどういう風に話題になっているか、ジョーン・バエズというのはどういう人か、みたいな簡単なパンフレットを作ったのをはっきり覚えていますよ
日本では、ロックンロール/ロカビリーをベースとしたティーン・ポップやベンチャーズなどのエレキ・インスト・ポップが洋楽のメイン・ストリームとして隆盛をきわめ、ビートルズの登場を迎える60年代前半だったが、中村とうようの目線はこうしたヒット・ソングの系列よりも“フォーク”に向けられていた。63~64年頃には従来から知られていたブラザーズ・フォアと並んでキングストン・トリオ、ピーター・ポール&マリー(PPM)などが人気を博するようになり、リヴァプール・サウンズの対抗勢力としてフォーク・ソングが注目されつつあったが、ピート・シーガー、ジョーン・バエズ、ボブ・ディランなどの“新興勢力”は、まだそれほど知られていなかった。
とにかくフォークについてはいちばん最初から雑誌にも紹介記事を書きましたし、レコード会社に働きかけて出すように動いたり、ライナーノーツを書いたりしました。ボブ・ディランはね、当時CBSの原盤を持っていたのが日本コロムビアで、最初は単独のアルバムを出しきれなくて、ボブ・ディランやピート・シーガーなんかの4アーチストぐらいをそれぞれ2~3曲ぐらいずつ引っ張ってきてまとめたレコードを作って、ぼくが解説を書いたんです。63年頃、ピート・シーガーが初めて日本に来たときもいろいろ話を聴いて(63年10月)、そのときに“ボブ・ダイランって誰?”って質問したら、ダイランじゃなくディランだとピートの奥さんが教えてくれたんですけどね。その頃音楽之友社で『ポップス』(62年-70年)という雑誌を出し始めたんです。初代編集長は鈴木淳一郎。「小指の想い出」(伊東ゆかり・67年)を作曲した鈴木淳ですね。60年代の中頃じゃないですかね。ぼくは『ポップス』はお手伝いしてました。レコード・レビューのページは、ジャズ、タンゴ、ラテン、シャンソンと並べて“フォーク”というのをやれと。“フォーク・ソング”だといかにもダサいし、フォスターの民謡みないなイメージしかないから、たんに“フォーク”といったほうがカッコいいということで、“フォーク”というジャンル名でレコード評をしたわけです
60年代には、ラジオやテレビ、さらに種々の音楽雑誌など音楽に接するための窓口は一通りでそろったが、こうしたメディアと並んで労働組合などの肝いりで各地に設立された「勤労者音楽協議会」、通称「労音」も大きな役割を担っていた。労働者が「良い音楽を低料金で」鑑賞できるようにという目的をもって設立された音楽鑑賞団体である。49年の大阪労音を皮切りに全国各地に労音が発足し、63~64年には会員数60万人を越える巨大組織に成長していた。
こうしたなか、中村とうようも地区労音のなかでもっとも古くもっとも大きな会員組織をもつ大阪労音にアドバイザー的な立場で関わるようになった。この大阪労音を通じて形成された人脈が後のNMM誌創刊に際して力となっていく。きっかけは大阪労音の65年5月の例会だった黒人フォーク・シンガー、オデッタの来日初公演だった。
大阪労音はほんとうはベラフォンテを呼びたかったらしいんです。ところがベラフォンテはメジャーすぎるというか、大物アーチストですから、マネージメントの部分が大きすぎてちょっと手に負えなかったんでしょうね。で、ベラフォンテの代わりにオデッタを呼ぶんです。黒人アーチストで、それまでとちょっと違うフォーク・ソングの行き方をしているところが気に入ったんでしょうね。それにベラフォンテのカーネギー・ホールのライブのときはオデッタは確かゲストで歌ってますしね。とにかくオデッタをやってみようということで、その企画会議を大阪でやることになって、ぼくも呼ばれたんです。大阪行きの飛行機のなかで隣の席に座ったのが飯塚さん。田川君は大阪労音のスタッフだったと思います。企画会議で飯塚さんが出した案が(哲学者の)鶴見俊輔に司会をやらせるっていうむちゃくちゃな案。鶴見さんなんてオデッタと関わりがあるわけないし、ほとんど話題作りのウルトラCみたいなもんですよ。そしたら大阪労音が乗ってきた。だけど鶴見さんはフォーク・ソングについて何も知らないから、ぼくがオデッタについて事前にいろいろレクチャーしたんです
「飯塚さん」とは後にNMM誌の発行者として中村とうように協力することになる飯塚晃東のことで、前衛作曲家の林光、ピアニストの高橋悠治、能の観世栄夫などといった名だたる芸術家のマネージャとして知られた人物である。「田川君」とはNMM誌創刊時の編集スタッフで、のちに音楽評論家として活躍する田川律のことだ。鶴見俊輔は、戦後の革新的な思想運動の一拠点となった雑誌『思想の科学』の同人である(当時は同志社大学教授)。鶴見はオデッタ公演の直前である65年4月には小田実などとともにベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)を結成しているが、中村とうようの思想的な立場はベ平連に比較的近く、初期NMM誌の執筆者のなかには山口文憲、室謙二などといったベ平連の活動家もいた。NMM誌とべ平連人脈とのつながりもこのときから始まったといえよう。
