「共同幻想論」と「琉球独立」 (1)

1.パスポートとマンハッタン

大韓航空機が撃墜され、エイズが知られるようになった1983年の9月9日。20代半ばだったぼくはその日旅人としてニューヨークにいた。マイアミに向かう予定だったが、フライトまでだいぶ時間があったため、滞在先の安宿をチェックアウトして、マンハッタンの中心部にあるヒルトン・センターのラウンジで時間を潰していた。数日間日記を怠けていたので、ぼくはノートに筆を走らせるのに夢中だった。

「あなた何か盗られていない?怪しい中年男があなたと背中合わせのシートに座ったけど、何も注文しないですぐに出てったわよ」

ウエイトレスがやってきてぼくにそう告げたときは、あとの祭り。脇に置いていた手提げのなかからパスポートと航空券が入った皮のケースが消えていた。あわててホテルのセキュリティに訴えたが、泊まり客でないぼくには冷淡な対応。セキュリティの描いてくれた雑な地図を頼りにニューヨーク市警の分署を訪ねた。

レセプションで事情を話すと、でっぷり太った黒人女刑事の部屋に連れて行かれたが、彼女はぼくを一瞥すると、鞄からサンドイッチを出していきなり食べ始めた。なんとまあ失礼なヤツだと思いながらも、「お食事中すみません。盗難にあったので届けを出したいんですが可能でしょうか」と低姿勢で話しかけると、「あんたね、見りゃわかるだろ!あたしのランチが終わるまで待てないのかい」とつれない返事。こちらは大事なものを盗まれているので気が気じゃない。航空会社(今は亡きパンアメリカン、パンナムである)の窓口や日本領事館に行って善後策も相談しなきゃならない。金曜日だから今日を逃したら来週まで届けもずれこんでしまう。彼女が食事を終える20分間のなんとまあ長かったこと。

なんとか盗難届けを出して、控えをもらい、それをもってクライスラービルの近くにあるパンナムのオフィスと日本総領事館を順にめぐった。航空券は買い直すことになったが、盗まれた航空券が誰にも使われな ければお金は戻ってくる。問題はパスポートだ。幸い書面のコピーと写真は無事だったので手続きそのものは早かったが、それでも来週の火曜にならないとパスポート代わりの「渡航証明」はもらえない。つまり、金土日月の4日間、自分の身分を証明するものは何もないことになる。手持ちのお金は無事だったし、買い直した航空券もある。だが、日本国民であることを証明する書類はなにもない。どこかでIDを出せといわれてもなにもない。殺されても身元不明者として処理される。家族はぼくが死んだことも知ないで終わる。不安だらけだ。ぼくはマイアミに行くのを諦め、安宿を探して4日間じっとしていることにした。

パンナムの日本人職員に力を貸してもらい、安宿はすぐに見つかった。ダウンタウンにある築70年の10階建て。が、いかんせん古い。狭いながらも個室だが、驚いたことにドアにはフック式の内鍵しかついてない。古い民家や飲み屋のトイレについているヤツだ(イメージ写真参照)。つまり外出時に鍵はかけられない。在室中でも暴漢が蹴り飛ばしただけで簡単に侵入できる。山谷や新宿のドヤ街の話ではない。80年代とはいえニューヨークのマンハッタンにあるホテルの話である。

結局、スーパーでパンとチーズと水を買い込み、ほとんど外出せずに4日間をまんじりと過ごした。

アオリ止め

フック式の室内鍵。アオリ止めというのが正式名だそうだ。

2.国家とは何か〜「共同幻想論」の問題提起

ふだんの暮らしで「自分は日本国民である」と意識することはほとんどない。外国に旅に出れば出入国時にパスポートは必要だが、ホテルや銀行で提示を求められるケースは減っている。クレジットカードやATM が世界中に普及しているからだ。だが、ひとたびトラブルに巻きこまれれば、「日本人」ということを否応なく意識させられる。パスポートがなければ自分がナニモノであるかを証明することもできない。日常のなかで、国籍とはそういうものである。国家はパスポートとしてぼくたちの前に立ち現れるということだ。

近世以降、日本から外国(中国・朝鮮など)へ旅する者は、何らかの証明書(身分・目的などを証明する書類)が必要だった。琉球国も同様だった。幕府、王府、藩主などが、旅人や出張者のIDとなるものを交付し、「外国」の担当者はその書類をチェックした。そうした書類がなければほぼ確実に罰を受けた。外国で罰を受けるだけではない。日本でも(琉球でも)無断渡航は刑罰の対象だった。つまり、構造としては現在とほとんど変わらない。今よりも曖昧だったろうが、国家や国境は制度として「実在」した。関連する事務手続きや司法手続きも必須だった。海外渡航は、あるいは出入国は、歴史的に「法による支配」を受けていたのである。

これは、マルクスや吉本隆明がいう「国家の止揚」とはまるで別次元の話だが、「国家の樹立」とか「独立」といった事業にとってきわめて現実的な意味をもっている。だが、それはただそれだけの話であるともいえる。海外に出ることがなければ国籍など意識することはない。パスポートをもたない海外旅行と無免許運転はどこが違うのか、と問われれば、法令違反という点で変わらない。見つかれば罰を受ける。それは法の支配下にあるという点で国家の本質と関係はもつが、国家の生成に関わる本質とは別の問題である。

「国家とは何か」という問題は、きわめて抽象的かつ観念的な概念である。

国家は国民のすべてを足元まで包み込んでいる袋みたいなもので、人間はひとつの袋からべつのひとつの袋に遷ったり、旅行したり、国籍をかえたりできても、いずれこの世界に存在しているかぎり、人間は誰でも袋の外に出ることはできないとおもっていた。わたしはこういう国家概念が日本を含むアジア的な特質で、西欧的な概念とはまったくちがうことを知った。まずわたしが驚いたのは、人間は社会のなかに社会をつくりながら、じっさいの生活をやっており、国家は共同 の幻想としてこの社会のうえに聳えているという西欧的なイメージであった。西欧ではどんなに国家主義的な傾向になったり、民族本位の主張がなされる場合でも、国家が国民の全体をすっぽり包んでいる袋のようなものだというイメージでかんがえられてはいない。いつでも国家は社会の上に聳えた幻想の共同体であ り、わたしたちがじっさいに生活している社会よりも小さくて、しかも社会から分離した概念だとみなされている。

→吉本隆明『改訂新版 共同幻想論』(1982年・角川文庫)所収「角川文庫版のための序」(p.6)より

共同幻想論

『共同幻想論』(河出書房新社)は1968年に出版された、吉本隆明のベストセラーで代表作である。このブログで底本として取り上げる角川文庫版の序文は1982年。その間、14年の歳月が流れている。直観的にいえば、この14年間に日本も世界も大きく変化している。その変化は、テクノロジーの変化であり、テクノロジーに伴う生活の変化であり、生活とパラ レルに推移する文化の変化であり、そして政治・経済の枠組みの変動である。その後、1989年にベルリンの壁が崩れ、いわゆる「マルクス・レーニン主義」や「毛沢東主義」などにもとづく集権的な経済体制は事実上崩壊している。政治的にいっても「共産党独裁」という遺制が残されたのは北朝鮮とキューバぐらいになった。

批評.COM  篠原章
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