参院選沖縄総括—安里繁信落選 「犯人捜し」の頓珍漢

はじめに

辺野古移設の賛否をあえて問われればぼくは移設に懐疑的な立場である。国費の壮大な無駄遣いに終わる可能性があるからだ。海兵隊の縮小・一部撤退が決まっているのに、政府はそこまで辺野古に拘る必要はない。が、政府は「一度決めたことだから」と辺野古移設を推進してしまった。そのおかげで、風前の灯だった反対運動(左翼運動)の息を吹き返させてしまった。辺野古がなければ、社民党などとっくに消滅していた。共産党の党勢も弱まっていた。中核や革労協も行き場がなくなっていた。政府は左翼に辺野古という恰好の「エサ」を与えてしまったのである。

左翼がなぜ批判さるべきものかというと既得権益の塊だからである。自治労や日教組がその象徴だ。彼らが頑張れば頑張るほど、国民・市民には不利益がもたらされる。非正規の労働者も思わぬ割を食う。保守的な一部経営者と左翼の利害は既得権益の堅守という点で一致するから、一部保守派と左派は阿吽の呼吸で、この世界が前に進むのを阻んできた。国家予算が拡大すればするほど左翼の権益も膨らむ。言論空間も歪む。国民・市民はいい面の皮である。

「辺野古移設容認・反対」の議論に積極的に関わろうとすれば、返って無駄遣いを膨らませてしまうことになりかねないから、ぼくはこの問題に距離を置くことにした。ぶつぶつ文句はいいつづけるが、対立の構図に取り込まれるのはもう勘弁だ。

もっとはっきりいうと、辺野古をめぐる論争は、われわれの直近の課題である経済や社会の問題を薄めてしまう、または歪めてしまう可能性が高い。辺野古移設の可否にかかわらず、沖縄の(あるいは日本の)貧困はなくならない。沖縄の貧困は基地問題と結びついてはいるが、基地問題の解決を待っていたら、いつまでたっても貧困はなくならない。貧困だけではない。基地問題と切り離したところで解決しなければならない問題は山ほどある。

で、結論。

辺野古の問題を最大の争点にしたい人々は、左右にかかわらず、みな周回遅れの経済観や社会観を持っている人々だと決めつけることにした。または既得権益で喰っている人々だと見なすことにした。

今回の「参院選総括」は、以上のような視点の下に書かれていることをお含みおきいただきたい。

沖縄タイムスの報道

参院選沖縄選挙区で敗れた自民党公認の安里繁信候補の敗因分析に関連した記事で、沖縄タイムスが自民党県連幹部による「安里氏擁立は戦略ミス」「これで懲りて、次期知事選や国政選挙を諦めてくれればいい。そう考えれば、参院一議席の犠牲は仕方がない」などといった発言を取り上げたことについて、自民党沖縄県連が抗議の記者会見を開いた。「そうした事実はない」というのが県連の立場だ。

【関連記事:琉球新報 2019年7月24日付 「自民県連が沖縄タイムス紙に異例の抗議 参院選連載の記述を問題視」】

沖縄タイムスと琉球新報に加えて朝日新聞と毎日新聞も、「県連による抗議は報道の自由を犯す」という立場の記事を掲載しているが、これらが「事実」とされたら公党としての面子が丸つぶれになるから、県連は抗議せざるを得なかったというのが真相だろう。圧力というより面子の問題である。

事実関係について県連は否定する一方、沖縄タイムスはしっかりと裏づけ取材をしているというが、率直にいって、抗議する側にも、その抗議を圧力だと批判する側にも、どこか芝居じみたものを感ずる。

敗戦を受けて、県連や県連支援者のあいだに「安里を選ばなければ良かった」という不満が燻っていることは事実だ。彼らは「辺野古推進とは口が裂けても言えない」といった安里候補の主張に敗因があると考えているからだ。沖縄タイムスは県連内部のそうした不満を巧みにすくい上げて、自民党の分裂を印象づける記事を仕立て上げたわけだが、県連幹部側の「意図的」なリークという印象は拭えない。県連があわてて抗議の記者会見を開いたら、今度はその抗議も「圧力」として糾弾するなど、沖縄タイムスもなかなか周到である。沖縄タイムスも「圧力」などとは露ほども思っていないはずだ。むしろ、ドヤ顔で「してやったり」といったところだろう。

犯人捜しの頓珍漢—安里候補は「辺野古反対」なのか?

正直に打ち明けると、この一件、どうでもいいと思っている。やりたければ勝手にやってくれ。選挙後の犯人捜しはいつものことだが、相変わらず笑止千万、頓珍漢極まりない。ただ、こうした記事が出てくる背景についてはひと言いっておきたい。

たしかに安里候補は「辺野古推進とは口が裂けてもいえない」といったが、昨年来の名護市長選、沖縄県知事選、衆院沖縄3区補選で、自民党の支持する候補は「辺野古推進」を公約に掲げたろうか。

名護市長選で自民党の支持する渡具知武豊候補は、「国と県の裁判を注視したい」といって辺野古を争点にしない構えを見せ、当選を果たした。

沖縄県知事選で自民党の支持する佐喜真淳候補は、「普天間基地の一日も早い返還の実現を求める」といって、辺野古には触れない姿勢を通したが、結果的に落選した。

衆院補選で自民党の指示する島尻安伊子候補は、「普天間の危険性除去を考えたときに辺野古に移すことが現実的だ」と主張して闘ったが、これもまた落選した。

いずれも「辺野古を争点にしない」、つまり事実上「辺野古容認」の立場で選挙に臨んだということだ。では、安里候補は「辺野古容認」ではなかったのか。彼は、「辺野古推進とは口が裂けても言えない」とはいったが、「辺野古移設反対」などとはひと言も発していない。埋め立て承認が最高裁によって適法であるとされ、埋め立てが着々と進んでいる段階で「今さら後戻りできますか?」と問いかけながら選挙戦に臨んだのである。