当時の若者の音楽のなかでぼくはロックよりフォーク・ソングのほうに深く関わっていたわけですよね。まあ、もともとポピュラー音楽の商業的な部分というかな、その部分はあまり興味を引かれないで、根っ子というか、ルーツのほうに興味を持っている部分がありましたから。いわゆる“ロック”というのは、始まったときの本質はともかく、すぐにメジャーに取り込まれて、どんどんポール・アンカだの、コニー・フランシスみたいな方向にいって、ロックンロールというよりヒット・ソングとして日本に入ってきますよね。ところが、(60年代後半になると)商業主義的でない部分が出てくるんです。売れ線ねらいのビート・ミュージックみたいなものじゃなくて、もっと深いメッセージ性をもっていたり、心の奥底に訴えるようなものをはっきり出してきた。その代表がビートルズです。で、ロックのビートをバックにしたディランの『ブロンド・オン・ブロンド』(66年)とビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(67年)がクロスして新しい音楽を創り出している、みたいなイメージができてくるんです。そういう動きを的確に若者に伝えたりするような活字メディアがなければいけないという気持ちがだんだん高まってくるんですね。『ミュージック・ライフ』じゃその役割を果たしていないみたいな。60年代末にそういう思いがぼくのなかで熟成してきて、ほとんど衝動的に、ガリ切りのミニコミの自然な延長みたいな気分でNMMを出しちゃうわけです。ただ“ニューミュージック”という言葉にはこだわりがありました。アメリカのフォーク雑誌『シング・アウト』にポール・ネルソンという人が、ボブ・ディランとビートルズが一緒に切り開こうとしている新しいポピュラー音楽を認知しなきゃだめだということを唱えたんですね。そのとき彼が使った言葉が“ニューミュージック”。それは大文字のニューミュージックではなくて、たんに新しい音楽を彼らは創っているという意味でのミュージックにニューをつけただけだったかもしれないけれど、ぼくはポイントをついた言葉だなと思ったんです。それで誌名を“ニューミュージック・マガジン”とするんです
60年代後半という時代は、ロックやフォークのミュージシャンが文化的アヴァンギャルドとして自己主張し、既成の音楽や音楽ビジネスの体系を意識的・無意識的に解体しようとした時代だった。こうした事態に直面して音楽ジャーナリズムも、たんなる“紹介”ではない、音の背景にある社会的・文化的記号を批評・分析する役割を期待された。が、既存の音楽誌は時代のこうした要請に応えなかった。中村とうようは、まさにこうした“需要”に応えるためにNMM誌を創刊したのである。その意味では“ロック・ジャーナリズム”も隙間産業だったのだ。
新雑誌を出すにあたってはやはりスポンサーと流通ルートを確保しなければならない。そこで想い出したのがオデッタで共に仕事をした飯塚晃東のことだった。
オデッタのときに飯塚というのは変な奴だなと思っていたんですね。しばらくしたら大阪労音の大量脱会事件で、田川君が大阪労音をやめて飯塚の会社に入ったんですよね。で、田川君から電話があったときにいったんですよ。“音楽雑誌の小さいのを作ろうと思っている。作るからには普通のミニコミじゃなく、活版で取次を通して本屋で売りたい。ただ取次にも印刷屋にもコネがないので、できれば飯塚さんが発行元になってほしい”って。田川はすぐ飯塚さんに話して、飯塚さんがそれは面白いといってぼくのところに電話をかけてきた。打ち合わせは68年の秋ぐらいですか。創刊したのが69年の春ですから、半年ぐらいしか準備期間がなかった。執筆者はみんなぼくの知り合いですよね。一年間原稿料払えないからぼくに貸してくれと。ニューミュージック・マガジン社なんて何の信用もないですから、ぼく個人に貸して欲しいと。レコード会社は付き合いができてましたから、広告の話はぼくが全部頼んできました。小売店もね。日本楽器には最初表4(広告)を出してもらいました。アマチュア・コンテストの審査員で社長とコネができていましたから。広告と編集はぼく、販売と印刷関係は飯塚さんが担当したんです。飯塚さんの信用で取次に出すから、飯塚さんが社長、ぼくが専務で全権編集長。資金はふたりで50万ぐらいずつ出したんだと思います
こうして1969年4月1日付でNMM誌は創刊された。奥付には「1969年4月1日発行 第一巻 第一号 発行者=飯塚晃東 編集者=中村とうようⒸニューミュージックマガジン社、東京都渋谷区桜ヶ丘四 親和ビル、定価一五〇円、送料四五円」とあった。編集スタッフには、田川律、甲南大学の学生時代から片桐ユズルが主宰したミニコミ誌『かわら版』の編集に関わっていた小倉エージ(現・音楽評論家)などが加わった。もっとも田川は創刊後まもなく編集部を離れ、その穴を埋めるように北中正和(現・音楽評論家)が入ってくる。
創刊号の執筆者には、すでに評論家として高名だった植草甚一、福田一郎に加えて、アングラ芝居の雄といわれた劇団・天井桟敷の主宰者・寺山修司(インタビュー)、アングラ・フォークを表舞台に引っぱり出したフォーククルセダーズの加藤和彦、関西フォーク運動の中心にいた詩人の片桐ユズルなど、アングラ・カルチャーの立役者たちが並んだ。「写真」と「アーティスト中心」ではなく「活字」と「テーマ中心」に執筆しているところが、従来の音楽雑誌にない新しさを感じさせた。
「今月のレコード」と題するレコード・レビューには、現在名盤とされるロックのアルバムがずらりと並んでいる。キャンド・ヒート『これがブルース・ロックだ』(80点/日暮泰文)、ディープ・パープル『紫の世界』(70点/木崎義二)、ゴールデン・カップス『ブルース・メッセージ』(80点/木崎義二)、ジミー・ヘンドリックス『エレクトリック・レディランド』(92点/小倉エージ)、B・B・キング『ブルースの真髄』(75点/日暮泰文)、キンクス『ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ』(90点/亀淵昭信)、マザーズ・オブ・インヴェンション『フリーク・アウト』(83点/中村とうよう)など。後に批判の対象となる「百点満点で何点」とつける点数評価はこの時点ですでに始まっていた。
レコード評に採点をつけるんで有名だったのはアメリカの『ダウンビート』というジャズ雑誌だったんですよ。あれは星の数で5つが満点なんですよ。星二分の一というのもある。『スイング・ジャーナル』もその真似をしていた。でも、5つ星にして二分の一をつけるぐらいなら、10点満点にすればいい。ふつうは4つ星評価がいちばん多くなるから、10点満点だとほとんど8点になっちゃう。じゃあもっと細かくできるように思い切って100点にしちゃえと。それだけのことですよ。渋谷陽一君や辻仁成君のように「音楽を数字で採点するなんてとんでもない」という人がいるけど、逆にいつも学校の試験の点数を気にしていたというトラウマがあるんじゃないかと疑いますね。この音楽はこういう物だと書いても、紹介にはなるけど批評にならない。ほんとうに自分がいいと思ったのか、つまらないと思ったのか、本音で書いてもらいたい。でも、執筆をお願いした人は、ほかの雑誌にも書いてきている人ばかり。今まで当たり障りのないことを書いていた人にそうじゃない書き方をしてくれといっても、なかなかできないだろうと。どっちかというと読者のためというより、筆者に対する課題というか、のっぴきならない立場に置くための点数だったんです。言葉ではごまかせても、数字はごまかせないだろうという。筆者に対して読者との本音勝負をしてもらうシチュエーションを作るための点数なんですよ
たしかに自分の好きなアーティストに「50点」といった落第点がついていたら腹が立つ。かくいうぼくもしばしば「とうようのヤロー!」とか「木崎のバーカ」と声を出して叫んだものだ。だが点数をつけることによって、評者の名前が印象づけられる。顔のある評論になる。書く方もそれだけの責任をとらなければならない。点数制はロック・ミュージックに直接関わる問題だったが、創刊当時のNMM誌はトータルでいうとロック専門誌というよりも、むしろ「サブカルチャーとしてのロック」を切り口として、勃興しつつあった新しい「若者文化」にあえて切り込もうという“若者のための総合誌”的な色合いが濃かった。
中村とうようも創刊号の編集後記で次のように述べている。
いまやロックは、新しい若者の大衆文化として、重要な役割をになうようになっているのだから、文化論的な立場から、ロックを正当に把握するための活字メディアが必要だ・・・というのが、この雑誌の発刊の趣旨なのだが、正直いって、自分でもよくわからないところもある。ロックがこれからどんな方向に発展して行くのか、みなさんといっしょに見守り、考えて行きたい。
初期のNMM誌がどの程度の刷部数があり、どの程度の実売部数があったのかは不明である。ミュージック・マガジン社では現在も実売部数は最高機密のひとつだ。出版界の信頼できる情報によれば、現在の実売部数は3~4万部程度、80年代の最盛期には7万~10万部程度という。創刊当初は1万部程度しか刷っていなかったはずで、その頃のロック・ファンの規模を考えると、実売部数はせいぜい5~6千部だろう。商業誌として5千部前後で経営が成り立つかどうかは疑問だが、他に似たような雑誌はなかったからレコード会社や小売店の出広も増えていったし、70年代初頭に盛り上がったURC系フォークも丹念にとりあげていたから、号を重ねるごとに部数は伸びていったはずである。創刊から70年代前半にかけての実売部数は2~3万部前後を推移していたのではないか。当時の音楽誌としては立派な数字である。けっして一般受けしない、ミニコミ誌的な編集方針にもかかわらず、休刊することなく継続的に発行され、オイルショックのあおりで紙代・印刷代などが高騰した72~73年頃を除いてページ数も増える一方だった。