つまり、安里候補の姿勢もまた容認だったことになる。その点で他候補と大きな違いはない。安里氏が「県民投票の結果を受け入れる」といった点を捉えて「安里氏は辺野古埋め立てに反対だった」という人もいるが、合法的な手続きを経て行われた(ただし、法的拘束力のない)県民投票の結果を、考え方が違うからといって否定することはできないといったまでの話で、安里候補自身が「埋め立て反対」だったわけではない。

県民投票の折に自民党や保守派は、「埋め立て賛成に投票しよう」あるいは「どちらでもないに投票しよう」というキャンペーンは張らなかった。投票ボイコットも推奨しなかった。保守派のリーダーのほとんどは、ただ黙って見ていただけである。「賛成」とも「反対」とも「どちらでもない」とも明言せず、投票ボイコットも口にしなかった人々が、「(民主主義における意思表明の手段としての)県民投票の結果は尊重する」といった安里氏を追及するのは、自らの責任を回避しようとする行為だ。無責任の誹りは免れない。

安里繁信のリアリズム

ところで、容認の立場に括られる安里候補の主張と他の自民党系候補のそれのどこが違ったのだろうか。

安里候補の主張の特色は、辺野古埋め立ての賛否に真っ先にこだわる時代に終止符を打ち、まずは既存の基地縮小計画を前提に現実的な経済の見取り図を描くことに専心すべきだ、というところにある。徹底したリアリズムだ。そのリアリズムを強く印象づけるために「辺野古推進とは口が裂けても言えない」という言葉を選んだのである。

AIやエネルギー革命という装束を纏った新しい時代の潮流は待ったなしで押し寄せる。ナショナリズムという脇道にそれながらも、グローバリズムも間違いなく深化する。われわれは時代のそうした大きな節目に立っているのだから、「基地か経済か」という選択をめぐって争う余裕すらないのが現実だ。その現実を踏まえながら将来世代のための「仕事」を考えたとき、政府との消耗戦に貴重な資源を投入するのではなく、「豊かな沖縄」をつくるために資源を投入することが最優先だ、というのが安里候補の主張である。要するに、自ら工程表を描けないような問題にかまけている場合ではない、というのが彼の基地に対する基本的なスタンスだ。最大の課題は2022年から始まる新しい沖縄振興策をどう組み立てるかであって、それ以外に大きな課題はないと認識していたに違いない。もっといえば、「辺野古推進」「辺野古容認」「辺野古反対」など政策ですらない、たんなる空虚なスローガンだ。主体的に取り組める課題ではない。安里候補はそうした認識で選挙戦を闘ったのである。

「辺野古推進とは口が裂けてもいえない」という言葉を使ってまで奮闘した安里候補のリアリズムだが、自民県連や有権者に理解されたかといえば、それはきわめて怪しい。安里候補の側の選挙戦術にも不十分な点はあった。が、自民党支持者にも安里氏を理解しようという気持ちは薄かったと思う。かたちばかりの応援で、「実質的に何もしない」自民党幹部が何と多かったことか。安里候補は無党派層に浸透することで、身内の無理解を乗り越えようとしたが、そのための戦術は明らかに不十分だった。若者や無党派層のムーブメントを起こすには至らなかったのである。その点は大きな反省材料だ。

「翁長雄志ロス」を克服できない自民県連を捨てて「中道」を走れ

安里候補が「自民党公認」で闘ったのは、二階俊博幹事長の意向や公明党との選挙協力を尊重してのことだろうが、「無所属」あるいは「安里県民党」といった立場で、より広汎な支持層の開拓に努める手法もあった。翁長雄志前知事が離れて以降、自民党沖縄県連は「糸の切れた凧」同然の状態が続いており、翁長ロスを克服できないまま知事選挙・国政選挙に負け続けている。組織はあるが心も目標もない状態だ。安里氏の今後の身の振り方は不明だが、「自民党沖縄県連に頼らない選挙」のあり方を模索する必要があるだろう。ちなみに「オール沖縄」は、玉城デニー知事の柔軟さがクッションになって翁長ロスを概ね克服している。敵対する自民党県連が翁長ロスを克服できないとは、彼らの存在意義が問われる危機的な事態だ。

安里氏は「保守中道」を標榜した。久しぶりに聞いた「中道」という言葉はとても新鮮だった。政治の世界で「中道」は人気がないが、イデオロギーや政治的立場を超越した安里氏のような徹底したリアリズムが「中道」であるとすれば、「中道」は再建・再構築する価値がある。党内の受け皿も党外の受け皿もない自民党が、無数の傷を負いながらも政権を維持できている現状はやはり不健全だ。フレッシュな「中道」の確立は政治の世界のこうした体質をも変えてしまう可能性を孕む。

ぼくたちはもう「賛否二択」の社会にはうんざりしている。リアリズムに基づいた合理的な政策選択を可能とする「中道」尊重の社会こそ、生き残る道ではないのか。安里氏の立候補と敗戦に意味があるとすれば、まさに「生き残る道」を示したことではないかと思う。

批評.COM  篠原章
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