部数を順調に伸ばすなか、競合する雑誌がなかったせいもあって、NMM誌はある種の“権威”とみなされるようになった。ロック・ファンのあいだでは“今月の「マガジン」読んだ?”とか“「マガジン」にはこう書いてあるじゃん”という会話が頻繁に交わされた。たんなる音楽誌ではなく文芸誌や思想誌に近い扱いを受けることもあった。70年1月号から連載が始まった「とうようズトーク」と題する中村とうようのコラムがそうした印象をまた増幅した(現在も連載中)。
ソ連なんて国にはもう何の関心もない。だが中国にはまだ未練がある。幻想がある。ほんとうの社会主義を学んでいてくれるものと思いたいのだ。(中略)中国が、現状の“力のバランス”の中での中国の経済発展を第一に考える、いわゆる平和共存路線を歩みつつあるように思えてならない。(中略)平和共存、革命を輸出せず、のポリシーは、ヴェトナム人民を見殺しにすることを意味するものにほかならないからだ。
72年11月号暴力革命はやりません、選挙を通じて民主連合政府を実現します、などと大衆の小市民意識に迎合するようなことを唱えている日本共産党に、何が出来るというのだ。
76年12月号
今になって中村とうよう自身も「不徳の致すところ」と述懐するが、「とうようズトーク」には率直にいって音楽誌のコラムとはとても思えない、新左翼党派の檄文のような文章も珍しくなかった(ちなみに今もその傾向はある)。ときにはコラムの枠をはみ出して、本文記事で激しい批判を展開することもあった。たとえば“センチメンタル・シティ・ロマンス事件”がそれである。
センチメンタル・シティ・ロマンスは“はっぴいえんど”に大きな影響を受けたウェストコース風ロックのバンドだった(再結成され現在も活動中)。75年8月に細野晴臣がアドバイザーとして関わったデビュー盤『センチメンタル・シティ・ロマンス』を発表したが、NMM誌11月号巻頭で中村とうようはこのアルバムに痛烈な批判を浴びせた。「ボーカルはフニャフニャ、バックの演奏はスカスカ、全然よくない」から始まって「ぼくはセンチメンタル・シティ・ロマンスをロックだとは思わない。(中略)体に訴えるものは何もない」と言い切った上で「ぼくは細野氏あたりの動向を警戒の目で注視する必要を、いま頃になってようやく感じ始めている」という警告も発している。その論旨はセンチメンタル・シティ・ロマンス批判を超えて「商業主義的なはっぴいえんど系ミュージシャンを警戒せよ」という点に収斂してゆく。
元はっぴいえんどの某君をひきぬくために、ある会社が1千万を出したとか、やはり元はっぴいえんどの系統をひくグループの周辺にいた某女性歌手は2千万の契約金である会社の専属になったとか、反体制的なロックを歌ってきた某グループを引っぱるためにある会社から2千万でどうだという話がでたとか、いずれもかなり信頼できる筋から流れたウワサだ。(中略)一般のファンにも、いまこそ必要なのは、ロックと呼ぶにふさわしい内実をもつ音楽とそうじゃない音楽とをしっかり聞き分けて行くことだ。そうしないと、ようやく日本のロックにマスコミの注目が集まり始めたとたん、ズルズルと商業主義のほうに引っぱり込まれてしまう。
あがた森魚はナベプロに入ってしまった。松本隆はナベプロの歌手たちのために歌詞を書いている。彼らが何をしようと自由だ。だがわれわれは彼らがもともとロックとは違うところに立っていたいた人たちであることを再確認しておこうではないか。われわれが生きて行くために、なぜロックが必要なのかを、いつまでも考えていようではないか。「日本のロックについてこう思う~センチメンタル・シティ・ロマンスの評価などをめぐって」1975年11月号
ロックを愛する人間ならば共感を禁じ得ない最後の部分、すなわち「われわれが生きて行くために、なぜロックが必要なのかを、いつまでも考えていようではないか」という表現は、まさにロック批評家のパイオニアらしい名言であり、日本におけるロック・ジャーナリズムの本質を見事に表しているが、そもそもこの評論は、同年9月号で小倉エージがセンチメンタル・シティ・ロマンスをベタボメし、それに反発した中村とうようが緊急寄稿したものだった。
作品をめぐる小倉=中村論争そのものはいい。『ミュージック・マガジン』も含むNMM誌の長い歴史のなかで新人ロック・バンドがこれだけ徹底して叩かれたことはないとしても、作品の良し悪しをめぐる議論という水準にとどまるならきわめて健全である。さすがNMM誌、他誌には決して望めない芸当だ。
が、問題の本質はそこにはない。「商業主義云々」という批判の正当性が問われるのである。作品に対する批評ではなくビジネスの姿勢に対する批判は、やはり音楽誌としてのNMM誌が背負い込むには重すぎる問題提起だった。ロックとはビジネスを度外視した姿勢であり精神性であるというと聞こえはいいが、資本制社会の“大衆音楽としてのロック”を語るにはあまりにも無垢で一面的な主張である。しかしながら、ロックにアンチ商業主義的な姿勢を求めようとする中村とうようの主張は、ロック・ジャーナリズムの世界に大きな影響を与え、本人の意図を離れて「売れるロックはまがいもの」というきわめて短絡的なロック観の形成にも一役買ってしまったような気がしてならない。
この点についてはこれ以上深追いしないが、中村とうようのこうした商業主義批判にはもうひとつ別の背景があることに触れておく必要がある。日本のロック史上もっとも有名な論争とされる「日本語ロック論争」がそれだ。
「日本語ロック論争」とは、70~72年頃にかけてNMM誌を始めとする雑誌メディアを舞台に展開された「日本語はロックにのるか否か」をテーマに行われた論争である。
『新宿プレイマップ』誌70年10月号がこの論争のきっかけだったが、これを受けるようにNMM誌71年5月号は「日本のロック情況はどこまで来たか」という特集を組み、座談会を開いている(出席者は内田裕也、大滝詠一、福田一郎、ミッキー・カーチス、松本隆、折田育造、小倉エージ、中村とうよう)。
この論争は、表面的には「日本語はロックにのるか否か」をめぐるもので、英語派=内田裕也と日本語派=はっぴいえんどの対立といった図式で捉えられているが、論争のプロセスで中村とうようは英語=内田裕也派を支持する立場を貫いたのである。
今になってみれば、当時のぼくのスタンスは、はっぴいえんど一派対裕也一派みたいなものを前提にしていたと思いますね。最初から立場がどっちの味方というのが決まっててそれで悪口を言うのは間違っているといわれればその通りかもしれません。けど、フォーク・ソングのときもそうですけど、片桐ユズルなんかとどうしても相容れなかったのは、片桐が言葉派だったという点です。ぼくはサウンドというよりビート派です。ロックの一番大事なところはビート一打に込めるその潔さだと思ってきているところがあって、まず言葉でウケようとするのは気にくわなかった。日本語で歌うと音楽じゃない言葉の部分によりかかって、音楽の真剣勝負にならないという、基本の部分を裕也とは共有していたんです。言葉がそんなに力を持っているんだったら、文学があればいいじゃないか、つまり音楽が文学じゃないのは、サウンドとビートに言葉では表せないぐらいの真実のメッセージを込めることができるからだと思っているんです。バエズやディランが素晴らしいと思ったときは、歌詞に重きを置いて捉えてましたよ。だからディランがエレキ・ギターとロック・バンドのバックで歌うようになった65年のニューポート(フォーク・フェスティバル)の一件でぼくもすごい迷いましたよ、ディランどうしたんだよと、理解できなかったんです。だけど、だんだんボブ・ディランの気持ちが分かるようになったとき、言葉よりもっと大事なものがビートとサウンドのなかにあるということがわかってきて、NMMに行き着いたんです。そういう考え方がベースにあるから、どうしても日本語で歌う一派に対して、警戒しちゃうというか、あんなものはロックじゃないやという裕也の言っていることに味方したくなっちゃたんです
中村とうようは今も言葉の問題を強調するが、実態としてはたんなる“使用言語”の問題を越えて、移入文化としてのロックをいかに受け入れるかをめぐる論争だったとぼくは考えている。はっぴいえんどは“日本語によるロック”を掲げながら新しいニュアンスの日本のポップを追求しようとした。内田は英語ロックによって普遍的なロック体験を追求しようとした。つまり、はっぴいえんどがロックを手法として相対化したのに対し、内田はロックを目標として絶対化し、ここに両者のロック観が衝突したのである。
いずれにせよ、一連の論争を演出し、体験することによって、70年代前半のNMM誌は、はからずも「日本のロックを育てる」という目標に向かって邁進することになった。以下に掲げる特集・記事は、「日本語ロック論争」において浮上してきた問題になんらかのかたちで関わるものばかりである。
- 71年12月号特集「ぼくたちにとっての伝統の問題」(中村とうよう、松本隆、あがた森魚、東由多加ほか)
- 72年5月号特集「日本のロック史を再検討する」(福田一郎、加藤和彦、ミッキー・カーチス、中村とうよう、内田裕也、北中正和、木崎義二)
- 72年11月号特集「まがり角にきた日本のロック」(内田裕也、中村とうよう、エディ藩、成毛滋ほか)
- 73年7月号特集「日本のロック界の新しい動き」(中村とうよう、小倉エージ、平田国二郎、大滝詠一、金子章平、竹田和夫ほか)
- 73年8月号特集「マスコミのタブーをつく」(竹中労、山口文憲、伊藤強ほか)
- 74年2月号特集「日本人の土着のうた」(竹中労、小島美子、松本隆ほか)
- 74年7月号「動き出した日本のブルース」(日暮泰文)「日本のロックの注目盤を追って」(平田国二郎)
- 74年8月号特集「日本のフォークは、いま」(小西良太郎、小室等)
75年のセンチメンタル・シティ・ロマンス問題にいたるまで、実は以上のような経緯があったのだ。キャロル(73年)やダウンタウン・ブギウギ・バンド(75年)がブレイクしたこともあり、「ロック」というジャンルも徐々に“市民権”を獲得しつつあったが、本場・米英のロックをなぞることでオリジナリティを探ろうとした内田裕也などの“本格派”ミュージシャンに対する評価は、けっして高いとはいえなかった。他方、はっぴいえんど系ミュージシャンは、荒井(松任谷)由実やフォーク系ミュージシャンなどのサポートをきっかけに存在感を示す機会も増え、ビジネスとして独り立ちしつつあった。少なくとも「英語」にこだわるかぎり、日本のロックの可能性はみえてこないことは明らかだった。言葉に関していえば「日本語ロック派」に軍配が上がっていたのである。
おそらく中村とうようは、センチメンタル・シティ・ロマンスを切り口として、劣勢だった内田裕也を代弁しようとしたのである。なにも英語ロックそのものを支持したのではない。サブカルチャーとしてのロックが、日本という土壌に定着するにしたがって無定型・無分別になるのをおそれ、ロック本来の文化的意義が拡散するのをおそれたのではないか。体制化(制度化)した歌謡界に取り込まれ、サブカルチャーとしての魅力を失ったとき、ロックの命運は尽きる。中村とうようはそう考えていたにちがいない。
中村とうようの意図はどうあれ、結果としてNMM誌がこうした問題提起を繰り返したからこそ、「日本のロック」が育まれたといっていい。米英のロックに関する情報を紹介する記事でさえ、「日本のロックを育てる」という目標に貢献した。たとえば、福田一郎の連載コラム「福田一郎のメモ帳から」とこれを継承した「ロック研究セミナー」などは、米英のロック史とパラレルに推移しなかったために日本のロック史から欠け落ちてしまった部分を補完する役割を担っていた。こうした記事が、一般読者はもちろん、ミュージシャン、ディレクター、評論家、編集者などに与えた影響ははかりしれない。
(日本のロックを)育てるという気持ちはあまりなかったですね。おこがましいしね。ただ、ぼくもロック・フェスティバルみたいなイベントもよくやったけど、どっちかというと聴衆のほうに働きかけることのほうが、意図の中心だったしね、こういう音楽をわかってくれる聴衆を増やしたい、そのためにはレコードだけじゃなくてね、ライブもやらなくてはならないし、ライブをやるためには本場から一流アーティストが来てもらうのが一番いい。最初はそんなことぜんぜん望めなかったから、日本のバンドに頑張ってもらって、本場に負けないいい音を出してもらって、そういう本物のロックの聴衆を増やしたいというような意図はありましたけど。ミュージシャンそのものを育てるというのはそんなに考えてなかったと思いますよ
中村とうようは「日本のロックを育てた」というのは過大評価だというが、圧倒的に異文化だったロックがNMM誌によって日本という土壌に定着していくプロセスをぼくたちは実際に目撃している。もちろんNMM誌だけが接着剤だったなどとというつもりはないし、彼らには功だけでなく罪もある。しかし、NMM誌がなければ誰も気づかなかった問題提起はひとつやふたつではない。NMM誌だからこそもたらされた情報も数多い。少なくとも70年代の「日本のロック」はNMM誌というロック・ジャーナリズムと手を携えるようにして成長してきたことは否定しようもない。
NMM誌は、たんにアーティストに関する情報を提供する場ではなく、ニッポン人がロックを聴き、ロックを創り、ロックを演奏する際に必要な情報を総合的に提供したという意味で、日本のロック・ジャーナリズムのパイオニアというにふさわしい雑誌だった。編集長・中村とうようの強い個性が、ときとしてこの雑誌を迷走させることもあったが、それもまた日本のロックが抱える問題を明らかにしたという意味で、歴史的に不可避の迷走だったのかもしれない。
しかしながら、米英の音楽市場でロックが圧倒的な勢力となって、日本の音楽市場でサザンオールスターズやゴダイゴといったバンドがブレイク、日本のロックが完全に市民権を得た70年代末になると、サブカルチャーとしてのロックを問い、日本ロックのあり方を問うといったNMM誌の編集姿勢はしだいに意味をもたなくなってしまった。ブルースやオールディーズに関する資料の提供、レゲエやアフロを中心としたいわゆるワールド・ミュージックに関する情報の提供などといった点では、まだ他誌を圧倒的に凌駕していたが、ロック・マガジン的な位置づけはもはや困難だった。一方で新しい胎動として出現したパンクの扱いは比較的クールで、熱心なパンク・ファンには食い足りない雑誌という印象を与えた。
こうした流れのなかで『ニューミュージック・マガジン』は80年1月号より『ミュージック・マガジン』と改名する。これはサブカルチャーとしてのロックを捨てたことを意味する重大な決断だった。忌憚なくいえば、そのとき中
村とうようの意図したロック・ジャーナリズムとしての使命は事実上尽きたのである。それは中村とうようの責任でも、編集部の責任でもない。時代が求めるロック・ジャーナリズムの性格が変質したということだ。NMM誌がもっていたコレクターズ・マガジン的な要素は姉妹誌『レコード・コレクターズ』(82年~)や日暮泰文編集の『ブラック・ミュージック・リビュー』(87年~)に引き継がれ、アーティスト論、作品論など文芸誌的な要素は他のさまざまな音楽誌に薄まりながら引き継がれていった。新譜情報は、今や外資系大型小売店やインターネットがいち早く提供するようになっている。
それでもなお現在の『ミュージック・マガジン』が存在意義をもつとすれば、それは正確なデータをベースとした「批評」でしかありえない。これこそジャーナリズム本来のオーソドクスな役割なのだが、日本のロック・ジャーナリズムに今もっとも欠けているものなのである。
これに関連して付け加えたいのは、89年から90年にかけて行われた中村とうようと渋谷陽一の「論争」である。
『ミュージック・マガジン』30周年ということと1900年代最後の年ということで、これまで自分が書いた原稿をまとめたんです。最初は、渋谷陽一とのやり取りなんかも記録として再録するつもりだったんですが、今になってみるといちばんいいたかったことが出ていない。当時の文章を再録しても、論争の外側だけが残って、核心のところが新しい読者に伝わらないんじゃないかなと思ってね。別に渋谷は一生許せないとか思っているわけじゃないし、こだわってもしょうがないなと、その部分は再録をやめたんです。渋谷君は再録しているけど(『ロックはどうして時代から逃れられないのか』96年9月・ロッキング・オン刊)、あれはあまりフェアなかたちじゃない
論争の経緯のすべてを取りあげることはできないが、以下でざっと振り返ってみたい。
コトの発端は、じゃがたらの江戸アケミ(故人)が、『ミュージック・マガジン』89年6月号の中村とうようとの対談において「渋谷陽一は信用できない」と発言したことである。渋谷陽一のラジオ番組「サウンド・ストリート」(NHK)でじゃがたらのライヴがオンエアされたが、その際に「パンク人民諸君!ロックを解体せよ」といった自分のメッセージや「プッシー・ドクター」という楽曲がカットされたことに対する不満を表明したのである。
渋谷陽一はこの時点では反論しなかったが、2カ月後、中村とうようは渋谷に反論を促すような刺激的な一文を「とうようズトーク」に寄せた(89年8月号)。
6月号に載せたじゃがたらの江戸アケミくんとぼくとの対談の冒頭で、彼が渋谷陽一のことを言っていた。その件で渋谷くんからアケミに苦情が来たらしい。(中略)いまのところ直接ぼくのほうへは何も連絡がないから、微妙なニュアンスはわからない。抗議というほど強い調子ではなかったのかもしれない。(中略)[録音を]削ったのはNHKがやったことであって自分は関知しない、などと(渋谷陽一が)言うとしたら、無責任だと言われても仕方ない。(中略)しかも『ミュージック・マガジン』がアケミくんの発言をそのまま発表したことをとやかく言っているとしたら、それはとんでもない勘違い、というよりお笑い草だ。
この一文によって沈黙していた渋谷陽一に火がつけられることになった。渋谷は中村とうように舌鋒鋭く迫る(『ロッキング・オン』89年10月号)。
殆ど錯乱したとしか思えない文章だが、どうしたんでしょ先生は。自分で書いていて、この「らしい」とか「かもしれない」とか「したら」とか、「だったら」とか、相手を名指しで批判し、論争しようとする文章の根拠となる事実を伝えるのに、絶対使ってはいけない表現があまりにも多すぎることに気づかなかったのだろうか。そこまで、いくら現役を退きつつあるとは言え、中村とうようはボケてしまったのだろうか。
渋谷陽一によれば、中村とうようの一文は事実誤認と憶測にもとづくものであって「物書きとしての衰弱を自ら証明してみせたもの」ということになる。
この後、『ミュージック・マガジン』89年12月号、『ロッキング・オン』90年1月号、『ミュージック・マガジン』90年4月号、『ロッキング・オン』90年5月号などを舞台に「論争」は継続されるが、議論はほとんどかみ合わないままに終始した。
問題の発端となった江戸アケミの発言や楽曲のカットは、渋谷陽一の承認の下、NHK主導で行われたことを渋谷自身は事実上認めている。その上で、番組の趣旨はじゃがたらというインディーズのバンドのもつ魅力を紹介することにあったから、それは決定的な問題ではなかったと主張した。これに対して中村とうようは、江戸アケミの不満をぶつけるようなかたちで渋谷批判を展開した。当の江戸アケミは、渋谷陽一を非難したことが気になったのか、『ミュージック・マガジン』89年6月号発売直後に、ロッキング・オンに電話をしたり、事務所を訪れて渋谷陽一と食事を共にしたという。その席で、中村とうようとの対談における自分の発言はすべて事実であると認めたらしいが、端から見れば江戸アケミの行動は渋谷陽一に対する「謝罪」と受け取れなくもない。ロッキング・オンを訪ねたその後に江戸アケミが中村とうように何を伝えたかはわからないが、一連のプロセスを見ると、江戸アケミの行動や発言が両者の感情を掻き立てた可能性は否定できない。
あらためてこの「論争」を検討してみると、その大半は「売り言葉に買い言葉」といった様相を呈しており、客観的に分析する価値は乏しい。録音テープのカットは、権限としてはNHKに属するもので、形式的には渋谷陽一に責任はないが、渋谷陽一が承認した上でのカットであるから、その意味では渋谷も責任の一端を担うことになる。中村とうようはこの点を捉えて、「パンク人民」と呼びかけるじゃがたらの言論や表現の自由を封殺したと渋谷陽一を批判することはできる。が、渋谷側は、「プッシー」の連発は社会秩序を乱す可能性もあるし、作品としてもロクなものでないから、これをカットするのは当然の編集権であると反論することもできる。こうした議論をつづけていけば、論争のあり方としては正しいとしても、問題はどんどん音楽を離れて、「権利とは何か」「自由とは何か」「憲法とは何か」というレベルに到達してしまう。そもそもそういう方向に流れる可能性を秘めた論争、つまり音楽誌という器には収まりきらない代物だった。
中村とうようも渋谷陽一も、音楽雑誌編集者としての直観からか、議論がそうした方向に流れるのを半ば意識的に避けた節がある。避けたのはいいが、そもそも「自由とは何か」「権利とは何か」を問うことによってしか出口は見えてこない問題である。両者とも言葉を発したとたん、袋小路に突き当たってしまうのは当然といえば当然、非難の応酬がロック・ジャーナリズムという路地裏で虚しくこだまするばかりであった。今になって冷静に判断すれば、形式的には論争でありながら実質的には論争になりきれない、文字通り生煮えの論争に終わってしまった。
実はこれまで誰も指摘していないが、中村とうようも渋谷陽一も、詩人で思想家の吉本隆明(吉本ばななの父)の影響下に評論活動を展開してきた。その吉本隆明が編集・発行していた『試行』誌には「情況への発言」と題する、文壇や思想界に論争を仕掛けることで有名な挑発的コラムが連載されていたが、「とうようズトーク」(とくに70年代のそれ)も渋谷陽一のコラムも、しばしば筆致や論の構成が「情況への発言」と驚くほど似通っていた。渋谷に至っては、『試行』のような雑誌を出したかったと明確に述べたこともあるほどで、文体まで吉本隆明にそっくりだった。一方は70年代前半までの吉本隆明(=中村とうよう)、他方は70年代後半以降の吉本隆明(=渋谷陽一)という違いこそあったが、「中村=渋谷論争」は、“二人”の吉本隆明が衝突したかのような印象さえ与えた。
一般のロック・ファンからすれば、この論争はロック・ジャーナリズムの世界における二大巨匠のバトルに見えた。というより、日本のロック・ジャーナリズムの世界は、中村とうようという「権威」と渋谷陽一という「権威」が対立的に並存する構造にあるということを強く印象づけたのである。比較的若いロック・ファンにとって中村とうようは、「カリスマ・渋谷陽一にケンカを売ったボケ老人」として記憶され、古くからのロック・ファンにとって渋谷陽一は、「正統派・中村とうように噛みついた成り上がり」として記憶された。
が、この二つの権威はほんとうは「水と油」ではなかった。むしろ同じ根っ子を共有しているといっていいかもしれない。だからこそ逆に対立の根も深くなってしまうのだ。
中村=渋谷論争は、論争自体としてはあまり意味がなかったものの、これまで見えにくかった日本のロック・ジャーナリズムの特質をはからずもあぶりだすことになった。それは、日本のロック・ジャーナリズムの影に吉本隆明あり、言い換えれば日本のロック・ジャーナリズムは戦後の文芸批評や文明批評をモデルとしながら、その時代的なバリエーションとして存在意義を主張してきた、という特質である。もっといえば、かつて若者たちは文学を読み、文芸批評を求めた。70年代以降の若者たちは文学を捨ててロックを聴き、ロック批評を求めた。そしてゲーム・カルチャーが進展するにつれ、ロックとロック批評は危機に瀕するようになった。中村=渋谷論争において、ほんとうに明らかにされなければならなかったのはまさにこの点だったが、空を切るような言葉の応酬に終わり、本質的な部分をえぐり出せずに終わった。このとき日本のロック・ジャーナリズムは、その自立性と存在意義を再構成する絶好の機会を逃してしまったのである。
したがって今も課題は残されたままだ。ロックとは何か、はたまたロック・ジャーナリズムとは何か。あるいはぼくたち自身にとってブンカは何か。日本のロック・ジャーナリズムの伝統を支えてきた『ミュージック・マガジン』が、こうした問いかけに応える責任があると考えているのは、果たしてぼくだけだろうか。
(文中敬称略)